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勉強しない人間は不愉快であるが、では勉強すると好感を持たれるのかと言うとそうでもない。「勉強しかできない」となる。理由はいろいろあるのだろうが、ここでは、青春を楽しむ義務という観点から考える。青春を楽しんでいる人間は嫉妬されるが、楽しんでなければ蔑まれる。青春と勉強というのはそういう嫉妬と蔑みの渦の中にあり、われわれは翻弄されている。青春を楽しまなければならないという強迫観念は決して個人の思い込みではなく、社会が持っている観念であり、人間の普遍的な欲求でもある。中年になれば勉強しても誰からも文句は言われないが、やはり中年になってから勉強しても手遅れという側面はある。あるいは三島由紀夫のように知性を極めた人間でも、青春の喪失が拭い難い欠落としてつきまとうこともある。三島由紀夫の場合は同性愛者という特殊要素もあるから、若々しい肉体美への憧れが、自分自身のものなのか美男子への性的欲求なのか混濁としており、45歳になっても青春を卒業できなかったから自決したのである。若者は何をやっても批判される。青春を楽しんでも楽しまなくても、勉強してもしなくても、批判に晒される。おそらくバランス良くやれば批判されないと思うが、一日に10時間勉強すると批判されるので、他人からの批判を避けるために3時間にするといいのか、そこまで他人の顔色を伺うのか、勉強時間くらい好きにさせろ、という難題である。若くて脳が柔らかいと感受性も強いので、いろんな葛藤を持ちやすい。であるから、その弱点を突かれる。若者に文句を言うオッサンが悪いという話でもなく、おそらく若者同士でもお互いを嫉妬したり蔑んだりする目線はあり、青春についても然りである。人間の業病でもあるから解決し難いし、ここからさらに書き綴ってもあまり意味はない気がする。ほどほどに青春を体験できれば、このような苦悩もないのであろうが、疎外されてしまうとこじらせる。中年になってもこじらせたままであることもあれば、性的欲求がなんとなく落ち着いて中年以降の人生を楽しめることもある。これは本人がどうにかできるものでもなく、40歳や50歳になっても欲望が強すぎて空回りを続ける人間もいるのである。
複式簿記とはなんぞやと考えると、つまるところ、お金は混ざってしまうので、その前に記録しておくという話である。数字とは何でもかんでも足したり掛けたりできるものではなく、単位が違えば四則演算は出来ない。たとえば体重と気温を掛け合わせるのは間違いである。いや、体重と気温を掛け算して、暑苦しさの指標としてもいいが、ともかく体重と気温は別の単位である。お金は単位が同じであり、目の前に百万円あるとして、これが売上なのか借入金なのか、どちらでも同じである。百万円は百万円である。あるいは、10万円のパソコンと100円のボールペンは同じ物差しで測ることができる。パソコンはボールペンの1000倍価値があるのである。バスケットボールのスコアとサッカーのスコアを見比べてバスケ選手のほうが得点が取れて凄い、ということはないが、商品についてはその価格に比例して価値がある。さて、そのような貨幣の平等性によってあれこれ混ざってしまうから、経理としてお金に色を付けてみるしかない。いろんな経済的なやり取りを勘定科目で分別して記録するのが複式簿記である。出費する場合でも、その種類を勘定科目で分別し、費用になることもあれば、固定資産になることもある。実際は簿記などわからなくても、誰もがなんとなく「これは借りたお金」とか「これは自由なお金」という具合に区別はするのだが、そのすべての出し入れを勘定科目で分別して記録するのである。不正の防止も含め、一つ残らず記録する。人間は貸し借りをする生き物であり、おそらく簿記などつけなくても貸し借りの理解はあるのだが、やはり記録しておかなければ大雑把になってしまう。勘定科目は「資産」「負債」「純資産」「収益」「費用」の五種類に分かれるが、だいたい人間の経済活動はこれで表せるということだろう。いわゆる小遣い帳は出費を記録しているだけであり、資産と負債の概念がない。資産と負債を明記するとどうしても複式簿記になってしまう。混ぜないように記録するとそうなるのである。
一過性の暴風雨ならともかく、年単位の天変地異となると、これはもう人生すべてがそこに取り込まれたと言っても差し支えあるまい。もはやマスクを着けるのが当たり前となっており、コロナウィルスがインフルエンザと大差ない実情を踏まえると、生死の境目という危機感はもはやないから、何のために息苦しいマスクをしているのか、鉄壁な防疫の意義が不明瞭になりつつあり、この酷暑の艱難辛苦たるや、この煩わしい日常が漠然と続くのであれば死んだほうがマシという鬱屈である。人生において目標なるものを設定すると有言不実行に終わるし、その公約に祟られる障りの重さからして、何も言葉にせずにおいたほうがあれこれ捗るが、こうなってくると、来年3月頃にコロナウィルスは一段落ついて、マスク無しの世界に戻ると考え、そこに向けて逆算していくしかない。そのような目標設定をして、それが現実とズレたとしても、現在を耐えるためには、さすがにこれがどこかで終わると想定するしかなく、それに、限られた寿命を年単位で削り取られるのは耐え難い重税であるが、決して終身刑ではなく、どこかで釈放される。どの時点で釈放されるかは杳として知れないのだが、釈放されると想定しなければ、現在の閉塞感に耐えられない。とりあえず来年3月には終わっているくらいに思っておくと、恢復に向けた計算はしやすい。とはいえ、アパレルの店でもやっていたら、そんな楽観的な見方ができるわけがない。損切りとして閉じてしまうべきだし、本当に多額のお金を使っての維持はできない。コロナが終息したら、まずは死体を片付けることから始まりそうだが、おそらく何年かすれば飲食や観光も流行るであろう。その局面に来るまで飲食店を続けるかとなれば固定費の赤字を出し続ける金銭的な悩みであり、ひとまず閉店するのが現実かもしれないが、その断絶の後は、似たりよったりの世界が蘇る。現時点で店を閉める人と、コロナ後に新しくオープンする人は別人であろうから、無慈悲というしかないが、そういうことなのである。わたしが前段で、来年3月にコロナが終わると述べてみたのは、固定費が発生してない状態を想定したものであるし、終息まで多額の固定費の出費が続くなら別問題である。コロナ明けを見据えるという考え方もあれば、そこまでに撤退する決断を迫られる立場の人もいる。
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