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2021.08.29
攻撃される理由がわからない不安
花森弘卓容疑者のアシッドアタックの動機についていろんな人が好奇心満々であるのも、対人関係における根源的な不安から、理由が知りたいのである。われわれは些細なことで他人を軽んじてしまう場合があるので、どうでもいいことで恨みを買わないように気をつけて生きている。あるいは逆に、報復などそう簡単にはできないので、どうせ何もできやしないと、露骨に他人を軽んじている場合もある。嫌がらせができるのは強者の特権とも言える。弱者が報復しようとすると大袈裟な復讐劇になってしまう。だから対人関係の多くは嫌がらせということになる。人間は他人に嫌がらせをする際に理由は言わない。理由が不明であるほうが不気味なので不安がらせる効果がある。理由は自分で考えろということである。理由を言ってしまうと逆に腰砕けというか、相手に釈明を求めているような弱さがある。だから無言で嫌がらせをしたりする。「あのときの薄笑いがカチンときた」とか恨みの理由を説明するのも間抜けだし、和解の提案めいてしまうから、本気で対立するのであれば理由は言わない。そして嫌がらせを受ける側としても「よくわからないが、あのときつい薄笑いしてしまったのでカチンときたのだろうか」という察しはついているわけである。まったく心当たりが無いというのは少なそうだ。とはいえ、やはり理由を特定したいので、嫌がらせを受けてる側としては「理由を教えてほしい」と懇願したくなることもあろうが、理由を問い質すのは躊躇われるし、相手も答えないから不安は消えない。まあそういうミステリーなのである。今回のアシッドアタックは強者の嫌がらせではなく、弱者の復讐劇であるから話は違うのだが、いざ本当に実行されるとなると、理由がわからない不安に囚われる。本当に重大な理由なのかもわからないわけだ。この花森弘卓という人物、小山田圭吾にウンコを食わされたみたいな話ではなく、ネクラで劣等感が強そうだから、被害者が迂闊にその急所に触れてしまったのかもしれない。
2021.08.24
集団でワイワイ。人間関係の主役と脇役。
人が集まって飲み食いすることの罪障を考えるに、コロナだから悪というだけではあるまい。やはり政治的な行動という側面が強いのも確かである。黙食というキャッチフレーズはそこそこ定着したが、あまり政治家から発せられないのも、やはり多人数でワイワイやるのが生命線だからである。会食が政治であり政治は会食である。泳ぐのをやめたら死んでしまう。政治家としての餓死なのである。政治的でない人はひとりで食べられるが、政治家が一人で食事をしていたら死んでしまう。ワイワイ飲み食いしてこそ政治家である。黙食などもってのほかなのである。今回のコロナで多く目にする意見として、飲み会が中止になってホッとしているというものがある。やはり主役は楽しくても脇役は楽しくないのである。どうしても人間と人間が繋がると誰かが仲間はずれになってしまうのだが、実は、実は、実は、実は、ハブられる人間は絶対に必要である。一等賞を生み出すためにはビリになるヤツが必要。全員が優勝することはできない。誰かが貴族になるなら、賤民をあてがわねばならない。脇役がいないと主役も楽しくないので、主役ではない人も飲み会の数合わせに召集される。そういうモブキャラのひとたちが世の中にはたくさんいて、コロナでストレスが減ったと喜んでいる。ついでに居酒屋が全滅してくれと思っている人も少なくあるまい。飲み会は主役だけでやれ、と今のうちに主張しておかなければならない。数合わせの面々を並べないと酒も飲めないのか、ということである。オンラインでの飲み会というのが一時期推奨され、すぐに廃れてしまったが、これはつまり脇役がいないからである。オンライン飲み会は主役だけになるからつまらない。主役を取り囲む脇役がいないと主役は楽しくないのである。能動的参加者だけでは飲み会が成立しない。人間そのものはまったく進歩しないとしても、時代の変化に伴い、何らかの悪習が廃れることはある。根無し草であるわれら人類に究極の現実はないので、人間同士が揉み合った結果が現実というしかなく、貴族が貴族であり賤民が賤民であるのが人間的現実の根幹とも言えるのだが、いろいろ揉み合って出自による身分制度を廃止に追い込んだのも人類の歴史である。一人で食事をするのを嫌がる政治家たちの姿勢は王様的な横暴さとして浮き上がってきており、この醜悪な人面瘡は本当に疎まれている。酒の席で序列を確認するのは、コロナをきっかけに忌避されるのではないだろうか。なんらかの主従関係が人間社会の根幹にはあるとしても、生まれつきの貴賤とか、飲み食いでの政治とか、そういうのは消えていく。
