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厚生労働省のサイトの統計を見ると、やはり最近は共働きが増えている。「こんな高い価格のマンションを誰が買うのだろう」と疑問に思うことがあるが、共働き夫婦で合算すれば意外と買えるのかもしれない。こうやって専業主婦の割合が低下しているからには、男性から見て社会人女性がさぞかし魅力的なのかというと、そこはわたしにはわからない。古い価値観で言うなら、社会人女性は男性的であり、専業主婦は純粋な女性である。女が学歴をつけると、女としての魅力が下がる。学歴や社会的地位が高い女性にはチンコが付いているイメージである。あるいは一応は社会人でも、古めかしい言い方で言えば腰掛けOLとして寿退社するような女性はいい匂いがする。重役まで行くとなると女として片輪である。こういう古臭い価値観が変わりつつあるからこそ、専業主婦がどんどん減っているのだろう。社会人女性が本当に魅力的に見えているのか、それとも、共働きで合算しないと生活水準が維持できないという経済的妥協の産物なのか、ここはよくわからない。そもそも、勉強ができると性的な魅力が下がるのは男性でもそうである。勉強とセックスが相反するという根っこの問題は男女とも変わりがない。男性であれば、大人になると高学歴や社会的地位によって偉大な父というイメージを獲得し、それがセックスアピールめいたものになり、異性を釣れるようになるだけであろう。大企業の部長になるような女性よりは、女を売ってる底辺女性の方が魅力的という古臭い感覚は拭い去れないし、高収入の女性と結婚したいという憧れは男性にはないはずで、本当は専業主婦の奥さんがほしいとは思うのだが、自らの稼ぎだけでは心もとない。憧れより現実を選択したのが共働きなのであろう。ここまで性的魅力が高いほうが素晴らしいという前提で書いてきたが、性的魅力が下がるから勉強も放棄するという短絡的な考えがよいとも思えないし、人生すべてがセックスと主張したいわけでもない。だいたい高収入男性が奥さんを選ぶ条件として、昔であれば、可愛い専業主婦であっただろうが、今だと経済的に自立している女性という気がしないでもない。つまり頭の中がすべてセックスという中学生根性だと、専業主婦のかわいい奥さんをもらいたいとなるが、そこから脱却して経済的自立に価値を感じている男性であれば、奥さんにも経済的自立を求める、というのが最近の風潮ではなかろうか。ところで勉強すると性的価値が下がるのはなぜなのか、それはわからない。本当に下がるのかと言われれば、疑いなく本当に下がると答えるしかない。勉強すればモテて仕方がないというのであれば誰もが猿のように勉強するであろうし、どう考えてもそうなってないからである。
日本人の酒量はこの二十年で二割ほど減っている。酒を飲まずにシラフで世界を見渡すと昭和時代の迷妄が取り払われ等身大の実情がわかる。わたしも酒量の減少に貢献している人間で、だんだん飲まなくなった。シラフのあっさりとした世界はつまらないながら、こっちのほうが好ましいと思っている。おそらく酒を飲むのは実存の問題であり、酒を飲むことで、世界認識の遠近法が変化する。シラフの世界はずいぶん平板であっさりしているが、酒を胃袋に入れることで自己愛が膨張し、違うレンズで世界を見ることになる。わたしがここで飲酒の話をしているのは、文字通り酒の話であると同時に、メタファーとして自分に酔うという話でもある。たとえば尾崎豊は1965年生まれで1992年に死んでいるが、もし今でも生きていたとしたら、55歳となる。酒浸りになり身を持ち崩し悩みを捻り出していたかもしれないが、それでも思春期の煩悶をそのまま続けていることはあり得ない。太宰治は38歳で死んでいるが、薬物中毒で自殺未遂を繰り返し、無理して悩むのも年齢的に限界であっただろう。もしくは有村悠さん(42歳)のように元から酒を飲まない人間でも、飲む飲まないに関わらず、加齢によって思春期の苦悩は自然と減衰する。