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2020.04.30
記帳代行とパソコン音痴
税理士不要論というのがあるが、パソコン音痴が絶滅しつつあることが大きな理由である。団塊世代は現在70代前半だが、このあたりがパソコン音痴の最後であろう。ワープロ専用機は使えてもパソコンには抵抗感があるという謎の人種がいるわけだ。特に自営業の社長となると、パソコン音痴を貫いたりしている。こういう人たちが世の中から消えつつあり、パソコンを使うのが当たり前となると、会計ソフトは自分で打ち込めば十分となる。
だいたいエクセルを使いこなせるなら、会計ソフトは問題なくできる。エクセルに抵抗感がある人も減っているであろうし、そのようなソフトの使い方に慣れてきたということなのである。説明書がなくても勘で分かるし、細かい部分がわからなければグーグルで検索すればだいだい答えが出てくる。
そもそも税理士の先生に帳簿を見てくれとお願いしても、見てくれることはほとんどない。見てくれるとすれば、税理士事務所のスタッフに見させているだけであるし、税理士本人は見ない。
では、税理士の先生に頼んでもなぜ帳簿を見てくれないのかというと、経理は簡単すぎるからである。それでいて手間がかかる。大雑把な喩えで言うと、3手詰の詰将棋を大量に解くようなものだから、プロ棋士でも凡人でもかかる時間は同じなのである。むしろ経理の事務員の方がいつも似たような作業をしているから、税理士より早いかもしれない。
会計は本質的に発生主義(取引が発生した時)であるし、決済されたかどうかについては会計として無頓着である。というより、取引が発生した時点と決済した時点は必ず把握しなければならないが、日付が違うものを結びつけるのは会計の仕組みとして苦手なので、何かしら社内の経理で突き合わせるしかない。レシートなどの証憑を時系列に従って管理して、その顛末を把握するのだが、結局は会社側でやるしかない。あるいは会計ソフトでやってもいいが、なんにせよ税理士の頭脳はいらない。
あえて税理士に記帳を代行してもらうとすれば、単式簿記はつけられても複式簿記がわからないという人に限られてしまう。貸借対照表と損益計算書が連動しているのが複式簿記だが、これを理解できない人がいるわけである。損益計算書を勘定式で書けば、左が費用で右が収益という単純な構図は一目瞭然なのだが(つまり仕分けの左と右をそのまま書き写しているだけなのだが)、損益計算書は報告式で書かれていることが多いので、どこが変化すると、別のどこが変化するという仕掛けがわからない人もいる。
あえて会計と税務を混同して話してきたわけだが、会計上の損益計算の結果に法人税が加算されるので、損金算入不算入などの誤差を取り除けば、会計の結果が法人税である。
ともかくそういうことなのである。
だいたいエクセルを使いこなせるなら、会計ソフトは問題なくできる。エクセルに抵抗感がある人も減っているであろうし、そのようなソフトの使い方に慣れてきたということなのである。説明書がなくても勘で分かるし、細かい部分がわからなければグーグルで検索すればだいだい答えが出てくる。
そもそも税理士の先生に帳簿を見てくれとお願いしても、見てくれることはほとんどない。見てくれるとすれば、税理士事務所のスタッフに見させているだけであるし、税理士本人は見ない。
では、税理士の先生に頼んでもなぜ帳簿を見てくれないのかというと、経理は簡単すぎるからである。それでいて手間がかかる。大雑把な喩えで言うと、3手詰の詰将棋を大量に解くようなものだから、プロ棋士でも凡人でもかかる時間は同じなのである。むしろ経理の事務員の方がいつも似たような作業をしているから、税理士より早いかもしれない。
会計は本質的に発生主義(取引が発生した時)であるし、決済されたかどうかについては会計として無頓着である。というより、取引が発生した時点と決済した時点は必ず把握しなければならないが、日付が違うものを結びつけるのは会計の仕組みとして苦手なので、何かしら社内の経理で突き合わせるしかない。レシートなどの証憑を時系列に従って管理して、その顛末を把握するのだが、結局は会社側でやるしかない。あるいは会計ソフトでやってもいいが、なんにせよ税理士の頭脳はいらない。
