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2021.01.31
有村悠さんのママンは69歳
https://twitter.com/ArimInfo/status/1355435313254920199

有村悠さんが九州の山奥から東京大学に進学したのが23年前であるが、この41歳の田舎者のママンも加齢して69歳ということだ。世界的な感染症の蔓延により、無機質な能面が連なるような社会になっているわけだが、有村悠さんは、自らと他人がいずれも死骸であるような世界像を20年にわたり生き続けているので、この苦界に馴染んでいるように思われる。他者はソーシャルディスタンスで疎外され、間近にいる身内だけが生々しいという憂いも、かなり馴れてらっしゃるわけだ。自らが本当に生きているのか、それともすでに過去帳に載っている亡霊なのか、そのような実存的不安のベテランである。コロナについては、ワクチンが予想以上に効きそうなので、さすがに次の冬には克服できていると思われるが、有村悠さんの親子は、あと十年か二十年か、もしくはそれ以上この茫漠たる世界に留まり続け、ソーシャルディスタンスの世界を生きるわけである。現在の世界は、他者との遠近感が難しく、有村悠さんの20年と似通っているが、ではわれわれが有村悠さんから学ぶべきことがあるのかというと、なんとも言えない。有村悠さんは東大文学部西洋史学科を退学処分になっているわけだが、我慢して勉強していれば現在はマシだっただろうと言えるし、やはり耐えるしかない時間帯もあるのである。猛勉強していたら東大文学部西洋史学科を卒業できていたのかというと判然としないし、九州の山奥の母子家庭という出自を考えるに、どっちみち結果は変わらないかもしれないが、どうせ退学なら勉強しないほうが心地よいという考え方が不味そうである。われわれは昨今の社会情勢で心が晴れ晴れとしていても変であるし、社会が免疫を獲得するまで、この痛みは癒えないのであるから、現在の満足度を刹那的に上げるために腐心するのは、賽の河原で石を積むに等しい。病んでいるときは病んでおいた方が回復は早いであろうし、かといって有村悠さんのように無理して病んで傷を膿ませるのもよくないし、この寒々しい払暁において他者という存在について想いを這わせるのである。

有村悠さんが九州の山奥から東京大学に進学したのが23年前であるが、この41歳の田舎者のママンも加齢して69歳ということだ。世界的な感染症の蔓延により、無機質な能面が連なるような社会になっているわけだが、有村悠さんは、自らと他人がいずれも死骸であるような世界像を20年にわたり生き続けているので、この苦界に馴染んでいるように思われる。他者はソーシャルディスタンスで疎外され、間近にいる身内だけが生々しいという憂いも、かなり馴れてらっしゃるわけだ。自らが本当に生きているのか、それともすでに過去帳に載っている亡霊なのか、そのような実存的不安のベテランである。コロナについては、ワクチンが予想以上に効きそうなので、さすがに次の冬には克服できていると思われるが、有村悠さんの親子は、あと十年か二十年か、もしくはそれ以上この茫漠たる世界に留まり続け、ソーシャルディスタンスの世界を生きるわけである。現在の世界は、他者との遠近感が難しく、有村悠さんの20年と似通っているが、ではわれわれが有村悠さんから学ぶべきことがあるのかというと、なんとも言えない。有村悠さんは東大文学部西洋史学科を退学処分になっているわけだが、我慢して勉強していれば現在はマシだっただろうと言えるし、やはり耐えるしかない時間帯もあるのである。猛勉強していたら東大文学部西洋史学科を卒業できていたのかというと判然としないし、九州の山奥の母子家庭という出自を考えるに、どっちみち結果は変わらないかもしれないが、どうせ退学なら勉強しないほうが心地よいという考え方が不味そうである。われわれは昨今の社会情勢で心が晴れ晴れとしていても変であるし、社会が免疫を獲得するまで、この痛みは癒えないのであるから、現在の満足度を刹那的に上げるために腐心するのは、賽の河原で石を積むに等しい。病んでいるときは病んでおいた方が回復は早いであろうし、かといって有村悠さんのように無理して病んで傷を膿ませるのもよくないし、この寒々しい払暁において他者という存在について想いを這わせるのである。
