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2020.12.27
世の中の慌ただしさへの憤り
このところどうもストレスが溜まっている。なぜかと考えると、やはりGOTOで自粛ムードが一掃されてしまったので、いろんなことが断りづらくなった。雑用が増えたのである。そして自粛しなかったおかげで悪疫は猖獗を極め、それでまた不本意な自粛が始まりつつある。自粛という言葉自体が混乱の源かもしれないが、つまり自己判断で取りやめるのができないのである。さて、自粛ムードが復活してきてわたしの望み通りの世の中になったかというとそうではあるまいし、不要不急の判断について臨機応変が認められてないから、これまたストレスである。自粛できる人は自粛すればいいという自由がなく、旅行するにも外出禁止するにも総動員である。全員揃ってアクセルを踏んだり全員揃ってブレーキを踏むのに疲れている。たとえばコロナになってからメールの活用が進んだかというと、なんともいえない。他人とメールをしていてよく思うのは、会社の端末からしかメールできない人が多いのである。自分のスマホから会社のメールアドレスに触れる人は少数派である。であるから、相手が出勤して会社のパソコンの前に来たときしかメールのやり取りができなくて、実質的に郵送と変わらない、ということもある。有料でメアドを作るのが意外と厄介だし、なぜか他人と対面する手間を省く手段が広まっていない。広まるとまずいのかもしれない。おそらく自粛したくない人が多いのであろうし、飲食店に群がるのも自粛嫌いの勢力であろうが、いわば対面派というべき連中が百鬼夜行して生き血を啜っている。昨今の感染者の増大で、そいつらをようやく掃討できるのかもしれないが、やはり連絡手段が進歩してない問題もあり、まったく心は晴れない。この年の瀬になって雑用を持ち込んでくる蛮族もいる。労務費は拘束時間であり、決して労働の内容に基づかないから、拘束時間にハードワークして、それ以外は完全に休むのも致し方あるまい。本当にフレックスにしたら労務費の計算ができなくなる。休日に自宅で仕事を片付けたら給料は支払われるのかという難問である。教職員のサービス残業と同じわけにはいかない。あるいはその教員という聖職者にしても、これを機会に学校行事を大幅に削ったほうがわいせつ先生も減るだろうと思うのだが、学校行事がなくなって悲しいという悲鳴が記事になるわけである。人間関係のために学校があるのが実態だから仕方ないのであろう。ではその対面派の頂点たる大学でなぜオンラインなのか、それは知らないが、通学させれば飲み会でクラスタが発生するのが目に見えているというのもあるだろう。オンラインでやることによって、オンラインでやり取りするスキルが上達するなんてことはない。おそらく来年3月あたりでトンネルは抜けると思うので、あと数ヶ月で旧来の世界の回復はなされるであろうが、コロナによって進歩したことは何もない。対面しないで粛々と進めたい人もそれなりにいるとは思うのだが、多勢に無勢で何もなしえなかった。
2020.12.15
いつの間にかコロナの話になってしまう
ハイデガー的に言えば、われわれは世界に投げ入れられており、その俗世間に埋没しながらお喋りをしている。コロナウィルスなどその通俗性の最たるものだが、まさにわれわれの手足を縛っているので、これが無いかの如く振る舞うのはできないし、どうしてもコロナ問題について語ってしまうのである。そして、所詮はただの新型肺炎であるから、いくら語り尽くしたところで人間知性はひとつも前進しない。であるから、賢明な人物たろうとするなら水野由結ちゃんのように沈黙するしかないのである。他者との接点にコロナが入り込んでくるのだから、もはやその俗縁を断つしかない。目の前の状況について語るのをやめなければならない。とはいえ、なかなか須弥山の頂点にはたどり着けないので、われわれはコロナウィルスについて言及してしまう。ペストが流行していたときにニュートンは隔離生活の中で偉大な発見を行った。コロナ社会について云々するよりは、万有引力について考える方が生産的であるが、われわれは水野由結ちゃんやニュートンのようになれないので、つまらない政談に甘んじてしまう。あるいは、そこまで偉大にならずとも、この世界が巣鴨プリズンになったとみなして、黙って本でも読んでいたほうがよかろうと思うが、どうしても通俗的なコロナの話題に飲み込まれてしまう。そろそろ10ヶ月くらいになるのであるし、状況の進展からすれば、後3ヶ月くらいで好転すると思われるから、この端境期も全体の3分の2は過ぎており、トンネルを抜けたときの格差というのも大きいであろう。コロナのニュースに共感して一喜一憂するのは感動ポルノの類とも言えるし、目の前の事象に泣いたり怒ったりしても得るところは少ない。
2020.12.07
ライターという職業
宅八郎が死んだそうだが、ごく当たり前に総括しておきたい。インターネットが普及する前はライターがいろんなことを自力で調べ資料も集め、それをまとめて文章にしていたのだが、今日ではそんなことをする必要はない。集合知で十分である。あるいはインターネットの黎明期においては、一個人がホームページを作って大量の知識を開陳していることもあった。infoseekが閉鎖されたことでそういうホームページも塵芥になってしまったが、そういう知識自体はWikipediaなどの集合知に回収されている。不特定多数で断片的な知識を積み上げることで人間知性が向上したとは思えないが、その手の人海戦術で個人は根絶やしにされた。個人のライターが新しいことを掘り出しても、引用されることでその集合知に呑まれてしまうし、そもそも人跡未踏の地はないのである。そしてそうなると、一個人の知識というのはちっぽけになる。宅八郎が死んで美化されているところがあるが、これは死んだから時代遅れのものを懐かしみ、褒め言葉を惜しまないのであり、生きていたらやはり中途半端な知識の持ち主という扱い、もしくはそれが事実そのものである。素人では理解できない専門知識なら一線を画せるが、そうではない大衆文化だとこうなる。メインカルチャーだろうがサブカルチャーだろうが同じことである。テレビで取り上げない分野を雑誌がサブカルチャーとして担っていた側面もあるだろうが、今日ではその色分けも有効ではない。なんにせよ、個人で知識を極めたつもりでも、集団の寄せ集めと大差がないのだから、まさに宅八郎は没落すべき存在だったのである。宅八郎が昔日の美学を体現した知識人だったかというと、そこは疑問符がつくし、あるいはサブカル知識など本物であっても偽物なのだが、その設定とはまた別に、小峰隆夫とのトラブルで示した執念深さは、虐げられたものの復讐心としてまさに本物であり、それは誰もが筐底に秘めているのかもしれないが、生々しい血塗れの内臓を目撃してしまった寒々しさもあり、だんだんと人を遠ざけたのである。村崎百郎が殺害された事件にしても、なにかしら怨念の強さだけは通底するものがある。知識の多寡ではなく、その怨みの底なし沼こそが本質なのかもしれない。われわれがその宿業から救い出されたのかどうかは判然としない。