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2021.03.29
現役世代のニヒリズム
小中高生の自殺が四割増しになって過去最多を記録したわけである。ちなみに小中高生の自殺は二十年くらい前から増加傾向にあり、少子化なので数が少ないように見えるだけである。コロナがなくても、昭和の頃より自殺率は増えている。なぜか世間の反応として、絶対に自殺するなというのは少なくて、「死にたくなるのはわかる」という共感が目立っている。コロナにおいて病死が増えたわけではなく、自殺者が増えただけという皮肉な問題がある。ひとびとは高齢者の大往生を願いつつ、若者は安楽死したほうがいいという変な話なのである。ここに悪意があるとは思わないし、いっそ死ねば楽になれるという現役世代のニヒリズムの反映でもある。急激に社会が暗転したというよりは、危うい綱渡りからとうとう転げ落ちたという印象を受ける。ひとびとが高齢者の大往生を望むのも、訴訟社会に毒されているからであり、たとえば老人が転倒して骨折したら、まずは誰かの管理責任を問うことを考える。やはり老人はちょっとしたことで命を落とすので、なにかのはずみというのが恐ろしい。高齢者が死ぬという自然の摂理に対して、遺族は責任を誰かになすりつける。死にかけの老人という当たり屋が屹立する世界で、特にこのコロナ禍においては、健康な若者は息を潜めて生きなければならないし、それこそ生きているのが罪深いような趣もあり、生命として疎んじられ、いっそ死んだほうがいいという社会的ニヒリズムがある。現役世代や中間層のニヒリズムはコロナ以前から強まっており、ここに来て本当に膿みだしている。普通に生きていると軽んじられ無価値な存在として扱われるのに、死んだ瞬間から弁護士が出てきてその生命の尊さを説くのである。われわれは生きていると債務者であり、死んだら債権者になる。普通に生きている中間層の価値を弁護士は説いてくれないので、極めて危険な説法である。若者の自殺に共鳴するのは本当の味方ではなく、ニヒリズムの押しつけである。生きていても仕方ないというニヒリズムは、生者である現役世代が生々しい生き証人として実感し説いているわけだが、そのような愚痴愚痴とした感情で未成年や若者の自殺を後押ししてはならない。大昔に比べればずいぶん便利な世の中になっているはずだが、いわば先進国の病というか、社会のインフラが整って快適になっているだけに、人間そのものの細かい粗が目につくというのがある。生きているだけでは失格らしいのだが、なぜか死にかけの痴呆老人は逆の扱いなので、ここはよく考えなければならない。生きていて高い値段が付く人はあまりいないが、死んだら値段が付くかもしれない。こういう当たり屋稼業の発想は克服したほうがいいが、克服することで素晴らしい人生になるわけもないので、なにか鬱々としているのである。
2021.03.18
同性婚のくだらなさ
コロナになってから、大半の人の自尊心は低下している。そして、これは低いまま放置しておくしかない。決して自尊心を向上させようとしてはならない。それはドーピングだからである。コロナによる停滞は余暇ではなく軟禁であるからひとつも愉しくないが、それはそれで致し方ない。終身刑ではないから、社会が元に戻ったときの準備に励む方がよろしいし、短絡的に自尊心を回復しようというのは、まるで永遠にコロナが続くと錯覚しているかのようで、まったく賢くない。ずっと刑務所にいるのであれば、刑務所で出世することに腐心してもいいが、まったくそうではないので、出所後のことだけ考えればいい。さて、同性婚というのも、何かしら自尊心回復の手段になっている気配がある。あまりにもくだらない。そもそも結婚する意味がないのだから認めなくてよい。それに結婚自体が幸福だとは限らない、というより、幸福である人のほうが少ない。結婚したときはご祝儀相場というか、おめでとうおめでとうと言われるので承認願望が満たされるのかもしれないし、同性婚に対する期待もそこにあるように思われる。ゴミみたいな家庭の奴らだって、結婚したときだけは祝ってもらった。それだけである。考えれば考えるほど、なぜ結婚がおめでたいのか謎である。結婚を夢見ることもあるだろうから、その夢が叶ったことへの拍手とも言えるが、現実に結婚するとなれば理想の相手というよりはむしろ逆であろうから、やはり儀礼という側面が強い。