2021.01.30
気の強さ。言葉がスラスラ。
気の強い人間というと、言葉がスラスラ出てくるイメージである。吃音とか訥弁のヤクザがいるとして、それは気が強いというよりは、なんか他人に恨みがある心の闇というか、強面という表現が似つかわしい。あるいは、気が強いと言ってもいろいろ種類があると言ってもよいが、おそらく言葉がスラスラと出るのは、社会性の優れた特徴でありつつも、行儀がよすぎて不愉快な感じでもある。とりあえず事例としては蓮舫を挙げておくが、まったく言い淀まない感じが、人を不愉快にさせる。相手に喋らせないために、一方的にスラスラと話すわけである。つまり、相手が面食らうことを想定しているわけである。これは社会性ではあるし、だから障害とは真逆なのだが、健常者の特性を利用してコミュニケーションを断絶しているわけで、健常者の度が過ぎるというか、あまり愉快ではない。少なくとも障害者というレッテルを貼ることはできないので困ったものである。おそらく言い淀むというのはひとつの配慮であり、吃音はただの言語能力の欠如ではなく、精神的抑圧でもあろうが、あるいは、言い返すことがタブーであるか否かにもよる。蓮舫のような人間は、言葉がスラスラでる先天的能力が高いのもあろうが、言い返しても怒られない家庭環境なのであろうとも思う。一方的に喋るというのは、アスペルガー症候群にも見受けられるが、蓮舫みたいなのはそういう自閉性ではないし、やはり度を過ぎた健常者と言うしかないのである。自分の言葉で場を埋め尽くすというアスペ的なことを健常者がやると、まかり通ってしまう。だが、やはり不愉快に思われているのであり、それが現在の蓮舫の立ち位置である。
2021.01.29
強い側がいきなり殴るのが喧嘩
ここ十年くらいで喧嘩が消滅してしまったのはいろいろな理由があるし、スマホで警察に通報できるようになったのが最大の理由であるが、その根底にあるのは、喧嘩とは実は勝負ではなく、横綱がいきなり平幕を殴るようなものなのである。「今から喧嘩をしよう」と言ってから喧嘩することはほとんどない。やはり、喧嘩と言いながらもただの一方的な暴力であり、なおかつ強い側(強そうに見える側)が先制攻撃するのだから、力比べでもなんでもない。ではなぜ昔は喧嘩が認められてきたのかというと、まず、強そうに見える人間は強いからであり、弱そうに見えるからには弱いのである。格闘技ではその見た目を覆す選手が持て囃されたりするが、一種の希望なのであろう。ともかくお互いに睨み合って「やるか」と腕まくりしてから喧嘩することはあまりなくて、たいていは強い人間(強そうに見える人間)がいきなり殴りつける特権だから、これが否定されるのは当然であろう。かなり昔の世の中だとお互いに殴り合うような喧嘩もあっただろうが、おそらく二十世紀後半以降、社会が成熟してきてからは、殴り合いなど野蛮なことをすると親が出てきて大騒ぎになるから、一方的な暴力が喧嘩の実態となった。それはおかしいと思われていたのだが、何となくどこかで、警察に通報するのが自然だとなり、たぶん西暦2000年過ぎたあたりが分岐点ではなかろうか。1990年くらいだといきなり殴られたら泣き寝入りが当然だったので、世の中ずいぶん変わったものである。では一方的な暴力に親が出てこないのはなぜかというと、つまるところいじめであるから、やられた側も恥ずかしいのであろう。一方的な暴力やいじめを喧嘩と名付けるのはおかしいのだが、横綱がいきなり平幕を張り倒したら、それは実力通りで不正ではないのであろうし、なんかよくわからないが、互いにつかみ合いをしている姿に比べると野蛮ではないというか、二十世紀後半の半端に成熟した社会において、ずいぶん奇妙な括弧付きの喧嘩があったのである。