有村悠さんは飲酒ではなく精神科の薬への依存であるが、そろそろ思春期の悩みを続けるのは難しくなっている。自らが世界の中心人物であるという遠近感で生きることはできなくなっている。宇宙の中心で悲劇の主人公として生きていたはずが、一人の脇役のオッサンとして川崎の片隅の安普請で年老いていく悲しい実像がわかり始めているはずである。若かりし頃に、片想いの美人東大生から「いい加減自分を特別な人間だと思うのはやめてください」と言われたときはまったく理解できなかったようだが、さすがに42歳にもなると、有村悠さんこそが宇宙という遠近感ではなく、宇宙全体から川崎のゴミ屋敷に世界観の縮尺が変わっている。祭りの跡と言うべきか、興を削がれたように、可能性という余白が失われ、これまでの42年間の人生が事実のすべてとして寒々しく横たわっている。もはや持続化給付金をもらうために無理して悩んだふりをしてうつ病になっているわけだ。人間は神ではないから森羅万象をそのまま捉えることはできず、自分の肉体が存在している場所から周囲を眺め、見えない部分は想像や妄想で補いながら世界像を構築している。遠視になったり近視になったり自由自在というわけでもないから、自己と世界の距離感はその人次第でもあるが、世相の変化によって飲まなくなったり、もしくは加齢によって、自分こそが宇宙の主人公という肥大した自己愛を持ちづらくなったりする。
故意に体当たりしてくるサラリーマンみたいな話。新聞記事で時たま目にするが、実際に目撃したことがなくピンとこない人が多いと思う。わたしが思うには、これは新宿駅の文化である。以前もエントリーに書いたことがあるが、コロナ前にこんな出来事に遭遇した。駅の階段は左側通行になっている。だが、人の流れの量からそれが実態に合わないこともあり、わたしは狭い右側の階段を登ったのだが、そうしたら、懸念した通り、わざわざわたしに体当りするべくそこに降りてきたサラリーマンがいた。こっちが階段の途中で立ち止まって、来るなら来いと睨みつけていたら、目を伏せてすれ違いながら「逆」とだけつぶやいていた。これはわたしが最初から予想していたからいいが、もし不意打ちだったら、つい謝ってしまったかもしれない。新宿駅はマナーを教えるために体当りするサラリーマンが本当にいるのである。だからそれらしき奴がこちらに向かってきたら睨みつけておく必要がある。やはり新宿駅と場所を限定しないと、この体当たり問題は伝わらない。新宿駅以外にもいるかもしれないが、新宿駅にやたらといるのである。なぜ新宿駅なのかというと、日本最大級のターミナル駅であるから、あれこれ路線があり、人の流れがわかりやすい普通の駅とは違うし、今はコロナでおとなしいかもしれないが、うんざりするほどごった返した群衆が四方八方に流れていて他人が歩いている方向のベクトルがわかりづらく殺伐としている背景もある。よそ見していたら体当たりなのである。とはいえ、入り乱れてなくても体当たりを試みる輩もいる。冒頭で述べたわたしの事例も、まったく入り乱れてないのに、わざわざ体当たり目的で階段を降りてきているわけだ。歩きスマホの女性が体当たりされやすいというが、男同士だとただでは済まさないというのがあるし、突き飛ばされたら追いかけてそいつを突き飛ばすだけである。女は男より周辺視野が広いから、逆にスマホを見てぼんやりしているのもある。歩きスマホの男女比を調べたわけではないが、男は周辺視野が狭いから、歩きスマホをするとまったく周囲が見えず、ごく自然に控えるのはある。あるいは、女子は子供の頃は男子よりしっかりしているが、成人すると注意力が退化するのか、意外とぼんやりしているのかもしれない。さて、昭和時代、新宿駅は本当に怖い場所であり、「新宿鮫」という小説とか今ではナンセンスに思えるかもしれないが、当時はかなりリアリティがあった。なにしろ暴対法がなく、本物の暴力団組員が暴力団の格好で歩いている街だったのである。駅というのも、端的に言えば立地が悪いところに作るわけであり、そして、太平洋戦争での空襲の問題もある。空襲で焼けたところにチンピラが入り込んでいる構図があるわけだ。最近の新宿だと、それはかなり解消されているので、昭和の頃とは別の小綺麗な街と言っていいのだが、何かしら、昔のイメージだけで生きているおっさんがいるのかもしれない。
