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2020.05.28
木村花さんと小池都知事
最近の流れを時系列で記述するとこんな具合になる。
5月20日 黒川検事長の賭け麻雀を週刊文春が報道
5月22日 小池都知事が非常に厳しいロードマップを発表
5月23日 木村花さんの自殺
5月24日 毎日新聞世論調査で支持率27パーセント。
5月25日 朝日新聞世論調査で支持率29パーセント。
5月25日 緊急事態宣言が全面解除
5月25日 プロ野球の開幕が決まる
まずは、5月22日に、小池都知事が極めて厳しい自粛のロードマップを示したわけである。これは小池都知事の独断ではなく、安倍政権の意向を汲んだものである。
そして5月23日に木村花さんが自殺。
それから5月24日と25日に世論調査でかなり低い支持率が出て、そこからはヤケクソのような全面解除となり、小池都知事も22日のロードマップを完全に否定したわけである。
やはり5月22日のロードマップでは、再開可能な業種と不可能な業種が示され、興行関係者は生木を裂かれるような苦しみを味わい、世に容れられない運命を自覚したわけである。
やはり木村花さんが5月23日に自殺したのは、これが大きな影響を及ぼしている。
小池都知事が悪いというよりは、5月22日の段階では安倍政権は自粛を続けるつもりだった。もし小池都知事が責められるとしたら、都知事選が近いので政権に阿り、天子の綸命に従うか如く、人跡が絶え荒廃した街をそのまま壊死させるような血腥い自粛のメッセージを発したことである。独裁者が粛清を断行するような決意が示されたのである。
政界のお歴々がさらなる長期の自粛を宣言したのだから、多感な若者が自死を選んだのも無理はあるまい。そもそも木村花さんは人気レスラーであるから、後楽園ホールを満員にするくらいは出来ていた。これが自粛となり、ファンと接する機会が絶たれ、アンチだけに囲まれる格好になっていたのが実際の構図であり、その無明の世界が永遠に続くと考え、若い身空を散らし、刑場の露として消えることを選んだのである。
それから数日も経たずに、死刑囚が恩赦で釈放されるかのように大規模な活動解禁となったのは、世論調査が直接の原因であるが、木村花さんの自殺も多少は影響していたように思う。
欧米では集団免疫がついて死亡者のペースも減っているし、この世界情勢において自己満足の自粛を続ける日本は、自粛の金メダルでも目指していたのか、あまりにも愚かであった。99パーセントが感染してない日本が欧米から褒められるのは、ドナルド・トランプの集団免疫戦略を槍玉にあげる手段であろうし、やはり集団免疫しかないのである。99パーセントが未感染の日本はいずれウィルスに滅ぼされてもおかしくない。
ネットの匿名性の本当の問題は、その人のポジションが見えないことであり、やはり自粛に酔って、コロナ患者に茨の冠を被らせ囚人番号を割り振ろうとする連中は、何かしら役人とか大企業のサラリーマンとか、そういう人種なのであろう。何かしら安定した立場の人間が楽隠居のように自粛論者となっている危険性が問題なのである。人々の意見は、悪い意味で無知のヴェールに包まれている。ロールズが言う無知のヴェールとは、自分がどのようなポジションかわからないとしたら何が最善かという話だが、ネットはこれとは逆の無知を生み出しており、それぞれの匿名人が自らのポジションに有利になるような発言を頑張っているわけである。綺麗事が暗器のように襲いかかってくるのであり、このディストピアから逃れるためには、誹謗中傷を排除して褒め言葉だけ欲しいという甘いお菓子のような考えは許されず、あらゆる発言が虚無であることに向き合わねばならない。
5月20日 黒川検事長の賭け麻雀を週刊文春が報道
5月22日 小池都知事が非常に厳しいロードマップを発表
5月23日 木村花さんの自殺
5月24日 毎日新聞世論調査で支持率27パーセント。
5月25日 朝日新聞世論調査で支持率29パーセント。
5月25日 緊急事態宣言が全面解除
5月25日 プロ野球の開幕が決まる
まずは、5月22日に、小池都知事が極めて厳しい自粛のロードマップを示したわけである。これは小池都知事の独断ではなく、安倍政権の意向を汲んだものである。
そして5月23日に木村花さんが自殺。
それから5月24日と25日に世論調査でかなり低い支持率が出て、そこからはヤケクソのような全面解除となり、小池都知事も22日のロードマップを完全に否定したわけである。