あえて税理士に記帳を代行してもらうとすれば、単式簿記はつけられても複式簿記がわからないという人に限られてしまう。貸借対照表と損益計算書が連動しているのが複式簿記だが、これを理解できない人がいるわけである。損益計算書を勘定式で書けば、左が費用で右が収益という単純な構図は一目瞭然なのだが(つまり仕分けの左と右をそのまま書き写しているだけなのだが)、損益計算書は報告式で書かれていることが多いので、どこが変化すると、別のどこが変化するという仕掛けがわからない人もいる。
あえて会計と税務を混同して話してきたわけだが、会計上の損益計算の結果に法人税が加算されるので、損金算入不算入などの誤差を取り除けば、会計の結果が法人税である。
ともかくそういうことなのである。
2020.04.29
紹介状差別の再燃。親族に医者がいない卑しい家系。
なぜわたしが医者から嫌な目にあってきたかと言うと、親族に医者がいないというのが大きい。これはかなり決定的である。親族に医者がいると紹介状を書いてくれて便宜を図ってもらえるが、いない場合には差別される。もちろんこれは昭和時代の話であり、平成になってからは誰でも平等に診てもらえるようになったはずだが、コロナウィルスが蔓延してから、出身階級の格差を痛感している。たとえば金持ちがアビガンを高額で買って飲んでいるのなら致し方あるまい。現在の日本で起こっている現象はそれではない。国民皆保険だから誰でも料金は同じである。それなのに家柄によって医療が違うのである。家柄がよいとアビガンが飲めるが、家柄が悪いとアビガンが飲めない。家柄が卑しい人間は保健所にひたすら電話をするしかなく、そして検査など受けられないし、アビガンは遠い夢なのである。これはわたしの妄想ではない。昭和時代にあった家柄の格差が明らかに再燃しているし、有名人や有力者だけアビガンを飲めるのはおかしいという社会的矛盾に行き当たっている人々は少なくないはずだ。われわれは医薬品に依存しているが、医師の診察は必要としていない。手術が必要なら医者に頼むしかないが、薬で治るなら自己診断で充分である。つまり、実際にはアビガン頼みであるのに、医者という特権階級がそれを牛耳り、紹介状持参の人間に優先的に手配しているわけだ。この三十年くらい消えていた紹介状差別が露わになっている。これによって誰も恨むなと言われても無理である。どれだけ札束を積んでも家柄には敵わないのである。医師の診察は本当に不要で、アビガンだけ欲しいのだが、その願いは家柄が卑しいという理由で妨げられる。紹介状の有無による差別問題が30年ぶりに発生していることはほとんど報じられていないが、やはり医者に感謝しないと殺されるからなのだろう。われわれの他者への尊敬は自己防衛である。だが、家柄が卑しいとアビガンを貰えないという厳然たる構図が明確になりつつある現状で、どこの誰が医者に感謝するというのか。親族に医者がいる場合は、自らの華々しい出自に感謝するのかもしれないが、ルーツ次第でトリアージされているのであるから、この怨嗟は永遠に拭えない。麻生太郎のような家柄主義者の存在がこの風潮の一因かもしれないが、平成時代から麻生太郎はいたし、麻生太郎が紹介状差別を推奨したわけではあるまい。こいつが他人の出自を差別していても、この三十年くらい日本社会は差別の解消を進めてきた。結局のところ、コロナウィルスの蔓延によって、医者に直接コンタクトが取れる人間が有利になっているし、現政権の家柄主義もあり、遠い昔の紹介状差別が蔓延している。であるから、差別との闘争を三十年ぶりに再開するしかないのである。
2020.04.26
医者を尊敬しないと殺される
こうやって武漢ウィルスが蔓延してくると、誰が死ぬべきなのか、という問題になってくる。日本においては患者が死ぬべきであるらしい。患者の代わりに医者が死んでくれることはない。そもそもわれわれが医者を尊敬しているのは、運動部の先輩と同じ枠であるし、尊敬しておかないと殺されるからである。頭を下げてなんとか診察してもらうわけだ。もちろん法的には診察の拒否はできないのだが、拒否して捕まることはない。当然ながら、患者が平身低頭して医者に治療をお願いしていたのは昭和の話であり、平成の日本に当てはまるかと言うと当てはまらないが、この令和時代の空気は、昭和に戻ったと言うしかない。やはり貧すれば鈍するというか、このところの日本の民度の低下は酸鼻を極めているし、医者が診察を拒否するという昭和の業病が帯状疱疹のように浮き上がってきている。