70歳くらいの人が死んだとして、それを悼むのはいいのだが、死なないでほしかったというのは違うと思う。そういう発想は、死を先延ばしにしているだけである。70歳くらいで死ぬのが、本当の死なのである。90歳くらいになると、もはや半分くらい、あるいは半分以上、もしくはほとんど死んでおり、普段から昏睡状態みたいなものだから、死んでも自覚がないという安らかさがあるのだろうが、そのような曖昧な死を求めるとコストが重すぎるのであり、新型コロナウィルスにしても、それこそ、40歳とか50歳の人間の命が高齢者より軽んじられている。老人として死ぬことが本当に怖いのである。70歳で死んでしまうと、いや、70歳と言っても個人差はあるだろうが、わたしが言おうとしているのは、様々な老化現象に直面しながらも、一応は頭がしっかりしている年齢として70歳と言っているのだが、ここで死にたくないというのが日本人の感覚なのである。奇妙な話だが、40歳とか50歳で死ねば、まだ若さが残っていて体がしっかりしているので、その方がいいのだ。本当におかしな話である。人間の死を悼むということについて考えなければならないし、やみくもに長寿を願うという惰性から脱却しなければならない。老人と同居していた昭和の頃であれば、ようやく爺さん婆さんが死んでくれて肩の荷が降りたという実感もあったと思うのだが、いまは同居しないで親孝行だから、ボケて半分死んでいる状態が長く続くことを望んでいるのである。死を自覚できなくなるまで延命させないと、あたかもこちらが死に追いやったかのうような罪悪感があるらしい。親と別居しているからこその発想だと思う。死を宿命として受容する発想を失っているので、70歳で死んだら大悲劇ということになる。肉体が老いて、意識がはっきりした状態で死を迎えるのが惨めで怖いというのはわからなくはないが、完全にボケてから死にたいという弱さと決別しないと社会の負担が大きすぎる。「頭がしっかりしているうちに死にたい」という高齢者が日本にはいないので、困ったことである。
一年半も仄暗い獄舎に繋がれながら心も自粛しており、本来なら人間など死に絶えているはずだが、意外とひとびとが恬淡として生きているのは、人付き合いのストレスが減っているのが大きいであろう。快楽がもがれているだけでなく、苦痛も削がれている。俗縁を絶たれ、物事の強弱への感性を失った不具者として涅槃めいた世界に横臥している。不登校になればいじめがなくなるのと同じ種類の安らかさであるから、この仮死状態のままでいいわけではあるまいし、また他人と刺々しくやらなければならないだろうが、永遠にご勘弁願いたいのは飲み会である。というより、そういう世論形成に多くの人々が尽力しているのである。直接的に「飲み会は嫌だ」とは言えないので、何かしら間接的に伝わるように、いわばボトルに手紙を入れて海に流し、対岸に届くことを願うのである。コロナは飲み会を廃止する絶好の機会であるし、ここで引導を渡すというか、干からびた時代遅れの旧習にしてしまおうと腐心しているのである。苦痛を避けて快楽だけ選び取ることはできないし、両極があってこそ生々しい現実の他者性であろうから、都合の悪いものだけ無くすわけにもいかないし、人間社会の業病である飲み会が簡単に消えるとは思えないが、たとえば昭和時代は手に負えなかった暴走族がほとんど消滅した事例もある。暴走族の代わりに新たな愚連隊が登場したわけでもなく、騒がしいのは本当に消えた。昭和の世相と比べたらだいたいマシに見えるので比較しても意味はないが、昭和の遺物として飲み会だけはまだ残っている。このコロナという災厄の前向きな意味として多くの人が飲み会の消滅を期待しているのである。そして間接民主制的な世界において、その意向を、見知らぬ誰かに対して必死に伝えているのである。