やはり5月22日のロードマップでは、再開可能な業種と不可能な業種が示され、興行関係者は生木を裂かれるような苦しみを味わい、世に容れられない運命を自覚したわけである。
やはり木村花さんが5月23日に自殺したのは、これが大きな影響を及ぼしている。
小池都知事が悪いというよりは、5月22日の段階では安倍政権は自粛を続けるつもりだった。もし小池都知事が責められるとしたら、都知事選が近いので政権に阿り、天子の綸命に従うか如く、人跡が絶え荒廃した街をそのまま壊死させるような血腥い自粛のメッセージを発したことである。独裁者が粛清を断行するような決意が示されたのである。
政界のお歴々がさらなる長期の自粛を宣言したのだから、多感な若者が自死を選んだのも無理はあるまい。そもそも木村花さんは人気レスラーであるから、後楽園ホールを満員にするくらいは出来ていた。これが自粛となり、ファンと接する機会が絶たれ、アンチだけに囲まれる格好になっていたのが実際の構図であり、その無明の世界が永遠に続くと考え、若い身空を散らし、刑場の露として消えることを選んだのである。
それから数日も経たずに、死刑囚が恩赦で釈放されるかのように大規模な活動解禁となったのは、世論調査が直接の原因であるが、木村花さんの自殺も多少は影響していたように思う。
欧米では集団免疫がついて死亡者のペースも減っているし、この世界情勢において自己満足の自粛を続ける日本は、自粛の金メダルでも目指していたのか、あまりにも愚かであった。99パーセントが感染してない日本が欧米から褒められるのは、ドナルド・トランプの集団免疫戦略を槍玉にあげる手段であろうし、やはり集団免疫しかないのである。99パーセントが未感染の日本はいずれウィルスに滅ぼされてもおかしくない。
ネットの匿名性の本当の問題は、その人のポジションが見えないことであり、やはり自粛に酔って、コロナ患者に茨の冠を被らせ囚人番号を割り振ろうとする連中は、何かしら役人とか大企業のサラリーマンとか、そういう人種なのであろう。何かしら安定した立場の人間が楽隠居のように自粛論者となっている危険性が問題なのである。人々の意見は、悪い意味で無知のヴェールに包まれている。ロールズが言う無知のヴェールとは、自分がどのようなポジションかわからないとしたら何が最善かという話だが、ネットはこれとは逆の無知を生み出しており、それぞれの匿名人が自らのポジションに有利になるような発言を頑張っているわけである。綺麗事が暗器のように襲いかかってくるのであり、このディストピアから逃れるためには、誹謗中傷を排除して褒め言葉だけ欲しいという甘いお菓子のような考えは許されず、あらゆる発言が虚無であることに向き合わねばならない。
2020.05.27
六ヶ月分の家賃
なぜかほとんど取り上げられないのだが、事業用の物件を退居するときは、借りている側が六ヶ月前に通知する契約になっているのが普通である。つまり通知してから六ヶ月の家賃の負担が必要である。なぜかこれがあまり知られていないのは、通常であれば、その六ヶ月も営業するからであろう。赤字でも営業して固定費だけ回収するわけである。だから「退居すると六ヶ月の家賃を無駄に払う」という感じでもないわけである。これが昨今のコロナ禍においては、文字通りシャッターを降ろして閉店しての六ヶ月の家賃であるから、ずいぶんダメージである。
また別の話に転じると、いろいろとコロナ対策が報じられているが、チェーン店には補償がないということである。もちろん個人事業主への補償も煩雑な手続きで、どっちみち辿り着けないであろうが、なんにせよチェーン店は思い切った整理を迫られている。
また別の話だが、よくあるボロボロの飲食店は家賃が安いことが多い。家賃というのは、だいたいは入居したときの金額がベースとなっており、それから少しずつ上げることしかできないので、相場よりかなり安いこともある。逆に言えば、新しい飲食店は家賃が相場通りであるし、内装も新しいから、本当に気の毒なのである。今にも崩れ落ちそうなボロボロの個人商店というのがあるが、ああいうのも、かなり家賃が安いはずである。家賃が高いなら退居したほうがいいからである。前述したとおり、借りたときの家賃から微々たる値上げしかできないので、立地がいいところのボロボロの店はかなり割安であると考えてよい。そうやってボロボロの店を格安の家賃で続けて本当に嬉しいのかどうかは知らないが、まあそういうことなのである。コロナ禍において、マスメディアの報道はいろんな人の悲鳴で埋め尽くされているが、やはり突撃取材で表層的な絵を撮っているだけなので、なかなか掘り下げた記事が少ない。もちろん私のこの駄文も表層的であろうし、チェーン店にはそれなりの戦略もあるのだろう。自社物件など持ったら、それが固定資産になってしまうので(長期に渡って減価償却するので)、撤退するときの六ヶ月家賃の方がマシという考え方もできる。大赤字は悲劇に見えるが、一度に巨額の損失を計上できるのは、節税としてメリットが有るとも言える。
