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2021.06.23
立花隆死去
「田中角栄研究」は文藝春秋社がスタッフを20人くらい用意してくれていたはずで、登記もスタッフが総掛かりで調べているはず。登記を取ると手数料がかかるので、虱潰しに調べるのはやりたくないのが普通だが、(たぶん文藝春秋社の経費で)調べたらすごい情報が出てきたという具合だったと思う。おそらく他の著作も、それなりにスタッフがいるのだろうが、それでも簡単には出来ないことである。知の巨人と称されることが多いが、専門家とは対極であり、自分の専門ではない分野について資料を徹底して読み込む、端的に言えばジャーナリズムの人である。どうしても昨今は専門性を極めるために、優秀な人でも、というより優秀な人こそ、自分の専門分野の本しか読まないから、興味のあることを徹底して調べるという立花隆の素朴なやり方が際立つ。資料というのはくだらないものもあるので、隅から隅まで立花隆が読んでいるとは考えづらいが、とりあえず海とも山ともつかないものはスタッフに読ませて、なにか面白いのがあれば「こんなのがありますよ」と言われて立花隆が読む、と思っているのだが、もちろん実情は知らない。「田中角栄研究」は20人がかりで資料を調べている様子も含めて書かれているから、他も似たような具合だろうと勝手に想像している。わたしが個人的に好きなのは「天皇と東大」である。圧倒的な資料の読み込みに裏打ちされた力作である。東大という単語を見るたびに有村悠さんを思い浮かべてしまうが、有村悠さんがライターとして著作をものしてないのは読書量の圧倒的な少なさゆえであろうし、艦これで戦史を語るために時たま日本史入門とかを買っているようだが、あの程度ではいつまでたっても著作は完成しない。有村悠さんにスタッフを付けて戦史の資料を読んでもらうとしても、有村悠さんがリーダーだと群盲象を撫でるという具合になりそう、あるいは、有村悠さんがゴロゴロしていて、スタッフが資料を読んでいるという絵面が目に浮かぶし、スタッフが執筆したほうがいいという結論になりそうである。おそらく資料という既存のものではなく、有村悠という人間そのものを膨らませて独自の境地に至るつもりなのだろうが、その有村悠という存在もよくあるアダルトチルドレンなのだし、自分と同じようなことは他人も考えるという常識が欠落している。京アニ放火事件の青葉真司容疑者と同じで、自分の頭に浮かんだことは独創的という思い込みがあると思われるが、実際は量産型なのである。自分の頭に浮かんだから独創なのだ(他の誰も思いついてないはずだ)という誤謬は避けたい。立花隆はそのような独創性は求めていないし、既存の資料を徹底して読みこんで発見していくスタイルであるから、独創的な知性とは言えないのかもしれないが、有村悠さんや青葉真司容疑者のような量産型アダルトチルドレンになってしまうよりは、身の程をわきまえつつ、既存の資料を読み込んで再発見したほうが人間知性への貢献となるであろう。
2021.06.19
生き残って殺人オリンピックを見る
少なからずの人が、生死の境を彷徨っている。そして、生きていたらオリンピックを見るということなのだろう。バッハ会長もモントリオール五輪金メダリストだ。頭の中が女と金、そういう梟雄の予備軍が競技を行う姿を観賞するわけである。税金を10兆円使ったら、それは誰かの懐に入るのだし、いいのではないか。世界的疫病における匡救事業としてはまったく的確でないように思えるが、貴族にお金を配れば奴隷に行き渡るという竹中平蔵のご高説もある。殺人オリンピックのせいで土に還る人々もいるだろうが、生き残った民草は、殺人オリンピックを見て、納税者として膏血を啜られるのである。金メダリストはいずれ五輪貴族の旦那衆になるわけだが、この災禍を生き残った愚民はその栄達を見守るのであり、いずれバッハ会長の後継者となる守銭奴が金メダルを首にかけて表彰台に上がる晴れがましい姿を目撃するのであろう。暴走機関車が走れば轢死体が山積みになるのは当然の理だが、自民党支持者はそれでいいのだろうし、あるいは池田大作に折伏された創価学会信者もそれでいいわけである。われわれのように日本共産党を支持している人間だけが殺人オリンピックに反対しているのでは如何にも旗色が悪い。