不機嫌な医者が故意に手術を失敗することが過去にあったかというと、たぶんそんなことはないと思うのだが、昭和の頃はそういう恐怖があった。2019年あたりまでは昭和の反動で、医者に喧嘩を売る患者が増えていたから、そういう抵抗運動が成果を上げていたが、こうなってくると時代は逆戻りである。というより、医者が必要となるのは重症患者だけであるし、軽症なら診察の意味がないのでアビガンをくれればいいのだが、頭痛薬のように店頭で買うわけにはいかない。処方箋なしで買える医薬品がやたらと少ないという日本ならではの事情があるわけだ。無論、アビガンをいきなり市販したらそれも変だが、とはいえ、医者の診察や陽性の確認が必須というのも別の意味で変である。世界的疫病という極めて例外的な状態においてどちらを決断するかなのだが、今のところは、医者を守って患者を殺すことになっている。わたしとしては、医者に命を救われたことはなく、医者に殺されそうになったことの方が多いので、あの悪夢の昭和時代がまだ終わってないことに慄然としている。何が言いたいかと言うと、保健所が患者を門前払いするのは医者のためということである。おそらくこの帯状疱疹にはしばらく耐えるしかないのだが、この艱難辛苦が終わったら医者に難癖をつけねばならないし、どちらの命が大事なのか問わなければならない。処方箋がなくてもいろんな薬が買えるようになれば、われわれは自分で治す。薬が自由に使えるなら医者はいらない。今だってアビガンが自由に使えるなら医者は無用の長物である。医療に関するあらゆる利権を根絶しなければならない。
2020.04.24
EIZO FlexScan EV2760
自分が購入した商品について拙いレビューを書くのはノイズになるかもしれないが、
作為的なものも多いであろうから、個人ブログで拙い感想を書くのもいいだろうと思う。
さて、わたしが今回購入したのはEIZO FlexScan EV2760。
27インチ WQHD (2560×1440) 。
実売価格は6万5000円(税込)くらいだと思う。
以前からわたしが所有しているのは以下の二台である。
EIZO FlexScan EV2785。
実売価格は11万円弱(税込)。
27インチ 4K(3840×2160)。
EIZO FlexScan EV2451。
実売価格は四万円程度(税込)。
23.8インチ フルHD(1920×1080)。
これでEIZO Flexscan三台目である。
EIZOは割高であるが、ご承知の通り、アフターサポートが最も充実しており、
不具合があれば確実な対処が見込める、そしてそれがゆえに、初期不良が少ないからである。
さて、わたしがレビューを書こうと思い立ったのは、
コロナウィルスで軟禁という背景もあるが、
この27インチWQHDがとても見やすいからである。
4Kの方はそのままだと文字サイズが豆粒だから、
いろいろ工夫して文字を拡大させることになるので、
結果としてWQHDと似たりよったりになる。
ブラウザとかMicrosoft Officeについては、ほとんど変わりがない。
むしろWQHDだとごく自然にフィットする感じで無理がない。
とはいえ、スキャンした書類とか、固定レイアウトの電子書籍を読むとなると、4Kの方が緻密である。
いわゆるベクタ方式とラスタ方式の話というか、
たとえばブラウザの文字などはそれぞれの解像度に合わせてソフトウェア的に描画されるので、
4Kはまったく不要だが、
(つまり固定画像の文字を拡大縮小しているのではないのだが)、
何かしら固定した画素で成り立っているものは、
明らかに4Kの方がいいわけである。
普段は4Kを持て余し気味のEV2785も、
使い方次第では大活躍しうる。
たとえば写真とか動画の編集をやるという場合には、4Kの方が明らかにいいはずである。
ちなみに、
今まで使用していたEV2451(23.8インチ フルHD)について。
今回新しく買ったEV2760(27インチWQHD)はサイズが違うので単純な比較は出来ないが、天と地の差である。
EV2451はスタンダードでよい製品だが、もはや時代遅れである。
4万円でこれを買うなら、
6万5000円でEV2760を買ったほうが絶対によい。
ただの上位モデルというのではなく、まったく世界が違う。
