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2020.10.29
マスクと無表情
マスクを付けるというのは目出し帽をかぶっているのに等しく、われわれは表情がわからないマシーンとして街を徘徊している。マスクを着けていることで他人とぶつかる機会が増えているという話はさほど聞かないが、やはり緊張感は強いられているし、他人の表情が消えているため、人体は物体となっている。われわれは表情で自分の次の行動を示しているところがあり、マスクで拘束されているとそれができない。表情でシグナルを出すためには目玉だけでは足りない。もちろん目玉という主要な器官が付いているのだから激突までしないし、致命的ではないのだろうが、「右に曲がります」とか「止まります」と声高に宣言するわけにもいかないので、お互いの動きが予測しづらく、いきなり死角から出てくる感じもあるし、雑踏での挙動にやや難しさを感じている。コロナによって混雑が軽減されているからなんとかなるが、これで以前とまったく同じ密度の人混みだったらさぞかし大変であろうと思う。本当に激突事故が増えたら手旗信号でもやるかもしれないが、そこまでではないので、微妙にストレスが溜まる厄介な状況が続く。これがいつまで続くのかは杳として知れない。プロ野球だって公式戦120試合を完走しつつあるし、所詮はその程度であるが、ウィルスがどこかで消える理由も見当たらない。そもそも高齢者が死ぬのが悲しいという虚偽は芝居がかった芸能人のせいであるし、若ければ話は別だが、老人が死んだ程度で嗚咽をこらえきれないような参列者は一般人の葬儀には存在しない。他人の表情が見えないストレスは人間を根本的に蝕むものであり、これをいつまでもやっているのは愚かしく、どこかでマスクを捨てなければならない。80歳を過ぎて生きている連中に引導を渡すべく、決起の瞬間を待たねばならない。健康なまま老衰で死ぬ大往生という理想は、死という命題から目を背けるものであるし、これもひとつの視野狭窄である。あれこれマスクで隠すのは限界に来ている。老人を病院に搬送するのではなく、火葬場に積み上げるべきである。
2020.10.20
コロナ以降の若者のマナー
コロナになってから若者のマナーが悪い。この二十年くらい、とにかく日本は高齢者のマナーが悪く、若者はずいぶんおとなしかったのだが、コロナ以降はそうではない。このあいだも、わたしが無印良品に行ってレジに並んだつもりだったら、目の前の若者がスマホを操作しているだけだったというのがわかって、並び直した。今までならわたしはそいつに肘打ちでもした上でレジに並び直していただろう。ちなみにそいつに引っかかっているのはわたしだけでなく、横目で見ていたら、他の人もその若者の後ろに並んでいた。このコロナ禍において、無症状感染の可能性がある若者に近づきたくはないので、こちらもおとなしくしているわけだ。その若者もアスペ風ではなかったし、見た感じは品のよさそうな美青年で、オラオラ風でもなかった。レジのそばでスマホをやって他人を幻惑させるという悪意があったわけではあるまい。コロナ以前なら高齢者に体当たりされて自らのマナーの悪さに気づいていたであろう。コロナ禍で高齢者が死んだのか、もしくは延命のために自宅でおとなしくしているのか、街のダニというべき奴らが路上から消えてせいせいするかと思いきや、逆に漠然とマナーの悪い若者を目にするようになった。彼らは決して団塊世代の奴らのようなオラオラ感はないのだが、今ひとつ他者への配慮が欠けており、暴力老人の餌食にならないとわからないのか、という印象である。サボる奴がいなくなると別の誰かがサボるみたいな話であろうか。「並んでいるのかいないのか紛らわしい」というのは老人だと軍隊のように隊伍を組むのに慣れているのか以前からそんなに見受けられず、わりと若者に多いマナー違反である。コロナ以降にこういうのをよく目にするようになった。50人くらいが狭い教室に詰め込まれているような世代とは感覚が違うのであろう。ようやく暴力老人が死んだのか一時的に消えたのか、害虫がいなくなったと思ったら、その穴埋めのように若者のマナーが悪いのでうんざりしている。なんにせよ、われわれは他人に向けて言葉を発してなくても、自らの挙動を周囲にシグナルで示している。言葉で説明しないというルールがある一方で、自分がなにをやっているのか、アイコンタクトで、いや、決して直視はしないのだが、それとなく周辺視野で気遣いながらやり取りしている。「わたしはレジに並んでおります」と言葉で発したら変な人になってしまうが、そういう仕草をするのが社会の基本である。制服を着て自らの職業を示すのと同じである。
2020.10.18
社会に溶け込んでいた人たち
