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負けず嫌いとか人格障害の文脈の話だが、反則負けを狙う業病になっている人がいる。負けるとしても反則負けなら格好がつくし、無効試合みたいなものである。だからたとえば有村悠さんのような頭の悪い人はいつも反則負けを狙っている。怪しい歴史知識を凶器のように振り回しては反則負けで意気揚々と退場していくわけだ。反則負けは勝ちに等しいということらしい。有村悠さんは東大文学部西洋史学科中退なのだが、東大を退学処分になっているわけで、さすがに歴史学において完全敗北だと思いきや、あくまで不登校による中退だからガチで負けたわけではないらしい。美人東大生に告白して面罵されて不登校という経緯からして、田舎のガリ勉が東大で詰んだということだろうが、決して東大文学部西洋史学科で勉強したわけではないので不戦敗なのだ。ガチで戦うと負けるのがわかってるから反則負けを繰り返している。たまたま有村悠さんというわかりやすい事例で話しているが、世の中にはこうなってしまった人が少なからずいるのである。対処する方法はないので敬遠するしかない。反則負けを狙う人間と争って勝ったとしても、反則勝ちとか不戦勝にしかならないので不毛である。それこそ東大を優秀な成績で卒業した人でさえ、有村悠さんに反則勝ちしたに過ぎない。不戦勝は本当の白星だろうかという疑義をうまく利用している。狡猾に戦わずして勝った卑劣漢もいれば、東大できちんと勉強して有村悠さんに不戦勝した人もいるわけで、不戦勝は多種多様である。有村悠さんが土俵に上がればエリート東大生に捻り潰されるだけなのだが、早々と不登校になっているから、まだ本気を出してないと言い続けてるし、反則負けのヒールとして偉そうにしているわけだ。勝敗は明らかというのは容易いが、東大卒だと他の人類全てに勝ったのかというとそうではあるまい。いちいち勝ち負けを決めるのが不毛だということになるのだが、有村悠さんはここをうまく利用しており、エリート東大生に反則負けしただけだと主張しているのである。もし東大文学部西洋史学科を卒業している人が有村悠さんの怪しい歴史知識を論破しようとしたとしても、有村悠さんはミスターサタンのように不戦敗か反則負けを狙ってくるだろうし、しばらくすれば不可解な勝利宣言をするわけである。
われわれは世界に没入して存在しているのだが、没入するというと没入以前の自分があったというイメージになるから語弊がある。われわれは泥土のような土くれから生まれてネズミ講のように繁殖し、破産たる死を迎えるが、そのすべてはこの穢土における輪廻である。宇宙の真理を体現する一輪挿しのようなものではなく、輪転機に刷られて紙屑として舞い散るボウフラが個々のプライドを持っているのは莫迦げているが、そもそもこの天の川銀河のどこにも、もしくはアンドロメダ銀河にもプライド自体はないだろうから、この地球上のボウフラの特権的な機能なのである。ともかく自我の強さという奇妙な現象が地球上にはある。何を言われても頑なに拒絶するのは発達障害者だと思われているが、おそらく他人に指摘されるのを嫌うのは人類普遍であるし、むしろ正常人の特徴である。自閉症が何かしらこだわりをもっているとしたら、それは治せないのである。もはや物理的に灰燼に帰しており手の施しようがない。それに対して健常者は人から言葉で指摘されること自体を嫌うのである。直すのは簡単でも、指摘されたからこそ直さないこともあるのだ。間違いを認めるとマウントを取られるので、自分が正しいと言い張るのだろうが、ともかく思慮深さによるものではなくただの本能である。健常者はこの地球世界に馴染んでおり、あらゆることを自明だと思っているから、その自明性の原理に従い、説明は端折ることにしている。言葉に出すというのはひとつの政争であり、戦端を開くことであるから、ひとびとは他人の問題点を露骨に指摘しないように気を付けている。そもそも問題点というのも流動的であり、たとえば既婚者の不貞行為が絶対悪かというと、一昔前はそうでもなかった。飲酒運転は現在は厳罰化されているが、半世紀前なら酒を飲んで車を運転するのはただの交通違反であり冗談で済んだ。