2021.08.22
フジロックは人殺しだから開催される
フジロックはもはやリスクではない。明確な人殺しである。危険運転ではなく、生身の人間を狙って轢き殺す狂気である。だからこそ開催されるのである。それくらいやらなければ、経済的な死からは逃れられない。東京五輪は日本経済にとってただの苦行であり、重荷であった。これによって日本が打撃を受け、経済が後退した。それがゆえに窮鼠猫を噛むというか、明らかなテロリズムとしてフジロックが開催されてしまっている。飲食に過大な協力金がバラマキされているのは、それだけコロナ感染力が高いからであろうし、その刃物の強度ゆえであるが、会食が好きな人間が政治家になるという理由も強い。飯を食うだけなら一人で食えばいいのだが、会食を我慢できない人間がたくさんいるからこそ飲食へのバラマキはある。その我儘な人種と政治家が重なりすぎているのも政治不信の大きな原因であろう。会食が社交性の極みなのに対して、ライブ参戦というのは自閉的である。ミュージシャン自体は飲み歩きが好きな人種が多そうだが、ライブに参戦する側は必ずしもそうではない。客層は対極である。もはや、政治家にそっぽを向かれた職種の人間はテロをやるしかないのである。アパレルとかクリーニング屋とかトレーニングジムとかゲームセンターとか整体とか、ごく普通に閑散としている業種もあるだろうが、エンタメ業界は、開店休業ではなく、感染対策として一年半も店を閉めているのである。開いてしまえば客が集まってしまうからこそ閉めているのだ。つまりコロナ感染力という刃物の強さでは、飲食店とフジロックは頂点で互するのである。同じくらいに危険なのにバラマキされる側とされない側がある。ここにきて、とうとうウィルス兵器のボタンを押してしまうテロリズム、あるいは内戦の戦端を開くと言ってもいいが、それがフジロックである。フジロックのせいで人間が死んでいくが、これは加藤智大と同文脈にある。令和維新である。政治から冷遇された人間がドカンとやってのけているのだ。東京五輪やパラリンピックを強行している手前、なかなかフジロックをやめろとは言いづらいのもあろうし、これで何人死ぬのか知らないが、飲食へのバラマキを続けていることが商売人全体にとって大きなストレスになっているのもあるだろう。業を煮やしつつも、アパレルは黙って潰れていくしかないが、エンタメ業界はイベント強行という最終手段がある。政治家に愛される業界と愛されない業界の格差なのであろうし、愛されない側がとうとう暴発した風景を見ているのである。
2021.08.17
人権のレールに乗った人生
パラリンピックはまさに人権の祭典である。困難を乗り越えていくのではなく、バリアフリー化された世界を体感する儀式である。彼らは決して何かを克服したのではなく、すでに何かが克服されてレールが敷かれた世界において、そのまま乗っかることを選択しただけである。このような茶番をいつまで続けるのか判然としないが、スポンサーマネーと人権問題がリンクしている背景もあり、著名人は誰一人横槍を入れることはない。こうやって障害者を批判すると、「だったらおまえも身体障害者になってみろ」という反論はあるだろうし、福祉の恩恵に預かるためだけに片輪になる人はいないだろうが、逆差別であることに変わりはない。そもそも問題なのは、健常者のオリンピックの金メダリストでさえ持て余している現状だ。バッハはモントリオール五輪金メダリストである。金メダルを獲ったからには、それなりの貴族待遇が求められる。五輪の金メダリストでさえ、競技数の増加で粗製乱造されお腹いっぱいなのであるから、その名誉を障害者にも分け与えるということは、あまり好ましくない。オリンピックありき、という連中だけで重荷なのに、パラリンピックありきというひとたちが乗っかってくると、社会はもはやその重みで潰れるしかない。欺瞞の上に欺瞞を増築するのは避けていただきたい。健常者のオリンピック自体にあれこれ問題があるのだから、いくら旨味があっておいしいとはいえ、本当の価値はないので、障害者もお裾分けするのが素晴らしいということはない。またしても「だったらおまえも障害者になってみろ」という耳鳴りがするが、やはり金メダルのバラマキは健常者の五輪でさえ飽和状態なのであるから、これ以上名誉をバラマキするのが好ましいとは思えない。
