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2019.01.29
努力するほど追いつけなくなる
強烈に響いてくる偏頭痛を半減できる薬があるなら誰もが飲むであろうし、快癒するわけでなくても軽減できる有効な医療があれば、この痼疾の治療のために欠かさず通院するはずである。その一方で人間は努力できない生き物である。たぶん出来損ないであることは頭痛ではなく、半端に改善してしまうとむしろ頭痛の種になる。学力は中途半端にあると痛いのかもしれないし、偏差値32まで行くと無我の境地である。地頭が偏差値32くらいなのにガリ勉丸暗記詰め込み教育で東大にギリギリ合格した有村悠さんの悲惨な逸話の数々を思い浮かべると、中途半端に勉強してしまうと苦痛が増えると言わざるを得ない。偏頭痛が軽くなるなら、これは他者との優劣の問題ではないが、学力となると他者との優劣の問題を含むし、偏差値32なら居直れるが、なまじ勉強してしまうと、他者との優劣に悩まされることもあろう。これが顔面偏差値なら32から45に上がったら嬉しいだろうが、学力偏差値は中途半端に上がると苦痛である。有象無象を睥睨するほどの頭脳がないのであれば、偏差値32の方が幸福である。地頭が偏差値32の有村悠さんは勉強すればするほど薄っぺらい人間性が露呈される、というより、中途半端な知識のみっともなさという人類の課題に直面するわけである。であるから、「努力しない人」とか「勉強しない人」は合理主義者である。頭が悪い母子家庭育ちが無理してガリ勉して東大に入っても発狂して人事不省で不登校というのがオチであろうし、癌は治療しないほうがいいというか、中途半端な勉強は本当に痛みがある。中途半端に勉強すると痛みが半減するのではなく、むしろ増大する。登攀するほどに地獄は深まる。頂点を極めれば、そのさきに眺望が広がるのだろうが、有村悠さんがどれだけ勉強してもその境地には至れないのであるし、明けても暮れても断崖絶壁しか見えない。偏差値32のまま生きていれば、エリート東大生との優劣に煩悶して不登校になることもないし、勉強しないのはひとつの正しい選択である。何らかの分野で中途半端な実力を持ってしまうと、その世界の優れた人間に劣等感を持つだけの不健全な人間になる。実力が絶無である方が、「なんかあの人はすごいらしい」という程度で他人を素直にリスペクト出来る。有村悠さんも、母子家庭育ちがエリート東大生と席を並べるとか莫迦なことをやったのは自業自得であろうが、しかし、努力すればするほど壁にぶつかってしまうというのは人間の根源的な苦難であり、そして現実問題として、有村悠さんがエリート東大生と対峙したらどうにもならないし、その苦難を乗り越える英雄譚が成り立ち得ない絶対的な絶望がそこにある。勉強すればするほどエリート東大生との格差が開くのであれば、勉強しない方がいいのである。俊足ランナーを鈍足が追いかけても差が開くだけだから、努力放棄が正解でもある。当然ながら、一番にならないと気が済まない業病を抱えた人ほどこの罠に陥る。凡人としての適性があれば、それなりに努力して明治大学あたりで満足するすべもあろう。なぜ有村悠さんはエリート東大生と同じ土俵に上がってしまったのかという問題だが、これはカフカの「掟の門」のような話というか、何か知らんが明治大学では駄目らしく、東京大学という扉をこじあけたいのだろうし、絶対に開かない扉を開けようとする人間的絶望である。
2019.01.17
育ちと快楽主義
知性というのは、なぜか人間の根源的なコンプレックスである。容姿がまずいのと、頭が悪いのとでは前者の方が明らかに苦痛であり、知性など夾雑物に過ぎないはずだが、これは快楽主義的に生きていける場合の話である。重苦しい現実において、頭のよし悪しは燻り出されるし、概して育ちが悪いと頭が悪いので、ここが鈍痛のように長患いする怨恨の根源ともなりうる。育ちの悪い人間は知性をコケにしようとたゆまぬ努力を続けるが、これは美男美女への嫉妬とはまた別であり、快楽主義が消し去られていく現実の重みである。たとえば腐るほどに1万円札が積み上がっていて快楽主義を謳歌出来るのなら、それこそ知性など本当に必要がないのであるが、やはり楽園を追放された衆生が集まるギスギスした俗世間においては知性が重要となる。育ちが悪いほど快楽主義になるが、金がないので、快楽に溺れるとなれば破滅的な人生になってしまう。快楽主義の挫折が現実だとするなら、知性の軛を遁れて桃源郷をひらひら飛び回ることはありえず、この有象無象が張り付いている大地に繋がれるのみである。美男美女に嫉妬するとすれば、つまり美男美女として恋愛を享楽することに憧れているわけだが、知性への嫉妬の根底に学問への情熱などあるまい。決して知性がほしいというわけではなく、むしろ文字など読みたくないのであろうが、文明社会の力学に取り込まれているからには知性を避けられず、そこで葛藤が生み出される。ややくどく言うと、「セックスがしたい」のと「勉強がしたい」のとではまったく異なるわけであり、育ちが悪ければ勉強など決してしたくないのだが、文明社会がそれを許さないのである。このような育ちの悪い輩への配慮として、知性など無意味という論が展開されることがあるが、これはつまりユートピア思想である。いつまでも遊んでいられることはなく、苦痛だらけの現実では知性がなくてはならない。ともかく、こういう現実の重力からして、勉強嫌いなのに知性が欲しいという奇妙な願望が生まれる。あるいは、社会性でなんとか世渡りするとしても、最後には知性という見栄が欲しくなったりする。