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われわれは普段からいろんな人間をなんとなく見捨てているが、自らの手でトドメを刺すのは嫌なのである。コロナ禍において、飲食店への過剰なバラマキが批判されているが、これは決して政治家の暴走ではなく、われわれ大衆に良心の疚しさがあり、政治家は特に飲食が好きだから便乗しているだけである。なぜ疚しいのか知らないし、普段から飲食店の閉店は見慣れているはずだが、その侘しさに胸が痛むのも確かである。飲食店は寝たきり老人と同じなのである。どっちみち老人は死ぬし、飲食店は潰れる。だが、どうせ死ぬからさっさと死ねとか、どうせ潰れるからさっさと潰れろというのも差し障りがあり、延命策を考えてしまうのだが、そのような人間的な弱さをコロナウィルスは突いてくる。われわれはそろそろ安楽死の問題を考えなければならないし、どっちみち助からない人間を見捨てなければならない。85歳以上でコロナに感染したら一切の治療はしないくらいの措置は取らなければならない。ましてや普段から潰れ続けている飲食店を無理して助ける愚行は唾棄せねばならない。死の間際の人間を助けてしまうのは人間の弱さであり人間らしさであるが、もはやそれをやっている場合ではない。繰り返すが、政治家は便乗しているだけである。飲食へのバラマキは政治家のエゴではなく、われわれ大衆が持つ一抹の良心の疚しさの反映である。今までのバラマキについては、溺れる人をひとまず助ける心理としてやむを得なかったのかもしれないし、われわれ偽善者の自己満足のための募金として肯定してもよいが、いつもいつも募金したり、溺れているひとを助けるために飛び込み続けるとなると、さすがにわれわれの薄っぺらい慈悲の限界である。飲食店を苦境の象徴として扱うのは他の業種に冷酷という現実問題もある。われわれが誰かを助けれなければその人が死んでしまうという状況に直面したら、やはり助けてしまうし、それこそ助けないでいられるとしたら、かなり肚が据わっている。人命救助で表彰状が出たりするが、救助しないで平気であるほうが難しい。人助けは弱さである。普段は不親切極まりないひとでも、やはりトドメは刺したくないのである。われわれと飲食店の差し迫った関係は、これ以上続くのであれば、それこそボダがタゲっているのと何ら径庭がない。ボダがリストカットするのも、人命救助の心理を踏まえているのだし、われわれが表彰状をもらってしまう弱さに負けることを見抜いているのであるが、このような偽善的名誉のために社会状況の悪化が酸鼻を極めているので、そろそろ人命救助をしない不名誉に甘んじる決断主義が必要であり、人格障害的な関係性を根絶やしにしなければならない。
オリンピックのせいで空前絶後の大災害となりそうだが、これでトヨタ自動車が批判されてないのが不思議である。おそらく、日本人は相手の立場に配慮する風潮があり、「向こうだって仕事なんだ」と考えて諦める文化である。トヨタ自動車が本当にCMを出したいとは思えないし、要するにメディアへの口止め料として払っているわけだ。だからわれわれは「トヨタ自動車だって本当はオリンピック中止を願っているだろう。やむなく仕事でやってるのだ」とか思うわけである。つまり、ひとびとはお互いに仕事で他人を傷つけているので、その刀傷についてはノーカウントにしようという妙な協定、もしくは同情があるらしい。「トヨタだって本当はオリンピックなどやりたくない」と察しているのなら、トヨタに抗議して五輪中止に追い詰めてあげるのが親切という気もするのだが、ここはよくわからない。お互いに「俺も仕事なんだ」「相手だって仕事なんだ」と正当化する癖が桎梏のようにこびりついていて、その同情の壁を壊して先に進むことはできないのかもしれない。また、無名人のわれわれが書いても効果が薄いので、著名人がオリンピックに反対すればいいのだが、著名人は要するにCM出演が究極の目標というか、芸能人にせよ文化人にせよ、スポンサーにぶら下がって、そこから収入を得たいわけである。もちろん大企業にスポンサーになってもらわずとも、直接的にファンから集金することも可能であり、むしろそのほうが本質であるはずだが、それだけではやっていけないとか、ファンにチケットやグッズを買ってもらうだけでやっていける人でも、さらに稼ぐためには大企業のCMに出たいかもしれないし、どこもかしこもスポンサー依存で蝕まれている。