また別の話に転じると、いろいろとコロナ対策が報じられているが、チェーン店には補償がないということである。もちろん個人事業主への補償も煩雑な手続きで、どっちみち辿り着けないであろうが、なんにせよチェーン店は思い切った整理を迫られている。
また別の話だが、よくあるボロボロの飲食店は家賃が安いことが多い。家賃というのは、だいたいは入居したときの金額がベースとなっており、それから少しずつ上げることしかできないので、相場よりかなり安いこともある。逆に言えば、新しい飲食店は家賃が相場通りであるし、内装も新しいから、本当に気の毒なのである。今にも崩れ落ちそうなボロボロの個人商店というのがあるが、ああいうのも、かなり家賃が安いはずである。家賃が高いなら退居したほうがいいからである。前述したとおり、借りたときの家賃から微々たる値上げしかできないので、立地がいいところのボロボロの店はかなり割安であると考えてよい。そうやってボロボロの店を格安の家賃で続けて本当に嬉しいのかどうかは知らないが、まあそういうことなのである。コロナ禍において、マスメディアの報道はいろんな人の悲鳴で埋め尽くされているが、やはり突撃取材で表層的な絵を撮っているだけなので、なかなか掘り下げた記事が少ない。もちろん私のこの駄文も表層的であろうし、チェーン店にはそれなりの戦略もあるのだろう。自社物件など持ったら、それが固定資産になってしまうので(長期に渡って減価償却するので)、撤退するときの六ヶ月家賃の方がマシという考え方もできる。大赤字は悲劇に見えるが、一度に巨額の損失を計上できるのは、節税としてメリットが有るとも言える。
2020.05.24
非本来性への転落による死
女子プロレスラーが誹謗中傷で死んだと話題になっている。だが、わたしは違うと思う。人間として本来的な活動ができていれば、絶対に自殺はしていない。そもそもこの木村花さんの訃報は、米国のマスメディアでも記事になっているくらいだから、米国での知名度もかなりあったようだ。無菌室の東京よりは、米国の方が経済活動の本格的再開は早いと思うし、なにしろ高齢者がたくさん死んでるので、第二波でお荷物になりそうな塵屑がこの世からすでに消え去ってる。東京では、死にかけの老人がまだ死んでないので、かなりお荷物を抱えた状態で、感染は少ないながらもリスクを抱えており本格的な再開の目処が立たない。この木村花さんの米国での知名度からすると、米国での活動を視野に入れれば未来は閉ざされてなかったと思うのだが、日本の苛烈な自粛によって閉塞感が募っていたのであろう。本業のプロレスの活動が消滅して、変なリアリティー番組に出演するのは、本来的な自分の喪失であり、これこそが人間の存在理由を失わせるものである。つまり木村花さんは存在理由がなくなったから淘汰されたのだが、すでに述べたように米国での知名度の高さを考えると、米国で活動することは十分に有りえた、というより、確実に可能だった。米国でも今のところは興行などできないが、あと半年もあれば興行再開は可能だと思う。所属団体の問題もあるし、この人だけ米国に渡るわけにもいかないかもしれないが、なんにせよ、自粛が一段落したことで、再開できる業種と再開が厳しい業種という二極化が鮮明になってきている。興行にたずさわる人間は先が見えない不安でいっぱいであろう。再開可能な業種が意気揚々と再開していく中で、取り残されているひとたちがいるわけだ。誰もが自信を喪失したというよりは、業種によって、精神的に不安定な度合いは違う。今回の自殺は、そのような自信喪失がもたらしたものであり、本来的な自分を失っているさなかにあれこれバッシングされて、自ら命を絶つということになってしまった。日本人は事業に失敗した人間にはとても厳しいし、自殺しても当然だと考えているのだが、今回は誹謗中傷というキーワードで正義感が燎原の火のごとく広がっている。ともかくコロナウィルスによって既存の仕事がなくなり、自信を失っている人が多いので、今後も自殺者は出るのであるが、事業失敗なら自業自得として断罪されるし、プロレスラーもまったく同情されない職業であろう。経済苦で死んだらああそうですか、ということなのである。
2020.05.21
テレワークと経費