2021.01.27
結婚とは空想家からの卒業
結婚が人生の墓場とされるのは、どのような相手であれ、伴侶を確定させるのは一種の投了であるし、空想という余白を持たない生活になるからだろう。逆に言えばいつまでも独身でいる人間は空想家として自分探しを続けるのである。かつて、自分ができなかったことを子どもにやらせようという風潮があり、自分がピアノを弾けないから子どもにピアノをやらせるとか、それが昭和の風景だが、音楽的な文化資本に乏しい出発となるのは明らかである。このところ、文化資本の格差をわきまえている人が多いから、自分ができないことは子どももできないと予測しているし、その分別自体はいいことだが、子どもで人生を逆転できないとなると、ますます結婚生活は余白のない代わり映えのしない墓場となる。では、結婚してない人は可能性に満ち溢れていて素晴らしい生活を送っているかというとそうでもないし、それこそ五十歳を過ぎた男性が自分探しを続けているのを見ると、これは婚活おばさんのユーモラスさとは違い、ただのホラーであり、戦前の青年将校を思わせる。まだまだ革命を諦めていないという不穏な目付きを見ると、やはり既婚男性はどれだけ低俗な人間であろうとも、夢想がないから安心できる。結婚しないと空想家から卒業できないのかというと、おそらくそうなのである。空白を埋めていないのだから空想に限りはない。あるいは能力的に何か打ち込めるものがあるならいいが、何もないとなると、空想しかやることがない。何も秀でてなくても平々凡々とした人もいるが、こういう人はなんとなく結婚しているし、やはり平凡さという特技がないと独身になりやすい。つまり、中年になると、たいていは人生の余白がなくなるのだが、この余白だけは無限という輩がいるわけで、われわれとしては彼らに殺害されないように気をつけるしかない。
2021.01.23
蜘蛛の糸にぶらさがる
蜘蛛の糸はカラマーゾフの兄弟に似ているとか、あるいは諸説あるけれど、ともかく似たようなことは誰でも思いつくし、その前提がないと青葉真司容疑者のようになってしまう。なんにせよ「ぶら下がる」というのが怠惰のイメージの肝なのであろう。たとえば山頂の宝物に大勢が殺到するという話だと、怠惰なニュアンスが伝わりづらい。糸に(もしくは縄や紐に)ぶら下がるのは山登りより体力を要すると思うし、極楽まで這い上がるとなると相当な腕力を要するだろうが、あくまでイメージの問題である。たぶんぶら下がるのがお手軽だというのは、売春婦が米兵の腕にぶら下がるようなイメージであろう。蜘蛛の糸の連中はどう考えても(他力本願ではなく)自重を支えながら自力でよじ登っており、傑出した腕力のある英雄だけが蜘蛛の糸を極楽まで攀じ登れるという話に書き換えても面白そうだが、やはり出来損ないが便乗して寄生しているイメージとなれば「ぶら下がる」である。世の中には試験制度というものがあり、たとえば公認会計士の試験に合格すれば公認会計士になれるが、ではみなさん受験するかと言ったら受験しない。なぜ公認会計士の試験を受けないのかと言えば、受けても受からないからであろう。法科大学院は一時期蜘蛛の糸のようになりかけたが、結局は潰えている。誰でも極楽に行けるみたいな、そういう糸が垂らされるとパニックになるので、圧死しないように厳選しなければならない。世の中には、能力主義が働かずに、有象無象が殺到してしまうことがあるが、そういう蜘蛛の糸を避けるために、われわれは社会制度を構築している。では、一部の人間が利権にぶら下がっている状態はどうなのかというと、ぶら下がれない人間たちが義憤で切断することにもなろう。あるいは、そういう利権も、実は内部ではかなり殺伐としており、魑魅魍魎が死臭を発し、それこそ死者が出るような案件でもある。