ちなみにEV2785は4Kであるだけでなく、USB Type-Cに対応している。
わたしはMicrosoft Surface Pro 7を使っているが、これを充電(給電)しながら使えるのが大きい。
USB Type-Cが搭載されていると高価になるわけだが、ACアダプターとしての機能が高くなる原因なのだろう。
今回購入したEV2760にUSB Type-Cは搭載されていない。
絶対に必要な機能というわけではないから、どう考えるかは、その人次第である。
ともかくUSB Type-C搭載の4Kで11万円というのは、必ずしも割高ではない。
なんにせよ、23.8インチで四万円のEV2451は、
もはや買ってはいけない商品だと思う。
11万円をケチって6万5千円のWQHDにするのは構わないが、
4万円のフルHDはもはや買うべきではない。
作為的なものも多いであろうから、個人ブログで拙い感想を書くのもいいだろうと思う。
さて、わたしが今回購入したのはEIZO FlexScan EV2760。
27インチ WQHD (2560×1440) 。
実売価格は6万5000円(税込)くらいだと思う。
以前からわたしが所有しているのは以下の二台である。
EIZO FlexScan EV2785。
実売価格は11万円弱(税込)。
27インチ 4K(3840×2160)。
EIZO FlexScan EV2451。
実売価格は四万円程度(税込)。
23.8インチ フルHD(1920×1080)。
これでEIZO Flexscan三台目である。
EIZOは割高であるが、ご承知の通り、アフターサポートが最も充実しており、
不具合があれば確実な対処が見込める、そしてそれがゆえに、初期不良が少ないからである。
さて、わたしがレビューを書こうと思い立ったのは、
コロナウィルスで軟禁という背景もあるが、
この27インチWQHDがとても見やすいからである。
4Kの方はそのままだと文字サイズが豆粒だから、
いろいろ工夫して文字を拡大させることになるので、
結果としてWQHDと似たりよったりになる。
ブラウザとかMicrosoft Officeについては、ほとんど変わりがない。
むしろWQHDだとごく自然にフィットする感じで無理がない。
とはいえ、スキャンした書類とか、固定レイアウトの電子書籍を読むとなると、4Kの方が緻密である。
いわゆるベクタ方式とラスタ方式の話というか、
たとえばブラウザの文字などはそれぞれの解像度に合わせてソフトウェア的に描画されるので、
4Kはまったく不要だが、
(つまり固定画像の文字を拡大縮小しているのではないのだが)、
何かしら固定した画素で成り立っているものは、
明らかに4Kの方がいいわけである。
普段は4Kを持て余し気味のEV2785も、
使い方次第では大活躍しうる。
たとえば写真とか動画の編集をやるという場合には、4Kの方が明らかにいいはずである。
ちなみに、
今まで使用していたEV2451(23.8インチ フルHD)について。
今回新しく買ったEV2760(27インチWQHD)はサイズが違うので単純な比較は出来ないが、天と地の差である。
EV2451はスタンダードでよい製品だが、もはや時代遅れである。
4万円でこれを買うなら、
6万5000円でEV2760を買ったほうが絶対によい。
ただの上位モデルというのではなく、まったく世界が違う。
ちなみにEV2785は4Kであるだけでなく、USB Type-Cに対応している。
わたしはMicrosoft Surface Pro 7を使っているが、これを充電(給電)しながら使えるのが大きい。
USB Type-Cが搭載されていると高価になるわけだが、ACアダプターとしての機能が高くなる原因なのだろう。
今回購入したEV2760にUSB Type-Cは搭載されていない。
絶対に必要な機能というわけではないから、どう考えるかは、その人次第である。
ともかくUSB Type-C搭載の4Kで11万円というのは、必ずしも割高ではない。
なんにせよ、23.8インチで四万円のEV2451は、
もはや買ってはいけない商品だと思う。
11万円をケチって6万5千円のWQHDにするのは構わないが、
4万円のフルHDはもはや買うべきではない。
2020.04.22
人生の前半だけ勉強する