不倫は悪い、飲酒運転は悪いという常識的な正邪はあるものの、その罪の軽重は変動する。人倫の課題は政治的であり、罰を与えて懲らしめようという攻撃的な意図はある。発達障害者は正義感を持ちやすく、また言葉に出してしまうタブーを意に介してないから、他人のあれこれを指摘して怒りを買うのである。指摘する能力が高いというよりは、言葉で説明して辛うじて世界を理解しているからそうなるのである。あるいは、自分の思い付いた方法でやりたいというのは自閉的だが、これは政治的動物たる健常者にも見られる。成功者が他人に口を挟ませず成功体験に囚われて迷走する光景は絶えることがない。他人から改善策を示されてああそうだと納得する人間ばかりではない。途方に暮れて改善策を探している状態もあるわけで、そこに卓抜な方法を提案すれば感謝されるであろうが、他人が解決策を求めているのかどうか空気を読まなければならない。無知蒙昧な愚衆からゴミのような解決策を提案されてうんざりということもあろうしなんとも言えないが、ともかく自分が思い付いた方法でやりたいというのは障害者特有ではないし人間そのものなのである。
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わたしはもちろん内情について知るわけではないが、ごく普通の想像として、100歳過ぎまで生きていた母方の祖母の年金が有村家の収入源だったと思う。
(有村悠さんの本名は坂口拓二だが、なぜか本名を憎悪しているらしいので、これからも有村家と呼ぶことにする)。
わたしは有村悠さんの祖母の年金についてまったく知らないし、傍証すらないのだが、さしたる収入源も見当たらないし、やはり祖母が100歳過ぎまで生きていて、充分な金額の年金を貰っていて、それが有村家の生活を支えていたと想像するのが妥当であろう。

相続税は少し前だと四%の人しか払っておらず、法改正で基礎控除が減額されてからもたぶん六%くらいである。
法定相続人が有村さんのママンだけだったとしても、3600万円は基礎控除があるから、おそらく相続税を支払うレベルではない。
相続税は死亡から十ヶ月で払うことになっており、2017年7月に祖母が死んでだいたい十ヶ月目であるから時系列は合うが、やはり3600万円を越えていることはないはず。

ママンに兄弟姉妹がいて、そこと相続で分割したという想像もできる。
あるいは、ママンだけが相続したとしても、肝心な祖母の年金がなくなったのであるから、生活を切り詰める必要があるだろう。

なんにせよ、祖母の年金うんたらは想像であり、とりあえず妥当な想像だとは思うが間違いかも知れないので、これ以上長々と書いても仕方あるまい。

引っ越しということだが、有村さんは相変わらずママンと同居すると思い込んでいるらしい。
というより、ママンからもそのような話があったようだ。
金銭的困窮が原因だとすると、ママンが生活保護で、有村悠さんはボロアパートで一人暮らしというのが妥当だと思われるが、このあたりは謎である。
二十年前に東京大学合格発表の掲示板の前で胴上げされた時は、こういう人生は予想だにしなかったであろう。
有村悠さんは人生そのものがサナトリウム文学という御仁であり、直に接した人からは蛇蝎のごとく嫌われているが、遠くから見ているわれわれからは絶大な人気がある。
経済的な問題としてママンとの決別を迫られる展開もありえるが、われわれは非常に遠い処から帰趨を見守るだけである。
同一性の問題は時間の経過を問うていることが多く、十年前の自分と本当に同一人物かという疑問が典型だが、ここではそういうアプローチではなく、時間の流れとは別問題として、同一性とは何かという話である。アスペルガー症候群のこだわりは最近よく知られるようになったが、たとえば「この本」でなければ駄目だというのである。その本が十万部刷られているとして、常識的にはその十万部すべては同じ本のはずである。だがアスペルガー症候群にとっては十万部それぞれがオンリーワンであるらしく、自らが愛着を持った「この本」にこだわり、同じ本を買い与えても「同じ本ではない」と言い張るのである。これは普通の感覚と違うから障害者とされる。