2021.01.17
飲食店。一人一票。顔が見える世界。
なぜ大規模な店でも小さな店でも給付金が同じなのかというと、やはり一人一票だからである。大きな店がたくさん票を持っているのなら、それに応じた金額となるが、実際はそうではない。あくまで有権者の頭数なのである。自民党政権がカネを配るとはそういうことである。この根底にはわれわれの普段からの錯覚があり、駅前の洒落た飲食店は豪邸みたいな感じで、場末のスナックは貧乏くさいと思っている。実際は家賃がまったく違うので貧富の格差ではないし、駅前に洒落た大きな飲食店を出しているから大富豪というわけではないが、家賃が高いところで飲食店をやっていると金持ちだと錯覚されている。また、家賃は微々たる値上げしかできないので、ボロボロの飲食店は相場より家賃が安いことが多い。それは知りつつも、政府は場末のスナックの狂言めいた悲鳴に応じて給付金を支払い、有権者の票を買っているのである。大きなチェーン店は匿名的で不特定多数の有象無象が集まるだけだが、スナックは顔が見えるし常連客の結びつきも強いから、有権者としてくっきりしている。この自民党政権の思惑が奏功するかは謎である。全員に配るとバラマキが薄まってしまうからピンポイントで票を買うわけだが、平時であれば不自然な税金の使われ方が看過されるとしても、今回は見逃すわけにはいかないし、大規模な飲食店に関わっている顔が見えないひとたちはさぞかし怨みが深いであろうし、そもそも飲食とは関わりがない他業種ならなおさらである。顔が見えるところだけに対応した結果がどうなるかである。小規模店が自粛して大規模店が営業を強行するのでは意味があるまいし、顔が見える支持者への関心の強さが政治を蝕んでいる。まったく補償されないひとたちから見れば、コロナでマスクに覆われて、さらに顔が見えない存在として軽んじられ、自尊心がズタズタであろう。どうすれば解決するというわけでもなく、厄介な感染症を前にお手上げなのであるが、飛沫感染というからには唾液がメインであるし、なぜそこまでして他人と同席して食べ物を咀嚼して唾液を交換したいのか疑問である。この軟禁状態から脱走して顔が見える世界に行きたいとなると飲食店なのかもしれないが、入院中に抜け出して温泉に行った人間と変わりあるまい。
2021.01.15
トップは孤独
それにしても思うのはトップは孤独ということであり、世の中いろいろと利権や思惑が絡んでいるものだから、相談相手などいないのである。助言に徹してくれる脇役がいればいいが、やはり寝首をかくことしか考えてないのが大半である。だから容喙を防ぐべく孤独であり、取り巻きのイエスマンがいるのみである。これは組織が持つ根本的な欠陥であろうが、純粋な助言をもらえないのは誰しもそうであるし、だからこそ人生なのである。神様が上から見ていてアドバイスしてくれたら人間の主体性はない。楽園の圏外で手探りで生きていくからこそ、人間は人間たり得ている。トランプが大統領選挙の結果を本気で覆そうとしていたというのは、多くの人の予想外だったと思う。今回の大統領選挙では郵便投票でかなり得票数が膨れ上がっており不自然さはあるのだが、その漠たる違和感で人々を踊らせているのかと思ったら、トランプ自ら盲いて墓穴を掘った。このようなことも、やはり孤独だからであり、思惑付きの助言しかもらえないからだ。神の視点からの助言がないからこそ、憑かれたように突き進んだのである。だからどうした、というわけではあるまい。すでに述べたように、純粋な助言がもらえないからこそ人間の主体性がある。であるから、自滅したとしても、それは人間の宿業である。