福本伸行のカイジでも印象に残る場面があったが、大人は説明しない。理由を言うと反論されるので、何も言わずに粛々と進めたほうがいい。理由を説明すると負けてしまうのである。説明しないことによる不満の蓄積もあろうが、むしろ不満を踏みつけてこそ、抑圧的な権力として機能するので、場合によっては力になる。スガはこの権力を使い慣れており、他人の不満を等閑に付しながら無言で進めていくのだが、あまりにもひとびとを黙殺しすぎたから嫌悪され退陣するのである。そもそも説明する能力自体もないであろうが、説明しないほうが捗るという現実があり、それが故に首相まで上り詰めることができた。コロナによって首相になったのだから、コロナで不運というのは違うが、説明が求められる状況で説明能力がなかった。説明抜きで物事が進んでいくという大人社会のやり方が、今回は破綻したのである。われわれの普段の人間関係においても、理由を言えば納得してもらえるものではなく、むしろ逆であるから、スガは異常でなく、むしろ正常で健常者なのであるが、理由を言わない正常さが、ここにきてひとびとの不満に押しつぶされたのである。横浜市長選挙を始めとする、無言の抗議として現れた。やはり理由を説明すると、相手に反論の機会を与えてしまうので、理由を言わない戦略は多用されるのだが、(特に正常な人ほど多用するのだが)、たまたま正常な人間が敗北する状況だったのである。不満を持った人々が黙っているというのは、所詮は弱者の不平不満なので、これを黙殺してこそ強者たる所以なのだが、選挙制度でその不満が数の力を持って露呈することもあるのだ。だから選挙には行ったほうがよいのである。普段は黙殺されている人こそ選挙に行かなければならない。
おそらく木村花さんの自殺が原因で、いろんな法律が変わりそうである。であるからこそ、これは言っておかなければならない。おそらく本人が生きていたとしても、これは首肯するだろうと思う。女子プロレスというあまり儲かりそうにない興行を維持するために変な番組に出ていたというのが実情であり、つまるところ売名行為である。最初から炎上狙いだったのである。悪名は無名に勝るというか、昔で言えばダンプ松本みたいな立ち位置を狙って、木村花さんは変な番組に出ていたのであり、若手のスターをプロレスの悪役として売り出す手法として本来ならうまく行っていたはずだが、コロナで台無しになってしまった。興行自体がなくなったので、悪役を演じる意味がなくなってしまった。プロレスの会場に動員できればなんでもいいという具合だったはずが、コロナになったので悪役というよりはただの悪人である。活動ができない苦しみ、経済的な不安もかなりあったはずである。興行の苦しさという視点がまったくないのは、支援をしたくないという政治家の故意か、もしくは興行はピンキリであるので、支援が難しいのもある。飲食だって政治家が票を狙って小規模飲食店を焼け太りさせているのであるから、元から儲かっていない興行に補償しても差し支えないはずだが、やはり票には結びつかないのであろう。今でもそうだが、当時であれば政府からの支援などまったく期待できないし、その絶望の背景を踏まえるのが大事である。理由もなく悪口を言われたというストーリーは虚偽であるし、コロナ禍における興行の世界の苦悩として捉えるのが正当である。生きながら苦しんでいる人もいる。自殺したという理由で特別扱いするのは疑問が持たれる。自殺した人よりは、むしろまだ生きていて苦悩している興行の世界を救ったらどうかと思うが、やはりこれはお金がかかるので、ただの名誉の話にしておいたほうが金がかからないのであろう。興行の世界はピンキリなので支援に適さないし、アパレルと同じで、支援しないのが妥当であるとは思うが、飲食は危険だからこそ支援されているのだし、興行だって同じ論理で支援は可能というのもある。狭い空間に多人数を集客して生活している人の煩悶を含めて議論しなければ、全体像は捉えられない。故意に全体像を捉えずに悪口を言われて自殺したという矮小化を図っているのかもしれないが、それがよいとは思えない。
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