歴史的な大惨事が目睫の間に迫っているのに、自民党支持者や創価学会崇拝者に見張られて動けない自分自身は、殺人オリンピックで死亡する側に入るのが似つかわしいし、罪人が地獄に堕ちるだけである。では自民党支持者や創価学会崇拝者が罪人ではないのかというと、それはよくわからないし、最近は無党派層というゲリラがたくさんいるから、一億総懺悔で終わりであろう。旗幟を鮮明にしないで模様眺めをしている日本人がたくさんいるのだから、うやむやになる。あるいは、わたしがたまたま轢死体にならず生き延びたとしても、殺人オリンピックにさしたる抵抗もせず、暴走機関車がたまたま他人を轢き殺しただけであるから、運良く自分が生き延びたことを手放しでは喜べないであろう。
2021.06.18
中抜きではなく中増し
思えば昭和の頃も「中抜き」という言葉がよく使われていて、これは中間業者を通さないで直接仕入れて価格を下げるということだった。問屋から仕入れるのではなく、製造業者から直接買うとか、そんな話である。最近のオリンピックだと、中間業者の儲けを中抜きと言っている。誤用と言えば誤用なのだが、おそらく、民間の取引と税金では話が違うのが本質だと思う。民間であれば、できるだけ安くしようとするが、税金であれば、どうせ他人の金なので、高くしたほうがいいわけである。中間業者を排除するよりは、そこに税金をプレゼントして天下りしたほうがいいわけだ。政府というのは、経済の競争原理が全く無い独占事業なので、こういうことになる。値段が高いと他の政府に取って代わられるということがないわけだ。こう考えると、昨今の五輪で発生していることは「中抜き」というよりは「中増し」と言ったほうが妥当だと思う。政治家のファミリーみたいな中間業者がどんどん増えていくわけである。では「中抜き」ではなく「中増し」と呼びましょうとわたしが主張しても誰も応じないから、とりあえず中抜きという誤用を使うしか無い。あるいは誤用というよりは、世の中が一回転して元々の中抜きという言葉がほとんど使われなくなっているので、死語が新しい意味で再利用されているのかもしれない。一応わたしとしては「中増し」という言葉を提案しておくが、なんにせよ中間業者を太らせるか否かの問題なのである。
2021.06.14
スキー原田雅彦は悪党
スキーの原田は悪党である。いや、彼がJOCの理事になるというのは確定情報ではないので、決めつけとなるが、もはやそんなことを言っている場合ではない。東京五輪の開催に合わせて2030年冬季五輪の札幌開催が発表という推測が成り立つからである。たぶん彼はひとに悪口を言われないタイプであろうし、おそらく悪気はないと擁護されるであろうが、紛れもなく日本人を危険に晒す悪党である。刺々しい感情を原田雅彦が癒やしたとしても、日本人の死体が積み上がる光景は消せない。この殺伐とした世情に生きるわれわれはすべての中抜きをみやぶる晴眼者である。嘘くさい女の涙に騙されるような初心な感情はもはや持ち合わせてないから、われわれは誤魔化されないし、ただひたすら原田の罪障の深さに、今から震えが止まらない次第である。大惨事は目睫の間に迫っている。さて、原田雅彦がJOC理事という報道が飛ばしだったらどうするのか。飛ばし記事に釣られて他人を悪党呼ばわりした責任を問われて刑務所に入るかもしれないが、それはそれで思想犯として致し方あるまい。もしくは、この報道は真か偽の二者択一ではなく、札幌五輪実現への動きの予兆なのである。少なくとも札幌方面からの観測気球であるのは間違いない。情報戦ということだ。であるから今後原田雅彦が理事にならなくても、まったくのデマだったということにはならない。札幌は2030年冬季五輪に立候補しているのだが、その連中が開催を引きつけようとしている。原田雅彦は勝手に名前を使われている可能性もあるが、まったく無関係の人に使われているのではなく、やはり北海道の地縁は確実にある。冬季五輪の象徴的な人物として、担ぎ出したい周囲がいるわけだ。そう言えば、橋本聖子も北海道出身であるし、いろいろと札幌五輪実現への環境は整っている。ただでさえ、われわれを暗澹たる気分にさせる五輪が、2030年にまたやってくる可能性が高い。逆に言うと、今回の東京五輪を中止に追い込めば、札幌五輪も潰える。われわれは日本で二度と五輪を開催させないことを望んでいるから、2030年冬季五輪の札幌開催は断固として拒否する。そもそも東京五輪を開催したら、2030年までに日本が存続しているか疑わしい。五輪という淫祠邪教を滅ぼさなければならない。
