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2018.07.29
視線を落とす上品さ
周囲をよく見なければならないが、ジロジロと眺めるのはよくないし、目が泳いでもよくない。むしろ視線を落とすのが気品ある立ち振る舞いである。辞書的な定義はともかく、わたしなりに分類するなら、目を伏せるのは自分の世界に入る自閉性であり、視線を落とすのは敢えて目線を外部に這わせない慎み深さである。視線を落とすと人間は落ち着くようになっているし、意外と周りも見えている。視線の品位は生得的なものであるから後天的に身につけるのは容易くないが、不可能というわけでもない。目を伏せて自分の世界に入っている自閉的人間と、慎みとして視線を落としている社会的人間では、端から見ていて明らかに違うので区別は付く。これは自閉世界への愛着の問題でもあるし、空想癖が治らないのと同じく心理的な抵抗はあると思われるから、御本人が治療を望んでいないという難題に逢着するが、治したくないのは致し方あるまい。視線というリソースをどうやって割り当てるかの話であり、大部分を自閉世界に割り当てて社会的メクラになっても、その泥濘に溺れる快楽もあろう。自閉を特技として活かしている人は少ないので、治したほうが無難ではあるが、御本人の内面の桃源郷を破壊するのも何である。というか、こうやって書いているわたしもコンビニのレジに並びながら視線を落とす練習をしていたら、遠くのレジから呼ばれているのに気づかないというマヌケなことがあった。視線を落としても、それなりに周辺視野は作動しているのでたいていは問題ないが、このケースで言えば、遠くのレジから呼ばれる可能性は充分にあるのだし、むしろ全体を注意深く見渡すべきであった。
2018.07.27
LGBTと自由恋愛主義
被害者や敗北者にこそ権利ありという観点からすると、何かしら被害を受けたらその時点から債権者なのである。たくさん被害を受けると億万長者とさえ言えるのだが、もちろんそんなことはなく踏み倒されて終わりである。だから通常であれば当たり屋になる競争にはならないのだが、時たま被害者として名乗りを上げる争いの戦端が開かれることもある。杉田水脈のLGBTの話はくだらないだろうからそもそも読んでないわけだが、これを扱った新聞記事で「ナチスと同じ」と書いてあったりすると辟易する。「ナチスと同じ」というのは慣用句というか、白髪三千丈のようなレトリックとして理解するべきかもしれないが、どれだけ差別されたかを競い合う弱者の論理なのである。非モテで結婚できないのは「ナチスと同じ」なのかというと違うであろうし、結婚できる人の結婚を妨害するとナチス的だとされる。LGBTカップルは人権問題となるが、結婚できない非モテは人権問題ではない。相手がいるならヒューマンライツとして語られるが、相手がいないならこの世の中から唾棄されて終わりなのである。つまるところ自由恋愛主義の一元論である。自由恋愛主義は自然淘汰を重んじるものであろうし、杉田水脈の意見は(読んでないが)自然淘汰の話のようにも見えるから、優生思想と自然淘汰という対立軸ではなく、むしろ両者に通底する冷たさである。障害者を殺すのがナチス的だとすれば、障害者を限りなく厚遇するのが人権主義であろうし、何かしら話が噛み合わないのは強者の論理たる自由恋愛主義が人権思想と一致しないからであろう。自由恋愛主義という理由だと税金を使えないから、LGBTはこれを人権問題に擦り替えているのである。非モテに税金を投じずにLGBTに税金を投じるのは自由恋愛主義でしかないが、自由恋愛主義は人権であると奴らが強弁するなら、なにかしら優生思想と自然淘汰で非モテを挟み撃ちにしてくるというか、要するに人権問題にしないと税金に食いつけないから議論が混乱しているのだろう。
2018.07.18
税務署が無いとしたら
これは先まで手筋を読んだ上で書いているのではなく、あまりよくわかってないことについて漠然と駒を動かしてみる程度の拙い思考なのだが、たぶんこの世の中は税務署がなかったら困る。もしくは税務署でなくても、何かしら金銭面を強制捜査する仕組みがないと、経済関係は難しい。他人の財布の中身が見えないのが経済のルール、というより、だいたい互いの手札を見せないでゲームをしているのだが、時には強制捜査も必要である。いわばゲームマスターとでもいうか、人々の手札の中身を監視する存在も必要である。われわれは手札をフルオープンにするのを本能的に嫌がっているので、互いに隠すのが大前提となるが、だからこそ税務署のような強制力がないとまずいであろう。税金を租税回避地に逃がせている世界的企業もたくさんあるという反論が頭に浮かんだが、わたしはとりあえず先を見通さずに書いているので、こちらが詰まれてしまうこともあろう。ひとまず税務署は必要だと論じ立てているわけだ。