このところわたしの中で有村悠さんはまったく危険ではない人物となっている。それだけリアル社会で不穏な人間が増えている。今までは社会の背景にカメレオンのように溶け込んで澄ましていた人が、コロナ禍において、粗末な素顔を晒している。彼らは有村悠さんより何千倍も危険であり、わたしもそろそろ刺されるのではないかと思っている。誰も銃器を構えているわけではなく、衛生兵が闊歩しているだけの世界であるから、本物の戦争とは違うであろうが、社会の繋がりが壊死したことによって、今まで一体何をやってきたのかという、それぞれの素の状態が問われている。この生殺しのような状態において、文字通りの死を考えるひとも少なからずいるであろう。コロナが終われば、かれら健常者は社会に復帰して何食わぬ顔でワイワイやる生活に戻るのかもしれないが、この端境期による飢えで経済力も切り刻まれているし、悪夢が簡単に覚めるとは限るまい。わたしはこのところ健常者の言動に呆れており、よく今までもっともらしい顔をして社会に紛れていたなと感心もしている。彼らは器用な人間であるから、簡単に儲かる方法を思いついてしまうし、努力を省く効率化が仇となり、システムを築き上げたがゆえに実力が身についておらず、昨今の世情で灰燼に帰したという具合であり、彼らには似つかわしくないルサンチマンの徒となっているのだから、いろいろな意味で恐懼の念に耐えないが、わたしが刺されるのも一興であろうし、ともかく、器用な健常者が闊歩できていた世の中が一時的に停止している現状から何かを学ぶしかあるまい。
2020.10.14
押し売りこそが人間
このところ一軒家を買う人が増えているそうだが、セールス対策への意識が薄れていると思われる。コロナが完全になくなったら対面営業が復活するかもしれず、そこは不明瞭だが、インターネットでいろいろと調べられる時代だと、営業マンと顧客の情報格差も縮まってしまうし、コロナ禍を大きな曲がり角として営業職は荼毘に付されるのかもしれない。昭和の頃だと、「さっき刑務所から出てきた」と前口上を述べる押し売りが本当にいた。あと、新聞勧誘員(拡張団)に恫喝されるのは日常茶飯事であった。昔だとそう簡単に警察は来ない。相手が刃物を取り出したとして、それが腹部の表皮を掠める程度では甘く、内臓まで到達したらようやくお巡りさんがやってくる。穏健になった今日では、粗暴性で牙を向いてくる営業は廃れているが、営業マンは面子ををかけて向かってくるのだから、面子を潰さないように苦慮せねばならない。営業マンを小馬鹿にしてもまったく問題ないし、彼らが内心で殺意を抱いたとしても何もできやしないだろうが、そこで優位に立っても無意味だし、自宅で迎え撃つとなれば尚更である。ともかく対決が重荷なのである。勝っても寂寥たる無意味さに胸糞悪くなるだけなので、手遊びとしてもつまらない。なんにせよ、この手の輩が絶滅することはないにしても、死骸は確実に増えていくであろうし、死に損ないが半死半生でたどり着く程度であろう。訪問販売が廃れるのであれば、一軒家の方がいいというのはある。それにしてもセールスとは何なのか、というと、逆恨みの原理なのであろうし、よく知らん営業マンの頼みを断ることでさえ大変なのだから、政界の大立者が面子をかけて利権を守るみたいなのは廃れない。頼みを断られたら逆恨みというのは、人類に奥深く根を張っているやり方であり、これで精神病院に拘禁されることはないし、大概は精神病院から最も遠い人種というか、ソーシャルスキルの発揮なのだから困ったものである。営業というのは、仕事を引き受ける側なのに相手に頼みに行くという奇妙な行為だが、これが政治的動物の特徴であるなら、やすやすと死なないのかもしれないし、狭義の対面営業は減るとしても、頼む側と頼まれる側が倒錯している社会が揺らぐのかは判然としない。頼む側と頼まれる側の立場がおかしいのは、つまり押し売りということだが、人間が人間である限り、広義の押し売りは消えないかもしれないし、であるのならば、セールスマンが減ったところで万古の憂いが癒えることはあるまい。
2020.10.02
コンビニ会計
「コンビニ店長の残酷日記」三宮貞雄著(小学館新書)という本を読んでみた。だいたいこの手の新書は内容が浅薄なのだが、これはかなり面白い。コンビニの謎がわかった。ロイヤリティというのは、普通であれば、儲けから一定割合を上納すると誰もが思うはずである。実はそうではなく、(かなり噛み砕いた言い方をすると)売れても売れなくても、売れたという認識で、そこにロイヤリティがかかる。コンビニで売れそうにない恵方巻きをたくさん店頭に並べるのも、売れても売れなくても(本部から見れば)収益だからである。ああそういうことなのか、と得心がいったわけである。とにかく店頭に商品を並べてしまえば、それで売れたということなのである。全然儲かってなくても、その「コンビニ会計」による収益認識でロイヤリティが計算される。見切り販売(賞味期限が近いものを原価割れで売る)を本部は嫌がるそうだが、これも「コンビニ会計」が原因であるようだ。売れ残ったほうがロイヤリティが増える計算になるらしい。赤字店舗でも儲かったという奇妙な収益認識で、そこにロイヤリティが掛かり、しかし実際は赤字はオーナーがかぶるので、店は潰れるわけである。真っ当にやるなら、赤字黒字に関わらず定額の看板料を取るという方法もありそうだが、それだと本部が店の経営を指導するという大義名分がなくなってしまう。なんにせよ、コンビニのフランチャイズ料は実態として定額の看板料と考えたほうがよさそうである。ドミナント戦略が中心になるのも看板が多ければそれでいいからである。おそらく法的な不正としてメスを入れるのは難しいと思われるし、もし仮に「赤字ならフランチャイズ料が発生しない」となるとこれはこれでオーナー側が腐敗しそうだが、ともかく実態は定額の看板料なので、このまやかしはもっと世間が知るべきであろう。