武漢から版図を広げている悪疫は決して死病ではないから、中途半端にわれわれを軟禁しており、ここはサナトリウムや巣鴨プリズンのような世界の果てではなく、俗世間と地続きであり、娯楽が乏しいだけの虚ろな時間が続いて、人間存在は生殺しにされている。そして、人間は暇になるとろくなことをしない。日本人の民度が下がったように見えるのは錯覚ではなく、平時であればきちんと通勤通学している人間が不善をなしている。彼らは決して普段からの怠け者ではなく、それなりに勤勉なのであるが、閑暇を強いられると碌なことをしない。仕事があれば仕事をするのだろうが、このご時世だと手持ち無沙汰を紛らわすべく夢遊病者のように彷徨うしかないのである。この不安定な時間帯を有効活用すべく、軟禁ではなく監禁されているのだと決め込んで、勉学に割り当てるのもいいだろうが、勉強は人生の前半に集中させたほうがよいという問題があり、それを過ぎた人間はただ愁嘆場として愚痴愚痴とした時間を潰すのみである。さて、理路整然とした文章を書こうとするなら論旨を絞ったほうがいいので、人生の前半できちんと勉強しましょうという話の流れにした方がいいのだが、これは現代文のテストではないので雑駁と書くと、人生の前半で勉強するのもなかなかくだらないことである。民主党は立派な経歴の人が多いわけだが、人生の前半しか勉強してないという印象が強い。大人になると勉強した結果が点数として可視化されなくなるし、勉強という投資は、大人になったら稼いで回収しなければならない。何歳までが前半なのか、について粗雑にいうなら、普通の人なら大学受験までとか、官僚なら国家試験までとか、弁護士なら司法試験までとか、そういうキャリアの道筋の確定までが前半となる。弁護士になってから(つまり後半戦になってから)法律の勉強をするのは無駄という発想は珍しくない。司法試験に合格できる人でさえ、そうなのである。弁護士になるまでは多大な教育費と時間が掛かっているから、回収モードになるのも無理からぬことであるが、ともかく、そうやって、後半戦で勉強しなくなるタイプの人が民主党に集まるのである。逆に日本共産党はずいぶん勉強熱心であるが、これは思想犯ならではの勉強の仕方であり、その時々で発生した問題に関心を持ち、調査したり勉強するだけなので専門性は低い。専門的でなくていいなら80歳からでも勉強はできるが、実益はない。費用対効果が悪くても勉強するかという話である。共産党員が立派なのかと言うとそうではないだろうし、共産党員が考える利益は一般人とはまた別なのであろう。ウィルスを撒き散らして共産党細胞を増やすという極左冒険主義である。
2020.04.20
家族連れは無敵
相手にも家族がいる(あなたにも家族がいますよね)という論法は断罪されねばならない。これを根絶やしにしないと、赤の他人は無価値というぶっちゃけた真実が剥き出しになってしまう。コロナウィルス以前から気になっていたのは家族連れの傍若無人ぶりであり、父親がガンをつけてくることも時たまある。「俺に何か用か」と睨み返せば目を逸らしてしまうのでそれまでだが、あの無敵感は一体なんなのであろうか。おそらく宅間守と池田小遺族の関係が、その後の日本社会を照らし続けているのであろうし、その暗澹たる輪郭に虚しくなる。俺のことを本当に宅間守と同一視しているのならガンをつけるような真似はしないだろうから、紛れもなく安全な火遊びであり、本気で火傷しようという真剣さはひとかけらもない。まずなによりも人間の命が大事だという基本に立ち返らなければならない。赤の他人が大事なわけはないが、それでも大事だというしかないのである。ここに説明はいらない。誰の命も大事、それだけである。あなたにも家族がいるでしょう、という説明はいらない。それを説明すればするほど、赤の他人に価値はないという真実の暴露に至るので、説明してはならないのである。「あなたにも家族はいますよね」という言い回しが、自分だけが可愛いという甘ったるさを生み出し、どれだけ赤の他人を軽んじているか気づいたほうがいい。赤の他人に価値などないが、価値があると強弁することで社会は踏みとどまっているのである。そもそも「殺意」という言葉が変であり、われわれは他人の遺骸を拝みたいわけではなく、顔面を叩き潰してやりたいだけなのである。他人を殺したい人間というのはいない。ただ、相手の肉体を叩き潰し、後遺症のひとつやふたつは負わせたいという話であり、「死」という虚ろな空白は望んでいない。なんにせよ、人間はひとりひとりに価値がある。特定の誰かが大事とか、自分の家族(あなたにも家族はいますよね)とか、そうやって人間個人を愚弄するものではない。