このところノートパソコンとか液晶モニタやiPad Proなどがずいぶん品薄である。世界恐慌前夜にしては、みなさんずいぶんお金があるようだ。ひとつの理由として、テレワークが社会に浸透したので、経費として落としやすくなるという観測があるはず。今までも自宅で仕事をするためのパソコンは経費として落とせたが、難癖を付けられる懸念もあった。これからはまったく問題ないと思われる。また企業のサラリーマンとしても、「9万円の現金」と「9万円のノートパソコン」では、前者に所得税がかかるのに対して、後者は所得税が掛からない。もちろん、所得税が掛かってもいいから現金でほしいという要望もあろうが、テレワーク社会だと余分にノートパソコンがあってもよさそうである。無論、税務署の判断が示されたわけではないが、今までもほとんど大丈夫だったはずなので、昨今のテレワーク推奨で盤石となった。iPad Pro 12.9インチは税別で10万円超えてしまうので、経費としての扱いは面倒だが、中小企業であれば問題ない。あるいは、大企業でも一括償却資産として扱えば三年で償却できるし償却資産税も掛からない、と思う。もちろん税務署が認めるかどうかは不明だが、テレワークが常識となれば経費として認められやすくなるはず。なんにせよ、わたしは専門家ではないので断言はできないのだが、この手の製品については経費として認められる可能性が高くなったと思うので、それも売れ行きのよさなのであろう。
2020.05.18
判子による同意
このところ判子が不要という意見があり、それ自体はもっともなので歓迎するべきだが、どうも判子の役割について本人証明のことだけ考えている人が多い気がしてならない。
判子というのは、最終的な契約の調印のために重要である。何らかの契約をするとして、人間はあれこれと不満があるわけだが、渋々と判子を押したりする。双方が一点の曇りもない晴れ晴れとした心境で判子を押すわけではない。そしてその不可逆性が社会の根幹なのである。もちろん判子ではなく直筆の署名でもいいのだが、いろいろと迷いながらも、決めたらキャンセルできないことが重要である。
こういう話題で、わたしは土屋アンナの降板騒動を思い出したのだが、なぜかWikipediaではあの一件が完全に削除されている。編集合戦があったのかどうか、そこまでは見ていない。
なんにせよ、あの騒動においては、脳性麻痺の原作者は渋々と同意していたはずなのである。その後でも愚痴愚痴と不満を持っていて、それでたまたま土屋アンナの正義感が炸裂したのであろう。
素晴らしい原作が映像化や舞台化によって悪夢のような愚作に仕上がろうとも、それはそれでよくあることであろう。
原作者には原作を引き上げる権利というのがありうるが、ここでは意思確認が曖昧な事例として引き合いに出しているだけなので、そこまで深くは考えない。
土屋アンナが実質的にこれで終わっているのも、やはりクソ作品だという理由で降板するのは芸能界として好ましくないのであろう。正義感の強い野次馬からは拍手喝采を浴びたが、やはり痛々しい失敗作でも渋々とやり遂げなければならない。原作者の不満に取り合わないのが妥当であろうと思う。短絡的な正義とは別に、契約したからにはやるというルールもある。
判子を廃止するのはいいとして、渋々と判を押すような決断の場をどうやって作りだすのか、その認識を社会的に作り上げることも必要である。同意したのか同意してないのかあやふやというのでは困る。直筆の署名に切り替えるのでは手間が変わらないだろうから、電子的にポチる意思表示の重みの話である。
判子というのは、最終的な契約の調印のために重要である。何らかの契約をするとして、人間はあれこれと不満があるわけだが、渋々と判子を押したりする。双方が一点の曇りもない晴れ晴れとした心境で判子を押すわけではない。そしてその不可逆性が社会の根幹なのである。もちろん判子ではなく直筆の署名でもいいのだが、いろいろと迷いながらも、決めたらキャンセルできないことが重要である。
こういう話題で、わたしは土屋アンナの降板騒動を思い出したのだが、なぜかWikipediaではあの一件が完全に削除されている。編集合戦があったのかどうか、そこまでは見ていない。
なんにせよ、あの騒動においては、脳性麻痺の原作者は渋々と同意していたはずなのである。その後でも愚痴愚痴と不満を持っていて、それでたまたま土屋アンナの正義感が炸裂したのであろう。
素晴らしい原作が映像化や舞台化によって悪夢のような愚作に仕上がろうとも、それはそれでよくあることであろう。
原作者には原作を引き上げる権利というのがありうるが、ここでは意思確認が曖昧な事例として引き合いに出しているだけなので、そこまで深くは考えない。