2021.08.15
五輪憲章は死に至る病
五輪憲章とやらで森喜朗を斬りつけたら、いつの間にか五輪憲章が錦の御旗となり、オリンピックが本当に開催されてしまった。そして現在の日本列島はソドムと化している。他人を攻撃すると、それで自分が縛られることもあるので注意しなければならない。他人を斬っていけないのではなく、むしろ斬ったほうがいいが、あくまで巧妙に切り捨てなければならない。たとえば小山田圭吾のいじめ自慢とかわたしは1990年代からふざけすぎていると憤っていたが、みなさんスルーしていた。もちろん大半の人は読んでなかったのもあるだろう。わたしはたまたま雑誌で小山田圭吾のいじめ自慢をちょろっと読んだ記憶があるので、ネットに出回っているコピペもそれなりに真実だと確信はしていた。一字一句記憶しているわけではないが、似たりよったりのものを読んだ記憶はあるので、尾ひれはついているかもしれないが、まったくの捏造でないことは確信できた。見たことがない人からすると、ネットのコピペが完全な事実無根という印象を持ったかもしれないし、そこはなんともいえない。場合によってはデマを信じて踊らされてしまうリスクもあるわけだ。それはともかく、あまりにも手遅れながら五輪憲章を振り回して小山田圭吾をバッシングしたことで、パラリンピックを批判するのが難しくなっている。小山田圭吾を叩き潰すならもっと前にやっておけ、と思う。五輪憲章がなければ小山田圭吾を叩き潰せない日本社会が歪んでいるのである。害虫を倒すために別の害虫を招聘したというか、そういう外圧が感染症という形をもって日本列島に上陸し、血なまぐさい世相を生み出している。五輪憲章を錦旗にするとろくなことはない。五輪憲章はとても危険である。外圧に頼って日本を侵略されている惨めさの極みだが、占領下の状態はオリンピック閉幕で終わると思ったら、地味にパラリンピックが控えているので、インチキ臭さの残り香は衰えていない。パラリンピックを上陸させてはいけない。パラリンピックを切り捨てる方便を考えなければならない。
2021.08.13
遠くからの同情
生活保護を受けている人間など、現実に接していたら卑しくて手に負えないわけである。とはいえ、それはそれとして同情もあるわけである。他人を卑しいと思ってしまうこと(そして紛れもなく卑しいこと)への罪悪感である。そもそもわれわれが卑しくないのかというと、他人に同情している場合ではない、ことも多いであろうが、ここで問題となるのは卑しさの戦略であり、底辺の場合は、露骨に卑しくして、それでお金をもらおうということもあるだろう。故意の卑しさとも言える。卑しさというのは、この戦略も踏まえて考える必要がある。しかし、底辺の卑しい人間の卑しさが、完全な虚偽とも言えず、真実を曝け出しているのであるから、それを売り物にされるとわれわれは怯むしかないのである。このように露骨な同情作戦をやる人間が近くにいたら、さすがにその腐臭を避けることになるが、遠くから見ていると、貴族に扮装して助けたくなったりするのである。通りすがりの正義の味方になったりする。あるいは、自分が正義の味方になるつもりがなくても、あいつらの背後から正義の味方が現れてくる懸念である。結論を言うとすれば、卑しい人間はすべてが故意なのである。何かしら恵まれない状況の人間が、それを曝け出して恵んでもらうとすると卑しい人間になるのだ。気の毒な人間と卑しい人間は違う。気の毒な人間がそれを売り物にしようとすると卑しくなるのである。これを助けたいという正義は何者なのか。
2021.08.05
人間関係を動かせない苦悩
われわれは普段は人間関係を微妙に入れ替えながら生きている。たとえば別の業者に頼んでみるとか、それでうまくいくとは限らないが、ベターになるように調整しているわけだ。このコロナ禍だとワクチンを打つまでは身動きがとれないので、どうしても同じ人間と関わり続けることになり、他の人に頼んでみる試行錯誤ができない。それがかなりのストレスであり、ここにきてデルタ株が蔓延して、イスラエルやドイツはワクチン3回目ということになっているから、ますます日本へのワクチンは遅れる。人間関係を微調整するのがとてもむずかしい状態であるから、いわば武断主義というか、他人と完全に縁を切るというアクションにもなりうる。縁を切ったあとの見通しが立たないのだから、暗闇に身を投げるかのようだが、とりあえず縁だけは切る。人間に大差はないから、人心を一新してもレベルは変わらないが、腐敗が淀んでいるなら換気も必要である。