シャンシャン総会のノリにも近いので、同性愛者がわざわざ結婚してどうするのかという疑問もある。なにか婚姻による制度的な恩恵を受けたいのかもしれないが、同性カップルを想定したわけでもあるまい。他人から承認されたいという人権活動家の要求は軽々しく認められるべきではないが、昨今の世情においては要求が強まっている。人間的活動が停滞し、元からいる暇人に加えて、新たに暇人に落魄した衆生も合わさり、不平不満が溢れかえっている。普段の活動が制限されているからこそ、世界の各所で人権活動が活発になっている。自尊心の低下は受け入れるしかないし、コロナが終わるまでは腹をくくるしかないが、心が弱ってくると創価学会が近づいてくるようなものなのだろう。試合をやってないのに野次が飛び交い、経済が動かないから補助金だけ動くというか、人権活動で優勝チームが決まったり混沌を極めている具合である。
2021.03.17
これさえなければという思い込みと人権団体
人権団体に謝罪して済まされることはない。なぜなら彼らは「これさえなければ(これさえあれば)」という思い込みに固執しているからである。たとえば手足がない人がいるとして、「手足さえあれば」と思うのは無理もないが、しかし、世の中の五体満足な人がそれほど満ち足りているかどうかは謎である。手足がない人に手足が生えたところで解決しない問題はいくらでもある。つまり、人生の苦悩の原因をたったひとつに求めるという誤謬である。人権活動するひとは「これさえなければ(これさえあれば)」という論法で動いているから、その執着は並大抵ではないし、世の中のいろんな悩みへの想像力に欠けている。いや、想像力を持てば解決するわけでもないし、自分の眼前に立ちはだかる関門が苦悩の原因のすべてだと思いこむのは仕方あるまいが、おそらくその関門が無くても、別の関門が立ち現れたはずなのである。たとえば最近わたしが目にした中で莫迦莫迦しいと思ったのは、精子バンクで精子を提供されて生まれた人間が自分の本当の父親が誰なのか知りたいと髪を振り乱して切実に語っている記事であった。自分の遺伝的な父親さえ特定できればアイデンティティの不安がすべて解決するらしいのである。それが人生最大の悩みとかどれだけ恵まれた人間なのか言語に絶するしかない。普通に生きていれば、もっと深刻な悩みに首位を譲ることになるだろう。なにか実存不安があるとして、自分の父親がわからないのが本当に自我同一性危機の核心なのかということである。あるいは、もっと悩みが深い事例でいうと、トランスジェンダーはそれ自体深刻な苦悩であろうが、自分の性別のトイレに入ることが究極の目的になってしまっている人もおり、場合によっては実はトランスジェンダーではなかったという真相さえあるのだ。肉体を改造手術してから実はトランスジェンダーではなかったと気づくとか、あまりにも無残である。手足がない人に手足が生えてきたとして、本当に足りてないのは手足ではなかったと気づくこともあるだろう。人生至るところに関門があるので、悟らなければならない。
2021.03.15
仕入れと売上と複式簿記
なぜ複式簿記でつけるのか、について明快な説明がされていることが少ない。会計の本は優秀な人が書くわけだから、彼らとしては自明すぎるのかもしれない。あえて言語化すると、根本的な理由としては仕入れと売上である。自分で消費するために買うのではなく、商売のために買うわけだ。仕入れと売上については何かしら帳簿をつけるであろうし、それを組み合わせると複式簿記みたいになる。家計簿が複式簿記でないのは、自分で消費するために買っているからである。つまり、「商売のための仕入れ」と「自分で消費するための購入」は別である。あるいは、もし仮に家計において買ったものを売却する機会が非常に多ければ、売上の帳簿をつけるであろう。家計においては、買ったものを売るのが稀なので、売上の帳簿を付ける必要がないのだ。また商売の売り買いには、現金だけでなく、買掛金と売掛金(もしくは支払手形と受取手形、あるいは未払金と未収入金)があるし、それらの債権債務(資産と負債)の帳簿も必要である。つまり、商売をやるからには、仕入れと売上の帳簿はどっちみち付けるのが自然である。そして売り上げたら、それが現金なのか売掛金なのか区別は必須であり、そうやって突き合わせると、複式簿記みたいになるのである。たとえば主婦がオークションでの転売を本気でやり出したら、買ったときと売ったときの記録を付けるであろう。つまり今までは買った時に家計簿に付けるだけだったのが、売ったときの金額も記帳するようになるわけである。そして、その差額の収益にもこだわるであろう。オークションだと売掛金・買掛金はないだろうが、もしそういう債権債務まで記帳すれば複式簿記の構成要素が揃う。