土屋アンナが実質的にこれで終わっているのも、やはりクソ作品だという理由で降板するのは芸能界として好ましくないのであろう。正義感の強い野次馬からは拍手喝采を浴びたが、やはり痛々しい失敗作でも渋々とやり遂げなければならない。原作者の不満に取り合わないのが妥当であろうと思う。短絡的な正義とは別に、契約したからにはやるというルールもある。
判子を廃止するのはいいとして、渋々と判を押すような決断の場をどうやって作りだすのか、その認識を社会的に作り上げることも必要である。同意したのか同意してないのかあやふやというのでは困る。直筆の署名に切り替えるのでは手間が変わらないだろうから、電子的にポチる意思表示の重みの話である。
2020.05.17
診察という儀式
コロナウィルスによって、不要不急であるものがリストアップされていく昨今であるが、医療こそ真っ先に見直されなければならない。紹介状があると医者に診てもらえるのが現実であるが、そういうひとたちがメディアの発信側に多いから、紹介状がない人の悲劇は黙過されている。無名力士がたらい回しにされて喀血してようやく病院に収容され結局は死亡というエピソードで、かろうじて世間に伝わった程度である。そもそも医者に診てもらっても治るわけではないので、診察自体が不要である。つまり医療機関ではないところで検査を受け、陽性なら処方箋なしでアビガンを貰えればいいだけである。診察は無意味という現実は長らく放置されていた。診察の大半は薬をもらうための儀式でしかない。その儀式から医者が逃げているのであるから、われわれ患者はアビガンを手にするべく攻め込まなければならない。診察を省いてアビガンを貰える仕組みを実現してもらわないと困るし、それが嫌だと言う医者がいるなら、そいつに診察してもらうだけである。何が言いたいかというと、とにかく診察は不要なのである。それでも必要だと言い張るのなら、やむなく紹介状なしで病院に行くし、受付で門前払いされても診察室に入りますよ、ということである。そうやって旧態然とした世界を葬り去るのである。そうすれば、もう少し安心して感染できるであろうし、生き残る人間が蝕まれないために、われわれはコロナ死を甘受する。ワクチン開発まで年単位の時間がかかる、というより、安全性の問題を考えると、ワクチンが完成しない可能性もあるから、自粛の継続にも限界があり、このウィルスとの接し方について決断することが求められる。インフルエンザに毛が生えたようなものであるし、もはやウィルスに身を晒して免疫をつけていくしかないのだが、その一方で、無駄な危険性を省くため、不要不急の儀式は取り除かなければならない。ウィルスによって淘汰されるものもあれば、強行されるものもあり、もしくは新しく流行するものもあるだろうが、人間社会そのものが問い直され、人間の席次も変わる。生者の世界を継続するためには、人が死ぬたびに悲しむ芝居をやめねばならない。メディアを埋め尽くしている悲鳴記事は作文であろうし、もしああいう厚顔無恥な輩が本当にいるなら物乞いと判定し邪険に扱う。医療は最大限に効率化し、3分診療を根絶やしにし、アビガンは0秒で手に出来なければならない。
2020.05.14
コロナのワクチンは極めて高い安全性が求められる
このエントリーは講談社ブルーバックスから出版されている「免疫力を強くする 最新科学が語るワクチンと免疫のしくみ」(宮坂昌之著)を読んでの感想文のようなものだが、決してこの本の要約ではないし、あくまでこの本を読んで、現在の状況についての愚見を述べるだけである。
さて、ワクチン開発自体は簡単だが、安全性が極めて高いワクチンの実用化はかなり時間がかかる。
コロナウィルスは感染力がやたらと強いだけであり、病気そのものは軽度である。コロナを防ぐためにワクチンを接種して重大な障害が残っては莫迦莫迦しいので、安全性が高くなくてはならない。
もし、エボラ出血熱だったら話は別で、この恐ろしい病気を防ぐためなら安全性度外視もあり得る。たとえばそれなりの確率で障害が残ったとしても、エボラ出血熱に比べたらたいしたことがないからである。
こうやって考えると、コロナウィルスのワクチンは、安全性の確認まで何年も掛かる可能性もある。安全性を確認する時間を省くほどの致命的な病気ではないし、未知数のワクチンを使うくらいなら、それこそ本物のコロナウィルスに感染した方がマシなのである。
いや、それこそワクチンなど待たずに、さっさと本物のコロナウィルスに感染してみてはどうか、という話なのである。たとえば感染したらどんなに重症化しても病院に行かないという覚悟があるなら、意図的に感染して自主隔離でもいいと思う。一度感染したら二度と感染しないわけではなさそうだが、免疫とはそういうものだし、ワクチンによる免疫でも完全に防御できるわけではない。