人間は人間に対して権力を持っているから、それをリセットするだけで何かしら好転することもある。たとえばいじめへの対処として転校というのがあるが、どこに行っても同じというのはあるにせよ、権力のリセットという効果はある。いじめられている側がなぜ転校しなければならないのかという疑問はあるにせよ、権力が発生したら人間関係を新しくするしかなく、これは被害者が引っ越すしかないのである。加害者は権力だから動かせないので、被害者は引っ越す、それを前向きに考える必要もある。この現在の日本にしても、スガをどかすか、それが出来なければ亡命しかない。わたしは次回の選挙で日本共産党に投票するが、それでも自民党政権が継続するなら亡命する。スガは健常者の代表選手であるから、なかなか動かしがたい。わたしが亡命したほうが手っ取り早いわけだ。
2021.08.03
外食と接待
すべての外食は接待であると言える。吉野家や松屋でもそういう側面が絶無とは言えない。召使いが御主人様をもてなすわけである。小規模飲食店へのバラマキも、召使いへの慈悲、もしくは罪悪感なのであろう。わたしとしては、接待されても嬉しくないから外食などしないし、ただひたすらおかしいと思うだけである。接待付きでないと飯が食えないというのは人間の弱さや驕りであろう。飯は一人で食べればいい。一人で食う飯が寂しいというのは、接待なしでは生きていけないという自白である。飲食店従業員が召使いだというのはロールプレイであろうと思うし、客が御主人さまというのもロールプレイでしかない。だから、本当に威張ってしまう客がいると驚かれるのだが、では慈悲深い御主人様なら好ましいのかというと、それはそれで疑問が残る。召使いに恭しく接すればいい人という、その発想こそが唾棄するべきものではないかとも思う。威張り散らす客が大半なら接待が成立しないから、むしろそっちの方がいいだろう。召使いと御主人様が互いに恭しく振る舞う接待の関係こそが、問題の根っこなのである。おそらくこれは根絶やしにはできないであろうし、いうなれば、お世辞に弱い人を根絶できないのと同文脈にある。お世辞を言われたくてしかたないひとが接待を好むのであろうし、そういうのが政治家に多かったりするから、小規模飲食店へのバラマキもあると思われる。わたしはお世辞も接待も好きではないから、御主人様になることもないし、だから、召使いに優しくする理由がない、というより、この手のロールプレイそのものに嫌悪感がある。政治家が虚栄心の塊であり、虚栄心は空想癖に似ていながらも、それが現実そのものであるからひたすら吐き気がする。空想と現実という対比でわれわれは考えがちだが、現実だからこそ飾り立てるのもあるだろう。そういう感覚の人だけが選挙に立候補するという構図もあり、お世辞に弱い連中が胡散臭い現実を権力で成り立たせてしまうのである。
2021.08.02
綺麗事で他人を批判すると自らの首を絞める
政治家を批判する手段として、オリンピックの理念を盾に取る論法がよく使われており、その結果、五輪憲章が憲法みたいになっている。森喜朗を退場させるための手段として男女平等を声高に訴えた結果として、日本国民に綺麗事が突き刺さっているのである。ミイラ取りがミイラになるというか、綺麗事を振り回した結果、われわれの首が絞まっているのである。オリンピックが閉幕しないと日本の主権が回復しないとわたしが考えているのは、そのあたりである。これが終わるまでは五輪憲章が憲法なのである。五輪憲章を盾にしてIOCに矛盾を突きつけた結果として身動きが取れない。われわれがやるべきは、五輪憲章を錦の御旗にして特権階級を攻撃することではなく、五輪憲章のくだらなさを見透かすだけでいいのである。戦略の見直し、というより、五輪憲章を錦の御旗にしている日本国民のばかばかしさをまとめて粉砕しなければならない。現状の日本国民は日本社会党と似たりよったりであり、なにかあるたびに五輪憲章だと騒ぐだけで、存在そのものが詰んでいる。IOCはお金のために綺麗事を並べているだけなのだから、それを見透かせばいいだけである。彼らはスポンサーからお金を引き出せるなら何でもいいのである。五輪憲章を武器として振り回してIOCや東京五輪の矛盾を追及というのは、本当に悪手であり、われわれの首が締まっているだけなので、たいがいにしてもらいたい。綺麗事を振り回して他人を批判する戦法がいかに自分の首を絞めるか、という証左をわれわれはこの窒息しそうな現実で体験しているのである。