セックスであれば性的魅力は絶対的な価値なので行為をカウントする機関は無いが、お金は税務署が数える必要がある。あるいはセックスにしても白昼堂々と交尾されると価値が下がるという認識はあり、公然わいせつの類は警察が取り締まるわけである。ここまでわたしが述べてきたことに反論するなら、税務署もしくはそれぞれの財産を強制捜査するゲームマスターは不要であり、すべてが暗渠のような状態でも経済は回ると論証する必要がある。自主的に手札の中身を見せて経済取引を成立させるのは可能という意見もあるだろうが、やはり何かしらゲームマスターとして見渡している機関は必要だと思うわけである。神の見えざる手とは要するに税務署のことではなかろうか、と言ってもよい。中央銀行が紙幣を刷っているだけでは不十分であり、それぞれの財布の中身を調査する税務署あっての経済社会である。徴税官も生身の人間であるから腐敗や私心はあるにせよ、とりあえず顔の無い公平な役人として、神を演じるのである。すべての会社に税務調査が行くわけではないが、税務署に見せるための準備は必要であるし、虚偽申告は軽々には出来ない。もちろんわたしはよくわからんのだし、世間知らずの蒼白い書生が天下国家を論じている程度のものだが、時には愚見を述べなければ考えが走り出さないので、とりあえず書いたのであり、そしてこのままアップロードするということは、まだ生煮えのまま模索しているのであり、正解には遠い。
2018.07.11
ルポルタージュとしての人間理解
このあいだ読売新聞を見ていたら、四十代男性が結婚できないというテンプレ記事があった。エア取材なのか、アリバイ的に取材したのか知らないが手取り10万円かそこらで粗末な一汁一菜がやっとであり、スーパーで惣菜に半額シールが貼られてから買うのが日常だが、それでも生涯の伴侶を求めていて、結婚相談所で断られたり、婚活で失敗しているのである。この手のルポルタージュは作文だと考えて差し支えあるまいし、また、特定の人物や事件ならともかく、一般人の誰かを取材して社会を語るという形式そのものに無理があるように思う。マスメディアの病理と結論づけてもいいのだが、根本的にわれわれは一般人を均一化させるしかないのであり、「フランス人はこんなことを考えている」とか「ドイツ人はこんなことを考えている」という雑駁たる世界認識である。そもそも個々人の考えが主役なのかどうかは不明であるし、間接民主制こそが人間社会の本質であり、インターネットが登場して尚更その印象が強くなった。陳腐な社会派ルポルタージュは、われわれの世界認識の拙さと平仄を合わせているのであろうし、この限界を乗り越えることはできないし、無知の知という謙虚さに至るのが精一杯である。ともかく社会派ルポルタージュが世界を動かしているのも確かであり、たとえば子供を産めない女性について、それを欠陥と見なされることへの怒りが数多の記事で描かれたわけである。エア取材かアリバイ取材かはともかく、そういう論調が作られることで救われた人もいるであろう。産める能力があったにも関わらず羊水の腐ったババアが暴れたりしたのは副作用である。流行りのトランスジェンダーの記事となると、男性/女性という自意識へのこだわりが強く語られ、心の性別のトイレに入りたいとか首を捻る意見も見かけるが、いわば性差の強調なので、人権問題も一周して複雑になったというか、民族独立運動と似通っている。大国の民族主義は否定されて来たが、マイノリティの民族主義は肯定されるらしく、たまたま弱者になった人間が電動車椅子で突撃しているだけである。どれだけ弱くてマイノリティであるかというパワーゲームであり、誰にでも人権があるという基本原則は等閑に付されているから、次は誰が弱者として王冠を戴くかということである。われわれがトランスジェンダーに会うことは殆どないし、だいたいは無名人のルポルタージュであるし、代弁者らしきライターが作文しながらわれわれを糾弾するという、何かしらフィクション性を持った存在であり、逆に言えば、実名顔出しでカミングアウトする象徴的存在の方が説得力があり、薬害エイズの時の川田龍平などがその典型と言えるだろう。ワープアについても赤木智弘などがいるが、インパクトに欠けるのが率直なところである。この拙稿に結論があるのかというと、たぶんないし、なにしろ世の中の大半の人のことは知らんのだから、こんな具合なのである。ついでに縷々と書き綴るなら、人間は事実存在でありながらも、賽の河原で小石を積み上げるような願望と伴に生きているので、その実現していない余白にいろいろと描けてしまう。有村悠さんを高卒という事実の輪郭で認識することもできれば、東大卒になりたかったという御本人の願望を含めて有村悠だと考えることもできる。未練あってこそ人間であるし、未達成の願望も含めてわれわれは存在している。熊沢天皇にしても、そもそも天皇という概念は事実性だけの話ではあるまいし、何かしら宗教的なファンタジーを託されたものであろうし、東京大学も何かしらシンボリックな記号であろうから、有村悠さんをただの高卒として扱うよりは熊沢天皇と同じ文脈で捉えたほうが人間理解として適切であるようにも思える。