念の為言うが、前掲書の著者は決してこんな主張はしてない。
わたしが勝手に書いているだけである。
ちなみに前掲書によると、ワクチンで障害が出たら補償金を支払うという発想があり、あらかじめその費用がワクチンの費用に含まれているのがアメリカではずいぶん浸透していて、日本では浸透してないらしい。
こう考えると、コロナウィルスのワクチンについても、アメリカだと、障害が出たら補償金という具合で見切り発車してしまうかもしれない。
なんにせよ、コロナ死と経済死を秤にかけたとして、アメリカはコロナ死を軽んじており、日本は経済死を軽んじている。
人間は理由を説明しないで物事を運ぶことにしており、日本人は特にその傾向が強いのであるが、そろそろコロナ死と経済死の選択について、口にしなければならない状況になっている。
なぜ人間は理由を説明しないのかというと、理由を言うたびに反論されるからだろうし、それが真っ当な反論であれ、苦し紛れの反論であれ、物事の遂行には邪魔である。また他人を無視するのは対人的な攻撃として強度があり、説明して納得させるより遥かに効果が高い。この人間的な、特に日本人に強い気質が、どうもコロナ死だけを徹底的に防ぐために突き進んでいるように思える。
さて、ワクチン開発自体は簡単だが、安全性が極めて高いワクチンの実用化はかなり時間がかかる。
コロナウィルスは感染力がやたらと強いだけであり、病気そのものは軽度である。コロナを防ぐためにワクチンを接種して重大な障害が残っては莫迦莫迦しいので、安全性が高くなくてはならない。
もし、エボラ出血熱だったら話は別で、この恐ろしい病気を防ぐためなら安全性度外視もあり得る。たとえばそれなりの確率で障害が残ったとしても、エボラ出血熱に比べたらたいしたことがないからである。
こうやって考えると、コロナウィルスのワクチンは、安全性の確認まで何年も掛かる可能性もある。安全性を確認する時間を省くほどの致命的な病気ではないし、未知数のワクチンを使うくらいなら、それこそ本物のコロナウィルスに感染した方がマシなのである。
いや、それこそワクチンなど待たずに、さっさと本物のコロナウィルスに感染してみてはどうか、という話なのである。たとえば感染したらどんなに重症化しても病院に行かないという覚悟があるなら、意図的に感染して自主隔離でもいいと思う。一度感染したら二度と感染しないわけではなさそうだが、免疫とはそういうものだし、ワクチンによる免疫でも完全に防御できるわけではない。
念の為言うが、前掲書の著者は決してこんな主張はしてない。
わたしが勝手に書いているだけである。
ちなみに前掲書によると、ワクチンで障害が出たら補償金を支払うという発想があり、あらかじめその費用がワクチンの費用に含まれているのがアメリカではずいぶん浸透していて、日本では浸透してないらしい。
こう考えると、コロナウィルスのワクチンについても、アメリカだと、障害が出たら補償金という具合で見切り発車してしまうかもしれない。
なんにせよ、コロナ死と経済死を秤にかけたとして、アメリカはコロナ死を軽んじており、日本は経済死を軽んじている。
人間は理由を説明しないで物事を運ぶことにしており、日本人は特にその傾向が強いのであるが、そろそろコロナ死と経済死の選択について、口にしなければならない状況になっている。
なぜ人間は理由を説明しないのかというと、理由を言うたびに反論されるからだろうし、それが真っ当な反論であれ、苦し紛れの反論であれ、物事の遂行には邪魔である。また他人を無視するのは対人的な攻撃として強度があり、説明して納得させるより遥かに効果が高い。この人間的な、特に日本人に強い気質が、どうもコロナ死だけを徹底的に防ぐために突き進んでいるように思える。
2020.05.12
高齢者の死を本当に悲しんでいるのかどうか
コロナウィルスで人口の1%が死ぬのもなかなか難しい具合である。
アメリカの人口は3億2000万人で、今のところ8万人が死んでいるが、320万人まで到達するのはかなり難しい。
日本の人口が1億2000万人として、このうち120万人がコロナウィルスで死ぬのも難しそうである。
自粛しないでノーガードだったら1%超えはできるとは思うが、たぶんその程度の話である。
なおかつ80歳過ぎの人間は何らかのキッカケで死ぬのだからノーカウントとすれば、かなり致死率は低いはずなのである。
それにも関わらず、われわれはこの病気を恐れ、相互に警戒しあっているのである。
これが差別の戯れでないとしたら何なのであろう。