2021.03.09
飲み会と人間関係
おそらく高校生くらいまでは、ごく自然に他人と遊ぶのである。人間関係を維持するために重い腰を上げてわざわざ遊ぶわけではない。たぶん18歳くらいで人間は自我が芽生えてきて、純粋には他人と遊ばなくなる。「はしゃぐ」というのは子どもらしさの特徴だが、おそらく大人になると落ち着いてくるので、18歳になってもはしゃぐのは発達障害者だけである。子どもであれば、はしゃいで距離が縮まることもあるが、大人だと浮くだけである。とはいえ健常者でも距離を縮める手段としてはしゃいでみるのが必要ということもあり、だから飲み会で馬鹿騒ぎをする。なぜ18歳で切り替わるのかはなんとも言えないが、人間の発達が自然にそうなっているのであろうし、また社会の扱い方もそれに沿っている。たとえば中学生になると(つまり第二次性徴期を迎えると)距離が縮まり密室で攻撃性をぶつけ合うようになるが、これは生物学的本能であると同時に、固定メンバーを教室に閉じ込める社会的仕組みもあろう。この社会システムの良し悪しは判然としないし事態を悪化させている可能性もあるが、本能の問題として、年齢によって距離感が変わるのは確かである。(バランスを整えるという発想からすると中学生はもっとお互いの距離を取る社会システムにして、大学生は距離感を縮める社会システムにしたほうがいいかもしれないが、ともかく発達段階によって人間の距離感は違うのである)。18歳で自我が目覚めて他人との密接さを喪失すると、その密度の薄さを埋め合わせるために、コミュニケーションを豊かにして人間関係を満喫することが求められる。リア充という言葉があるのも、全員が楽しんでいるわけではないからであろう。18歳を過ぎたら社会人だろうが大学生だろうが飲み会から逃れられない。飲み会として座席を固定して人間を拘束し、いわば軟禁状態でようやく世間話をするのだが、それが楽しい人もいればそうでない人もいる。
2021.03.04
マイノリティと連帯
今日の社会においてマイノリティという存在には、連帯する仲間がいる。つまり自分ひとりが世界から隔絶されているという感じではなく、紐帯を結び合う小集団である。そして、連帯するとなると、それは人権団体なのである。一人で悩むと人権にはならないが、集団で悩むと人権になる。当然ながら、ポリティカル・コレクトネスとしての社会勢力である。たとえば人権が発達していない昔の世の中で障害者が見世物小屋に集められても、これは連帯ではないであろうし、人権団体になろうとしてもなれない。進歩的な人権意識が根付いてこその人権団体である。良くも悪くも進歩的な良心の疚しさに食いつくのである。進歩的な人権意識がなければ良心が疚しくなることもないので、人権団体も存在し得ない。人権団体として連帯するのは、要するに補助金(税金)が目当てであるが、資本主義が進歩的な社会主義思想を取り入れた結果として、その進歩的な再分配にありつこうということである。そして、それでかなりの戦果を得るからには、この勝てる喧嘩に没頭するのも致し方あるまい。補助金(税金)をもらうのがゴールであり、それで満ち足りないなら補助金(税金)の増額を目指す。マイノリティはもはや孤独ではない。マイノリティの疎外感を芸術として昇華する文化性も失われてしまうから、文化的貧困とも言えるが、優れた芸術を生み出せる人はかなり限られてしまうので多数派が勝つのであろう。昨今のマイノリティはあれこれサポートがあるので、世界で悩んでいるのは自分ひとりだという感覚がなくなるし、それ自体は健全であるのだろうが、角を丸めて平均人に近づく行為なので、なぜか人間の実存の本質から遠ざかっている。ではマイノリティは平均性への埋没を避けるべく疎外され続けるべきか、という話ではないし、そもそも、このようなことをわざわざ付記せねばならないバイデン的な検閲時代に突入していることに戦慄するが、ともかくマイノリティゆえの芸術は無くなったと言ってよい。孤独がこの世から消えたわけではあるまいし、このコロナ禍において中高生の自殺は四割増しだという。見放されることは痛ましいが、救われない状況だからこそ、普段は平均性に埋没している人間も、実存の輪郭を悟ることもある。