2018.07.04
主体的な体験
われわれは対概念で考えるのが好きであり、どうしても認識と体験を分けてしまう。実際は認識も体験も同じなので一元論で語るべきなのだが、うまくフィットする言葉がない。
だから、
実行体験
認識体験
という区分けにする。
もしくは、
空想体験
想像体験
などを付け加えるのもよろしかろう。
すべては何かしらの体験であり、体験の種類があるだけである。
認識やイメージの問題として、実行体験と空想体験でさほど径庭はないのである。
殺人を実行したことのある人は稀であろうから、不穏ではあるが敢えて殺人を事例にするとして、やはり人間という生命体がいてそれを殺すという動作は現実でも空想でも同じである。
たとえばHagexが殺害された場面をわれわれは見ていないが、想像体験することはできる。
低脳先生は刃の長さが16.5センチのナイフで凶行に及んだとされるが、実物を見てなくてもその禍々しさはイメージできるし、首や胸を何度も刺したという情報も理解できる。
おそらく低能先生の実行体験とさほど差はあるまい。
殺人を実行して初めて殺人が理解できるわけではないのである。
何が言いたいのかというと、実行体験も認識体験も想像体験も空想体験も、とりあえず一元的に扱えるのである。
われわれは人間という多細胞生物として主体性を持っており、何十兆かある細胞のひとつひとつは知らんが、主体として体験するようなことはだいたい知っているわけだ。
そして、その体験性の次元しか知らないので、実行体験も認識体験も想像体験も空想体験も似たりよったりなのである。
たとえばセックスを実行体験するのと空想体験するのは快楽として大違いだが、実行体験しなくても、セックスの基本動作は人間という主体として一応は知っているわけだ。
実行体験したかどうかが人生にとっては重要だが、空想や想像でも何となく再現できるし、すべからくひとつの体験なのである。
人体を構成している何十兆の細胞はいずれも人間ではないが、それらの部品が機能して人間という主体が生まれる。われわれは人間しか知らないのである。科学的な研究で人間が感知し得ない物理現象を検出して、それを製品化したりすることもあるので、その文明の広がりも面白いところだが、なぜかわれわれは人間という主体性の体験を生きており、そして、科学を利用しつつも、精神世界と物質世界の次元の違いはミステリーなのである。
だから、
実行体験
認識体験
という区分けにする。
もしくは、
空想体験
想像体験
などを付け加えるのもよろしかろう。
すべては何かしらの体験であり、体験の種類があるだけである。
認識やイメージの問題として、実行体験と空想体験でさほど径庭はないのである。
殺人を実行したことのある人は稀であろうから、不穏ではあるが敢えて殺人を事例にするとして、やはり人間という生命体がいてそれを殺すという動作は現実でも空想でも同じである。
たとえばHagexが殺害された場面をわれわれは見ていないが、想像体験することはできる。
低脳先生は刃の長さが16.5センチのナイフで凶行に及んだとされるが、実物を見てなくてもその禍々しさはイメージできるし、首や胸を何度も刺したという情報も理解できる。
おそらく低能先生の実行体験とさほど差はあるまい。
殺人を実行して初めて殺人が理解できるわけではないのである。
何が言いたいのかというと、実行体験も認識体験も想像体験も空想体験も、とりあえず一元的に扱えるのである。
われわれは人間という多細胞生物として主体性を持っており、何十兆かある細胞のひとつひとつは知らんが、主体として体験するようなことはだいたい知っているわけだ。
そして、その体験性の次元しか知らないので、実行体験も認識体験も想像体験も空想体験も似たりよったりなのである。
たとえばセックスを実行体験するのと空想体験するのは快楽として大違いだが、実行体験しなくても、セックスの基本動作は人間という主体として一応は知っているわけだ。
実行体験したかどうかが人生にとっては重要だが、空想や想像でも何となく再現できるし、すべからくひとつの体験なのである。
人体を構成している何十兆の細胞はいずれも人間ではないが、それらの部品が機能して人間という主体が生まれる。われわれは人間しか知らないのである。科学的な研究で人間が感知し得ない物理現象を検出して、それを製品化したりすることもあるので、その文明の広がりも面白いところだが、なぜかわれわれは人間という主体性の体験を生きており、そして、科学を利用しつつも、精神世界と物質世界の次元の違いはミステリーなのである。