また、トランプは世界史で偉業を成し遂げてきたわけであるし、いわば世界史的人物の典型的な末路である。純粋無垢な賢者たちが円卓を囲み叡智を惜しみなく差し出して公正に判断する社会などないのだから、楽園から遠く離れてわれわれはひとりで歩くしかなく、他人から何を言われても腹黒さしか感じなくなるし、世界史的偉人のお歴々もまた然りである。なんにせよ、トランプはただの酔生夢死の徒ではないから、このような混乱において、あちこちから政治献金を打ち切る云々、スポンサーを降りる云々、世の中の利権が浮き彫りになって、はからずも世界の実像を浮かび上がらせることになった。これからはもっともらしいエリート白人に金が集まり幅を利かせることになるだろうが、彼らが本当に信用されることはあるまい。そもそも彼らが本気で怒っているというのは間違いで、なんというか、嫌っていた人間がスキャンダルで失墜したら嬉しいみたいな狂喜乱舞である。決してこれで閉幕とはならないし、むしろ、検閲が始まるからこそ、これまでガス抜きされていた諸問題が鬱屈し根を張る。われわれは発言について襟を正すというよりは、暗澹たる内面を育て、地下活動の試みを思案するのみである。
2021.01.14
物の形の認識
われわれは至極当然のごとくアイコンを見分けている。犬とか猫とか、そういう絵文字を瞬間的に理解してるわけだ。アイスキャンデーとかハンバーガーとか、いちごとかバナナとか、そういうのも把握できる。こういう記号的理解はあまりにも当たり前過ぎて、なぜ認識できているのか説明できない。細部まで検討した上で認識しているというよりは、なにかしらわかりやすい輪郭を瞬間的に捉えており、アイコンを作る人もそういう「わかりやすさ」を意識しているのだろう。絵が下手すぎて犬なのか猫なのかわからないという笑い話もあろうが、基本的に人間であれば、どんなに絵が下手でも、それっぽい輪郭は描けるのである。絵心の有無は歴然たる差があるが、この文脈でそれに触れる必要はあるまいし、なんというか、達筆でも悪筆でも、よほどのことがない限り、誰が書いても文字が伝わるのと同じで、これも達筆すぎて読めないとか悪筆過ぎて読めない、という問題には触れなくてもいいであろう。楷書でごく普通に書いたものは誰でもわかるわけだ。この記号認識はあまりにも自明であり過ぎて、脳のOSが人類共通だから伝わるのだと思うが、何が言いたいかというと、細部まで一致していることを確認しなくても、犬とか猫というのが伝わるわけである。もちろん一匹一匹の猫を個別に見分ける必要があれば細部の特徴までチェックすることになるが、そういう個別性を除外した普通名詞の犬や猫についてはアイコンを見ただけで瞬間的にわかるわけである。言葉があるから切り分けられるという言い方もできるが、しかし、言葉がなくても視覚的特徴で切り分けられる。草食動物がライオンに襲われたとして、ライオンという言葉は知らないだろうが、(断言はできないがおそらく)視覚的な輪郭やイメージとしてライオンという存在は把握しているのだと思う。正体不明の動物が襲ってくるというのではなく、ライオンという肉食動物がいるという認識はあるはずだ。つまり、ライオンという名前を付けてはじめて括ることができるというのは誤謬である。そもそも視覚についても、所詮は光という物理世界の解釈であり、物理世界を感覚現象に変換するとして、必ずしも光と視覚を紐つける必要性はないから、たまたま地球上の生命体の感覚器官がそうなったのであろうが、われわれは感覚現象を生きているからその本能が全てであり、言葉で括らなくてもライオンはライオンなのである。
2021.01.11
差別と税金