2021.06.09
宅間守の名前が出てこない
地域共同体が壊れて近所の顔が見えなくなってきてから、マスゴミ報道という俎上においてだけ、他人の子供と自分の子供を同一視する観念が強まっている。個人個人の顔がくっきりしていると他人は他人ということになるが、今は誰しも他人だから、距離が遠すぎて、逆に自由な空想で埋めることが出来る。池田小の事件の記事を見るたびに不愉快になるのは、宅間守の名前がほとんど出てこないことである。2004年に死刑執行されているし、なんというか、責任の追及のしようがないわけだ。無一文の輩が凶悪犯罪を犯したらどこから賠償金を取るかという技術の話であり、マスゴミがそれに迎合しているのである。そもそも学校に責任はないと思う。仮に学校のセキュリティが万全であったら校外で犯行が行われていただけの話である。学校が責任を認めているのは、所詮は自分で払うわけではない、というのが大きかろう。賠償金さえ賄えれば何でもいいというのでは困る。あくまで主語は宅間守のはずであり、賠償能力がないから消し去るというのでは、マスゴミの報道は賠償金を取るための運動なのか、ということである。被害者にお金を出すのを否定しているのではなく、むしろ犯罪被害者への給付金のような制度もあるのだから、それを拡大させれば済む話である。わたしとしては遺族は守銭奴という印象が強く、彼らを金の亡者にしないためには、責任の所在に関わらず税金でお金を払ってあげたほうがいいだろう。宅間守が無一文だから主語から外すというのはやはりよろしくないし、報道を見るたびに胡散臭い感じがする。家族制度というのは集団安全保障とも言えるから、赤の他人を自分の家族と同一視してヒステリックにもなるのだろうが、やはり他人は他人である。もし宅間守が大富豪だったらまったく別の報道になってると思うので、被害者の弁護士の指南で記事を書いているわけだ。そもそも池田小事件は殺された児童の顔が見えないのである。みなさんがのっぺらぼうであり、学校の管理責任という観念だけがあり、とうとう宅間守まで消されてしまっている。あまりにも抽象的であるから、事件が架空だったのではないか、という気さえしてくる。繰り返し述べるが、税金で被害者に給付金を出すのはいいと思うので、それはやるべきだが、事実を枉げてまで賠償金を取るというのでは、うんざりするしかない。
2021.06.02
飲食店と職業差別
なぜコロナにおいていろんな業種が苦しいのに、飲食店に絞ってバラマキされるのかと考えると、政治家だけでなく、一般人が飲食に同情していることが背景にありそうである。飲食には漠然とした職業差別がある。「実家は飲食店です」と言われたら、「ああ…」と育ちの悪さを察する具合である。馬鹿にしているわけではなく、むしろそう思ってはいけないと考えており、そこに罪悪感があるわけだ。差別したくもないのに、なんか育ちが悪そうという先入観、もしくはスキルのない人が飲食に手を出すのも事実だし、底辺の人が飲食に流れ着く傾向はあるだろう。たとえばコロナで苦しい業種と言えば、クリーニング屋があるが、「実家がクリーニング屋」と言われたら、社会階級的に高くないと思うとしても、罪悪感はない。考えてみると、われわれはすべての飲食店を水商売だと認識している。もちろん濃淡はあり、キャバクラは100%の水商売だし、バーやスナックはマイルドな水商売という具合である。では、喫茶店は水商売なのかというと、誰もそうは言わないが、薄っすらと水商売の系統だとは考えている。この職業差別は不思議であり、たとえばわれわれがパチンコ屋を馬鹿にしているのとはまったく異なる。飲食店は社会に根づいていながらも、漠然とした育ちの悪さがあり、そう思うのも失礼な話だという感覚があり、この葛藤から過剰なバラマキをしているのである。定食屋は水商売だと言ったら反発を受けそうだが、逆にそこが急所であると思っている。クリーニング屋と定食屋はまったく違うのである。クリーニング屋で接待されることは微塵もないが、定食屋での接客はほんの僅かに接待なのである。あるいは、客が高級で店員が底辺という、そういう優越感を与えるのが飲食店の商法という説明も可能である。この体験を提供するのが飲食店なのだ。クリーニング屋にワイシャツを出すのは体験を買うことではないが、外食をするのはただの食事ではなく底辺に接客される体験を買っているのである。