われわれ一般人の大半にはスポンサーなどいないし、これから生きていてもトヨタ自動車のCMに出ることは間違ってもないと確信できるのだが、それでもなかなか団結などできないし、たとえばわたしがトヨタ自動車に抗議の電話をしてその音声をアップしたとしても、前述した論法により、「あのひとたちだって仕事なんだ」というお決まりの論法でこちらが悪者になりそうだ。そもそも本当に広告を出したくて出している会社がどれだけあるのか疑問であるし、やはりマスコミ対策の側面が大きいと思うが、今回の災厄を機会にこの膿を出せるのかというと出せないであろうし、ただ単に膿んだところを切開もせず唸って苦しんでいるだけあり、ここからさらに化膿するのだから驚く。われわれ一般人が決起するか、もしくは絶対にCMに出ない(電通も敵に回す)ような著名人が旗を振るかという状況だが、おそらくわれわれ一般人が決起して攘夷を行わねばならないのだろう。電通やトヨタ自動車を日本の敵として糾弾し、バッハ会長という夷狄の入国は阻止する。
レジ待ちはなぜストレスなのか、というと、やはり割り込まれたくないからであろう。割り込みという侮辱行為を受けないように警戒することがストレスなのである。自分の顔に泥が塗られないか畏怖している。割り込まれるとメンツが丸つぶれなのであり、これは待ち時間の問題ではない。たとえば開かずの踏切で5分10分待たされることがあるとして、これはレジ待ちと似ているがやや違う。開かずの踏切はメンツの問題ではないが、レジ待ちはメンツの問題である。最近話題になるあおり運転も、実はその前にメンツを潰す行為があるという。あおり運転の被害者にヒアリングすると、加害者の憤激に心当たりがあることが多いというのだ。相手の進路を塞いだ(もしくは意図せず塞いでしまった)、あるいは割り込んだ(もしくは意図せず割り込んでしまった)という因縁があり、それへの報復なのである。われわれ人間の歴史は3次元空間で陣地を奪い合うゲームであり、割り込むというのはそのゲームの1ターンとしての攻撃である。肉体そのものが幅や面積を持った存在であるから、ひとつの座標に一人という排他性があり、自分が求める座標に他人がいるなら諦めるか排除するかである。空間を占拠する戦いを、文明の端緒から、もしくはそれ以前から生物として行っているのだから、失笑して済む話でもない。空間が無限にあるとしても、誰もいない場所に住むことはできないから、他人と共存せざるを得ないし、奪い合いが発生する。たとえばインターネット空間に面積はないが、誰もいない場所に価値はないと言えるし、発生した場においてのトラブルは多々ある。人間が住んでいない場所にスーパーマーケットはないし、レジ待ちもありえない。終の棲家として誰もいない深山幽谷の地に住むことはできるがそれは死の準備であるし、つまりわれわれが生物として生殖するなら、やむなく他人と共存するしかなく、そこで割り込みとか、主人と奴隷の支配関係とか、そういうことになる。他人の生々しい体臭にうんざりしながら生活するしかないのである。お互いの体が臭いと言えばそれまでだが、ともかくそういうことだ。当然ながら、レジ待ちは、土地の奪い合いや支配関係とは話が違うのだが、ごっことしては同じである。金持ち喧嘩せずという心境でいれば、割り込まれたところで実害はないので看過する。人間関係においては「なめられたら終わり」というのがあるが、レジ待ちは人間関係ではないので「ここで勝っても仕方がない」という現実はあり、たまたま割り込んできた人間に負けても人生にデメリットはない。だから、負けるが勝ちという心境になれる余裕があるかどうかである。われわれはゼロサムゲームを生きているので余裕がない人が多いから、どうしても報復を考えるし、いわば憂さ晴らしとして実行する人もいるのだろう。レジ待ちで喧嘩する人はさほどいなくても、あおり運転だとそれがやりやすいのであろうし、やはり割り込みこそが人間の歴史の根本であるから気をつけねばならない。