つまるところ、大半の人は検査難民や医療難民となることを恐れているのである。クラスタの感染源として不祥事の汚名を着せられることを恐れている。感染してしまうと社会的に厄介なのである。
死期が迫っている高齢者にトドメを刺す病気であるが、どっちみちなんらかの病気で死ぬのであろうし、そういう死因のひとつというだけの話である。
そもそも現実の葬式に参加したことがある人ならわかるだろうが、意外と誰も悲しんでなくて驚くわけである。高齢者の葬式だと親族が談笑しているのが普通だったりする。子供の頃は芸能人が死んだりするのが大悲劇として扱われているのを見てきたから、葬式とは悲劇の極みの場だと思っていたが、実際はそうではない。テレビで見る葬式と、実際に体験する葬式はまったく違う。テレビに映っている芸能人は一芝居打って嗚咽してみせるくらいはするが、一般人の葬式でそんなことはない。無論、子どもが死んだりしたケースならさすがに悲痛なのかもしれないが、高齢者の葬式はもっと恬淡としたものである。義理で参列している人は不謹慎とならぬように目を伏せているだけであり、ただの儀式である。人間の死を軽く扱うとそれはそれで問題だから儀式も必要ではあるが、あくまで儀式は儀式である。あるいは、マスコミにマイクを突きつけられると死は嘘になってしまう。われわれは死というものを儀式として厳粛に扱うだけであり、テレビの前で見せる筋合いのものではないのである。
というより、日本の場合、高齢者の命を心配している事自体が嘘であり、本当の真実としては、感染した高齢者への対応で医者が死ぬことを恐れているのかもしれない。爺さんや婆さんの死はどうでもよく、医者の命を守るために延々と無為な経済的自粛をしているという問題。医者の命と経済のどちらが重いかといえば経済に決まっている。これについても、われわれ日本人は国民皆保険に慣れており、医者に金を払っている自覚に乏しい現実があるが、医者を守るために目を瞑っているうちに経済的な死体は積み上がるのである。
アメリカの人口は3億2000万人で、今のところ8万人が死んでいるが、320万人まで到達するのはかなり難しい。
日本の人口が1億2000万人として、このうち120万人がコロナウィルスで死ぬのも難しそうである。
自粛しないでノーガードだったら1%超えはできるとは思うが、たぶんその程度の話である。
なおかつ80歳過ぎの人間は何らかのキッカケで死ぬのだからノーカウントとすれば、かなり致死率は低いはずなのである。
それにも関わらず、われわれはこの病気を恐れ、相互に警戒しあっているのである。
これが差別の戯れでないとしたら何なのであろう。
つまるところ、大半の人は検査難民や医療難民となることを恐れているのである。クラスタの感染源として不祥事の汚名を着せられることを恐れている。感染してしまうと社会的に厄介なのである。
死期が迫っている高齢者にトドメを刺す病気であるが、どっちみちなんらかの病気で死ぬのであろうし、そういう死因のひとつというだけの話である。
そもそも現実の葬式に参加したことがある人ならわかるだろうが、意外と誰も悲しんでなくて驚くわけである。高齢者の葬式だと親族が談笑しているのが普通だったりする。子供の頃は芸能人が死んだりするのが大悲劇として扱われているのを見てきたから、葬式とは悲劇の極みの場だと思っていたが、実際はそうではない。テレビで見る葬式と、実際に体験する葬式はまったく違う。テレビに映っている芸能人は一芝居打って嗚咽してみせるくらいはするが、一般人の葬式でそんなことはない。無論、子どもが死んだりしたケースならさすがに悲痛なのかもしれないが、高齢者の葬式はもっと恬淡としたものである。義理で参列している人は不謹慎とならぬように目を伏せているだけであり、ただの儀式である。人間の死を軽く扱うとそれはそれで問題だから儀式も必要ではあるが、あくまで儀式は儀式である。あるいは、マスコミにマイクを突きつけられると死は嘘になってしまう。われわれは死というものを儀式として厳粛に扱うだけであり、テレビの前で見せる筋合いのものではないのである。
というより、日本の場合、高齢者の命を心配している事自体が嘘であり、本当の真実としては、感染した高齢者への対応で医者が死ぬことを恐れているのかもしれない。爺さんや婆さんの死はどうでもよく、医者の命を守るために延々と無為な経済的自粛をしているという問題。医者の命と経済のどちらが重いかといえば経済に決まっている。これについても、われわれ日本人は国民皆保険に慣れており、医者に金を払っている自覚に乏しい現実があるが、医者を守るために目を瞑っているうちに経済的な死体は積み上がるのである。