自らの肌が黒いという理由でバイデンに投票した人間は、自らが白人だという理由でトランプに投票した人間となんら径庭がない。あるいは、リベラルの圧力に媚びてバイデンに投票した白人も、やはり逆差別に組みしただけであるし大差がない。もはや人種問題は税金の分配だと言って差し支えないし、どうやって綺麗事で金を引っ張れるかどうかである。マジョリティーの税金がマイノリティーに流れる、というのは、所得税もそうだし、法人の広告宣伝費もそうである。広告宣伝費は経費として落とせるから(つまり税金の節約なので)よくわからないスポンサー料が流れる。白人の著名人がバイデンを支持するとしても、やはりそれは金目当てであるし、スポンサー料がでかいわけである。なにかしらリベラルな理由がないとスポンサーにならないという構図が作られている。もはや広告宣伝費の損金算入に制限を加えないとまずい。損金に算入されないのであれば、企業も金を出すことには尻込みするし、リベラルに反旗を翻す動機にもなる。商品を宣伝するためにお金を出しているのか、リベラルだとアピールするために出しているのかどちらなのか、ということである。本音では広告など出したくないのである。ポリコレのために広告を出すのは(そしてそれが経費として認められるのは)やはりおかしいと言うしかない。トランプは議会突入によって四年後の可能性を消してしまったが、リベラルのゆすりたかりが横行するのは間違いなく、火種は消えていない。リベラルというのは有徴性への逆差別であるから、つまり、なにかしらわかりやすい欠陥がないと旨味がないし、ただ単に劣っただけの人間にとっては不利益甚だしい思想である。この四年くらい、学歴の低い白人を軽侮する発言がリベラル派から垂れ流されたが、それはまったくポリコレに抵触しない、というより、平均以下の白人は蔑まれてしかるべきということなのである。なんにせよ、これは思想ではなく、徹頭徹尾、すべて金なのである。わかりやすいマイノリティーは税金がもらえるし、あるいは上流階級の白人は綺麗事に乗っかると企業の広告宣伝費にありつける。ブサイクで低学歴な白人は肩身が狭いであろうし、白人で低学歴だとそんなに悪いのか、ということである。やはり白人が黒人より優れているという大前提があり、その穴埋めをするか否かというのが争点であり、慈悲深いエリート白人こそ差別主義者ということも言えるが、なんにせよ、GAFAがどれだけ世論操作しようとも、差別はカネになるということであり、取られる側からの怨嗟は消えない。
2021.01.06
鬱になる義務
コロナのための自粛をすべくわれわれは鬱になることが求められている。つまり、楽しく自粛ということはありえないのである。楽しい気分だと出歩いて酒場で一杯やってしまうから、気分そのものを鬱にしなければならない。マスクをせずに他人と会話すると感染リスクが跳ね上がるのだから、自宅で鬱になる必要はないはずだが、出歩けないほど気分が沈鬱してないと、酒場に行ってしまう可能性がある。出歩かないだけで自粛の趣旨は完全に果たしているはずなのだが、やはり自宅でも沈鬱しておかないと模範囚とは言えない。1月2月は寒いので外出は躊躇われるが、たまたま季節外れの陽気が訪れたらうっかり外出するかもしれないので、やはり気分自体を鬱屈させる必要がある。であるから晴れ晴れとした気分で自粛することはできない。鬱で動けない状態になることが求められている。それこそ自宅ではしゃいでいたら脱走の前兆と見なされる可能性がある。鬱という鎖でしばりつけておかなければならない。果たして、そこまで大真面目にやる必要があるかというと疑問だが、それしかないのである。最近は飲食店という言葉の使用頻度が高すぎるが、外食産業と正しく呼ぶべきである。他人と飲み食いしながら(咀嚼して唾液を大量に生成したうえで)歓談する場を提供する産業である。この唾液まみれの世界にさえ足を踏み入れなければ、外出しようと構わないはずだが、やはり外出するからには、つい酒場にふらりと入って飲み食いしながら唾液まみれで会話してしまうであろうし、心まで纏足されるしかない。