2020.04.06
固定費
そもそも事業とは固定費と心中することである。
従業員の給与も固定費であるが、ここで焦点を当てたいのは設備そのものである。
手ぶらでできる仕事はあまりないので、たいていは何らかの設備ありきの事業形態になっている。
医者だって病院の設備がなければたいした治療はできないのである。
全面的に設備に依存しているのが現代の人間存在である。
この設備という固定費とお別れすると手切れ金がずいぶん掛かる。
飲食店が閉店するとして、その設備は撤去しなければならない。
何十年も経っているような設備が多いのが実情であり、金銭的価値はないが、まだなんとか使えるのも確かである。
この「まだなんとか使える」設備を破棄するとなると、(つまり退店して店を空っぽにする原状回復工事をするとなると)、かなり小さな飲食店でも100万円は軽く掛かる。
大規模であれば、かなりの金額になる。
カラオケボックスやライブハウスであればさらに掛かるであろう。
それを考えると、家賃を払ってでも維持しておいた方が合理的ということもある。
その合理性もかなり苦痛であり、どっちみちずいぶんな負担が掛かるわけである。
とはいえ、固定費と一蓮托生であるのが事業を行う者の定めであるし、やはり責任はその事業者にある。
事業者のリスクである固定費を補償するわけにはいかない。
また従業員の給与も設備に準ずる固定費ではあるが、ほんとうの意味での補償をするわけにはいかない。
あるいは、家賃という根源的な固定費についてであるが、これは大きすぎるテーマなので、また別の話である。
給与については、従業員が365日働く場合は別として、そうでないなら休日の偏りとして処理できそうという気もする。
従業員を交代勤務させて365日営業したいという店についてはなんとも言えないが、できるだけフル回転させたいのが事業者の立場だとしても、いざこうやって休業した場合に、そのフル回転をベースに計算するべきなのかというのは難しい。
こうやって設備を所有するリスクが大きいから、迂闊に設備投資ができず、大企業がやたらと外注するという問題もある。
減価償却が終わったような設備でも撤去費用が悩ましいのに、新し目の設備であればなおさらである。
自前で設備を持つと、今回のコロナウィルスに限らず、いろいろな場面でそのリスクに逢着することになる。
これについて簡単に解決する方法はない。
一定の場所を確保し、設備を置くからには、その呪縛から逃れられない。
従業員の給与も固定費であるが、ここで焦点を当てたいのは設備そのものである。
手ぶらでできる仕事はあまりないので、たいていは何らかの設備ありきの事業形態になっている。
医者だって病院の設備がなければたいした治療はできないのである。
全面的に設備に依存しているのが現代の人間存在である。
この設備という固定費とお別れすると手切れ金がずいぶん掛かる。
飲食店が閉店するとして、その設備は撤去しなければならない。
何十年も経っているような設備が多いのが実情であり、金銭的価値はないが、まだなんとか使えるのも確かである。
この「まだなんとか使える」設備を破棄するとなると、(つまり退店して店を空っぽにする原状回復工事をするとなると)、かなり小さな飲食店でも100万円は軽く掛かる。
大規模であれば、かなりの金額になる。
カラオケボックスやライブハウスであればさらに掛かるであろう。
それを考えると、家賃を払ってでも維持しておいた方が合理的ということもある。
その合理性もかなり苦痛であり、どっちみちずいぶんな負担が掛かるわけである。
とはいえ、固定費と一蓮托生であるのが事業を行う者の定めであるし、やはり責任はその事業者にある。
事業者のリスクである固定費を補償するわけにはいかない。
また従業員の給与も設備に準ずる固定費ではあるが、ほんとうの意味での補償をするわけにはいかない。
あるいは、家賃という根源的な固定費についてであるが、これは大きすぎるテーマなので、また別の話である。
給与については、従業員が365日働く場合は別として、そうでないなら休日の偏りとして処理できそうという気もする。