コロナ禍はトンネルの最後の方に来ているとは思うが、近日中に脱出という具合ではないので、われわれはもう少し囚人でいなければならない。その囚人が短絡的な自尊心の回復のために立ち上がる悲喜劇が繰り返されているが、これは現状の暗雲立ち込める惨禍の一幕として似つかわしいにしても、まったく美しくないものである。島田紳助の枕を断ったら干されたとか、つまり枕は断ったのだから、被害としては未遂だと思うのだが、やはりコロナの現状だと、そのせいで自分の現在が辛いという解釈が起こりうる。わたしは件の女性タレントについては存在そのものを知らなかったのだが、テレビに出ている人の大半は、なぜその場にいるのかわかりづらいし、本当の意味での需要がないから、実需とは別の原理があるのだろう。島田紳助とか出川哲朗のせいでテレビに出られなくなったという一種の誤解が正解となりうるのである。枕を断って仕事がなくなっても、それは泡沫のような浮世稼業を拒否する潔い態度のはずである。需要がないのに枕でテレビに出てちやほやされる人がいたとしても、それは羨むべきことではない。悪魔に魂を売り渡して下駄を履かせてもらうよりは、身の丈を認めたほうが真っ当である。コロナだとその身の丈を測る現実が崩壊しており、自らが不当に疎んじられているという被害者意識が募りやすい。人間に対する需要の無さという不安が蔓延しており、わざわざ包帯を外して、その膿んだ状態を見せあう。コロナ状態であると、誰もが難民のような具合であり、自らが見捨てられたという話への共感を得やすい。普段から見捨てられている人と、コロナで見捨てられた人では次元が違うはずだが、この監獄では無機質な囚人番号でしか呼ばれない平等性があるので、既存の垣根が取り払われている。われわれは今こそ人間としての姿を維持しなければならない。現状は誰もが死地に赴くかのようだが、決して死んだわけではないし、いずれその蒼白い顔に血色を取り戻すべく人間の形をしていなければならない。瘴気が消え去り監獄から出れば、囚人服を脱いで装いを新たにし、人間を人間たらしめている遠近法が回復し、それぞれの目鼻立ちがはっきりしてくる。
2021.04.01

怠け癖と虐待

親がきちんとしていて、自然に子どもがきちんとしているというのが望ましいが、世の中そううまくはいかない。怠けて他人に押し付けるという怠惰の競争が発生することがある。怠けるというのは、本人の問題だけではなく、頑張ると仕事が増えてしまうという環境の悪さへの適応でもある。率先して頑張る人に仕事が集中するのでは、怠けたほうがいいことにもなる。一種のチキンレースである。誰が雑用をするかという集団生活の基本的なテーマは永遠の悩みである。まずは、頑張ると仕事が増えて損するというモラル崩壊を生まない環境づくりが必要である。経済社会では仕事が増えると収入が増える仕組みは可能である。他人の倍の仕事をしても給料が変わらない事態も発生しうるが、これは制度的な改善の余地がある。家庭や学校では身内で役割分担することになるから話が違う。育ちのよい人が集まる家庭や学校なら、それぞれが率先してやる環境なのだろうが、世の中そういう人ばかりではない。であるから環境が悪いと、徹底してサボって他人にやらせる方向になってしまう。たとえば有村悠さん(41歳)は、鬱で寝込んでいて持続化給付金をもらったそうである。これなどはまさに底辺へ堕落する競争で給付金を勝ち取ったわけだが、実は失っているものの方が大きいという好個の事例であろう。有村悠さんは虐待被害の妄想を抱いているが、生死が危ぶまれるような虐待の被害にあったというのではなく、それぞれが率先して物事を改善していく家庭環境ではなかったのである。さきほどから「率先して」という言い回しを繰り返しているが、これはつまり、誰かがやらなければならないような雑用があるとして、それを他人に押し付けず、自ら進んで片付けようという姿勢である。他人が捨てたゴミを拾いたくないという意地は誰にでもありうるが、たいしてしんどくないので、育ちのいい人は自分で拾って片付けてしまう。北風と太陽のような話でもあるが、劣悪な環境においては、他人が捨てたゴミを拾うと、そのままゴミ当番を押し付けられるリスクがある。「あのゴミも拾ってこい」と言われて仕事が増えてしまう。そういう陋劣さが蔓延する環境においては、お互いに怠惰を競い合い「こいつは人の言うことを聞かない」という批判的感情が募る。では言うことを聞かせるためにどうするかというと他人の奴隷化であり、虐待である。怠けるのはよくないという単純な話ではなく、仕事をしてしまうと仕事をさらに押し付けられるという人類の業病があり、だから怠けておかないとまずいというのがあり、そのお互いの堕落に不満を抱き殺伐とするのである。
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