2020.05.09
飲食店と電車の吊り革
自分の唾液をいつも口の中に入れて人間は生きているのに、なぜ他人の唾液を汚らしく感じるのか、という疑問がある。普段はこの謎に答えられないが、現在だと、他人の唾液にはコロナウィルスが混ざっている可能性がある、と説明できる。以前からわれわれは飲食店を不衛生だと認識しているが、いわば電車の吊り革のようなものであり、気にしているとキリがないから利用していたのである。警戒レベルを下げないと人間は生きていけないからである。だが、コロナウィルスが流行して警戒レベルを上げてから、その不衛生さが本当に疎ましくなっている。飲食店が閑散としているのは風評被害ではなく、普段からちょっと不衛生だなと思っており、その不衛生さに間違いはないから、やたらと感染力が強い疫病が蔓延している状態においては本当に行きたくないのである。実際は店がガラガラならさして問題あるまいが、他の客が来ないとも言えないし、どうしても外食が必要というわけではないので、お互いがウィルス兵器となる場は敬遠しておくのが妥当である。実際はコロナウィルスは感染してもたいした病気ではないが、なにしろまともに医療が受けられないので、感染すると難民化するから厄介である。感染したら確実に重態になる病気であれば患者が動き回れるはずもなく、こんなに感染はしないはずだが、微妙な匙加減でこの中途半端な病気が広まっていくものだから、必要以上に、いや、医者にコネがない身分の人間としては、極めて差し迫った危機として飲食店を忌避するしかない。無言で食べる店ならまだいいが、ワイワイやりながら飲み食いするとなると、各人が唾液を撒き散らして室内をウィルスで埋めているようなものである。それこそ娼館の褥より感染者を多く出すリスクがある。そもそもコロナ以前の世界では、電車の吊り革が理由で病気に感染することだって普通にあったと思う。だが、それは病院で治療できた。だから、われわれは平気で吊り革に掴まっていた。現在では病院に辿り着くのが一苦労なので、病院が存在しない異世界を医療難民として彷徨している。最近では手術を先延ばしにする人も増えているようであるし、患者が病院に来ないので病院が倒産しそうという間抜けな話もあるが、この世に病院はないと思って生きていくしかないのだ。
2020.05.07
ハロプロの人間関係の設定
鞘師里保ちゃんのインスタ開設を巡る状況はわかりづらいが、とりあえず2014年(道重の最終年)の設定に戻そうとしているようである。
2015年に鞘師里保ちゃんがモーニング娘。を卒業してから、鞘師ヲタは誰ひとりとして道重には触れないのが現実であり、そもそも道重を推していたはずのマツコ・デラックスもこの2015年の展開に激怒して、ハロプロに興味を失った御様子である。
鞘師里保ちゃんも2019年に海外留学から戻ってきたらアップフロントは退社してBABYMETALに参戦していたから、2015年の遺恨自体はあったと思われる。
であるから、ここにきて2014年に時計の針を戻すことにわたしはずいぶん違和感があるのだが、鞘師ヲタの代表である松岡茉優さんはマツコと違って、ハロプロから離れていないので、人間関係の嘘には肯定的だと思われる。
2014年の設定に戻しているのは、そのあたりも関係していると思う。
松岡茉優さんがハロプロから離れていたら、また話は別だった。
ともかく2014年の設定に戻したから戻したというしかない。
道重と鞘師里保ちゃんがまったく親しくないのは明々白々たる事実なので、これがどれだけ共感を得ているのかは謎である。
2015年に鞘師里保ちゃんがモーニング娘。を卒業してから、鞘師ヲタは誰ひとりとして道重には触れないのが現実であり、そもそも道重を推していたはずのマツコ・デラックスもこの2015年の展開に激怒して、ハロプロに興味を失った御様子である。
鞘師里保ちゃんも2019年に海外留学から戻ってきたらアップフロントは退社してBABYMETALに参戦していたから、2015年の遺恨自体はあったと思われる。
であるから、ここにきて2014年に時計の針を戻すことにわたしはずいぶん違和感があるのだが、鞘師ヲタの代表である松岡茉優さんはマツコと違って、ハロプロから離れていないので、人間関係の嘘には肯定的だと思われる。
2014年の設定に戻しているのは、そのあたりも関係していると思う。
松岡茉優さんがハロプロから離れていたら、また話は別だった。
ともかく2014年の設定に戻したから戻したというしかない。
道重と鞘師里保ちゃんがまったく親しくないのは明々白々たる事実なので、これがどれだけ共感を得ているのかは謎である。