従業員を交代勤務させて365日営業したいという店についてはなんとも言えないが、できるだけフル回転させたいのが事業者の立場だとしても、いざこうやって休業した場合に、そのフル回転をベースに計算するべきなのかというのは難しい。
こうやって設備を所有するリスクが大きいから、迂闊に設備投資ができず、大企業がやたらと外注するという問題もある。
減価償却が終わったような設備でも撤去費用が悩ましいのに、新し目の設備であればなおさらである。
自前で設備を持つと、今回のコロナウィルスに限らず、いろいろな場面でそのリスクに逢着することになる。
これについて簡単に解決する方法はない。
一定の場所を確保し、設備を置くからには、その呪縛から逃れられない。
2020.04.04
他人の愚痴が襲いかかってくる
コロナウィルスは世界的な悪疫ではあるが、エボラ出血熱が流行っているわけではないから、意外とたいしたことはない。インフルエンザより死亡者は多いであろうから、軽々と扱うわけには行かないが、ともかくエボラ出血熱ではない。検査が絞られ、疫学的調査が中心となっているから、いわば魔女狩りのようになっており、不安が増幅している。自分が感染するのが怖いのではなく、他人にうつしたら厄介なのである。これによって、本来なら黙殺するべき他人の愚痴愚痴した感情が、われわれの内部に侵入してくる。不景気による倒産ならいくらでもあるし、普段から黙殺しているのだが、このような世情では他人にいちいち同情しなければならず、この同情がわれわれを蝕んでいる。そもそも気の毒な人というのはルサンチマンの徒であるし、他人を恨んでいる卑しい連中であるから、共感を寄せる筋合いのない相手なのだが、不幸の手紙のようなウィルスが跋扈しているので、われわれは半端な慈善家として迂闊な同情を垂れ流している。世界人口が77億人いて、そのうち100万人は死ぬであろうし、ノーガードならさらに増えるが、人類の絶滅が懸念されるような病気ではない。エボラ出血熱は今のところ血液や体液での感染が大半であり、流行しても年間の死者は世界で一万人くらいであるが、コロナウィルスはやたらと感染力が強いので、われわれはお互いに相手の苦悩を背負っている。そして経済苦の愚痴が跋扈し、物乞いが溢れている。あと数年すればなんの変哲もない病気になるはずであり、ある意味、われわれは古来からの疫病を物珍しく体験させてもらっている。他人に同情しなければ刺されるかもしれないが、それもやむなしと腹を括らなければならない。
2020.04.02
観光気分から世界大戦へ
実需と懸け離れた地価に支えられていた土地バブル時代は崩落が容易く想像できたが、イベントや観光のようなサービス業の拡大が疫病によって頓挫するのは、まさに青天の霹靂と申し上げるしかない。世界的な疫病の懸念はずっと囁かれていたわけであるし、南海トラフ地震のようにいずれは起こりうるものであったが、観光やイベントは実需の裏付けがあり、決して土地バブルのような愚かしいものではなかった。なんにせよ、天変地異でご破算になるのは人類の歴史において繰り返されてきたことであり、こうなったら軍服に着替えるしかないのである。観光やイベントが図らずもバブルとなってしまった惨禍を前にして、非常事態の軍政を敷かねばなるまいが、つい最近まで浮かれ気分だった人間にそのような大役は担えないようである。景気低迷を大前提として、儲からない話ができる胆力が求められている。人災ではなく天災であるから、法的に責任を取るというよりは、この歴史的な惨劇において、倫理的な責め苦に甘んじるだけの器量がなくてはならない。誰かを見捨てざるを得ない状況があるとして、たいていの人間は遠巻きに模様眺めをしてしまうが、ここであえて切り捨てなければならないのである。あらゆる怨嗟を甘んじて受けつつも、折れない人間が必要である。われわれは経済社会の敗北者を自業自得と断じて見捨てることには慣れているし、誰かを蹴落とすことは日常茶飯事だが、天変地異で泣き叫ぶ無辜の民を見捨てることには慣れていない。火葬もままならないほど遺体袋が積み上げられるのであり、世界大戦であるから、この地球上を観光気分で歩くことなどできない。死と隣り合わせであるのは、そんなに悪いことではなく、人生は観光旅行ではないという生々しい実存に向き合わされるのであり、仮初めの通俗性から脱し、平穏無事ではないからこそ気づくことはたくさんある。