とはいえ行政が区画整理をして道路を広くしたいと考えたとして「この家」にこだわって立ち退きに抵抗する人は健常者でも有り得る。同等の価値のある物件もしくは金銭を提示しても、自分の家には愛着があり、市場価格が同一ならいいというものではない。「この本」に固執して同じ本を拒絶するのが障害者であるなら、「この家」へのこだわりも自閉症疑惑が持たれてよさそうだが、同価格の物件というのでは近場であっても同一とは言えないし、いわゆる交換可能性の話である。一万年くらい前から人類が定住するようになったことで文明が生まれたとも言えるし、とりあえず棲家を変えないのが健常者の感覚なのであろう。とはいえよくあるライフスタイルの問題として、引っ越しが好きな人もいれば嫌う人もいる。社交的だと気軽に引っ越すわけではなかろうが、環境の変化を好む人だっているわけだ。つまるところ社会的に流動性が求められているかどうかなのである。何かしら社会的流動性が生じたときに変化に対応できないと障害者扱いなのである。パートナーなど交換可能だから「その相手」でなければならないということはないので、愛妻家は陋習に囚われた頑迷な人間と言えないこともないが、それは屁理屈と扱われるだろうし、唯一無二という感覚がすべて削がれたわけではないが、全般的には代替品を受容できる方が健全だとされる。おそらくこの拙稿に結論を附する必要はあるまいが、モノを交換するのと人間を交換するのはさほど径庭がないのかもしれないし、愛妻家とは逆に、ゴミを捨てるようにして人間を捨てる人だっている。加計孝太郎は長年連れ添った妻と離婚して二十歳年下の美人と再婚したが、お友達の安倍晋三は安倍昭恵と別れそうにないし、あれだけ深く友誼を結んだ人間同士でも価値観が異なるのだから、これはなんとも言えない。
昭和というのは時代そのものが戦争であり、あれに比べたら最近の若者のマナーのよさに驚くのだが、これが親子連れとなると、だいたい父親の態度が悪い。先程もスターバックスに行ったらわたしより少し前に親子連れが入って、父親と娘という組み合わせだったが、スターバックスの構造としてよくあることで、列に並ばずにショーケースに並んだケーキを見たりしていたわけである。わたしは真っ直ぐレジに並んだのだが、しばらくして親子連れが私より前に注文する気満々でやってきたのでわたしは譲ったのである。それだけであり、ここでどちらに優先権があるのか目を三角にして論じる話でもなかろうが、最近の若者だったら(店内に先に入ったとはいえレジに並ばずにあちこち見ていたので)遠慮するというか、このところこういう体験を繰り返している。礼儀正しい若者から気を遣われてこちらが恐縮することはたくさんあるのだが、なぜか父親が子どもを連れていると図々しい。これが母親と子どもだけだとずいぶん周りに気を遣っているから、やはり父親が子どもを連れていると図々しいのである。二十歳かそこらの若者はマナーがよく、三十代くらいの若い父親が図々しいという具合だから世代の違いもあるし、昭和から平成に切り替わったのは1989年だが、90年代前半は景気回復を予想する論調も強かった。怪物のように膨れ上がった不良債権が、まだその野卑な欲望を手放すまいと悶絶していたのである。その多士済々たる旦那衆を世界から退場させる作業は重苦しいものであり、大立者の醜い素顔が梟首台に並ぶ光景に安堵するよりは、彼らの虚像の写し絵のような大不況がわれわれに降り掛かってきたのだから、名誉も栄光も英雄譚もなく、内戦の窮民のような苦役を体験したのである。足るを知るという知恵なのか欲望そのものを小さくして草食化したのは21世紀からであろう。30代だと昭和の空気を吸っている、もしくは昭和の断末魔の血腥い残り香に毒されながら育ったと言える。先程の親子連れも娘の分(ストロベリーのフラペチーノ)だけ注文して一緒に席に座るわけでもなく父親がウロウロしていたのだが、普段は普通であろうし、障害者ということはない。母親はママ友同士で神経を擦り減らしているのに対して、父親は傍若無人で偉そうというか、しかし、これが気になっているという話を聞かないので、わたしの感覚がおかしいのだろう。
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