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2021.12.15
行ったこともない国を知ったつもり
われわれの世界像は、実体験で隅から隅まで確認して作り上げているのではない。むしろ行ったこともない国を知ったつもりになるのが中心となる。ジェイムズの「プラグマティズム」を再読していたら、卓抜な説明を見つけたので、ここに引用しておきたい。
(なお、岩波文庫の桝田 啓三郎の訳文である)。
まず、よくある問いかけについてジェイムズは言及する。
これは哲学的な問題として、少なからずの人が思いつくわけだ。われわれはいろんな国の名前を知っていて、そのイメージも知っているが、知ったつもりになっているだけではないか、ということである。
ジェイムズはこの問題について次のように説明する。
まさに信用というしかなく、それだけである。
盲信しているというよりは、そうなのだろうと信用するしかないわけだ。
アフリカは暑いとかシベリアが寒いとか、現地まで行ってようやく信じるというのではなく、行かなくてもそうなのだろうと信用して簡略化している。
これがプラグマティズムである。
この本の別の箇所の記述を引用すれば、こんな説明となる。
ジェイムズはプラグマティズムを多元論と称する。
森羅万象をすべて統一的に把握した世界というのはなく、あれこれ断片を足し算した多元的世界である。
(なお、岩波文庫の桝田 啓三郎の訳文である)。
まず、よくある問いかけについてジェイムズは言及する。
行ってみたこともないのに、日本が存在していると、ここにいるわれわれは推定している、われわれの知っているかぎりのことがことごとくその信念に組してなんらの妨げもしないから、つまり、日本の存在がそう推定させるからである。
これは哲学的な問題として、少なからずの人が思いつくわけだ。われわれはいろんな国の名前を知っていて、そのイメージも知っているが、知ったつもりになっているだけではないか、ということである。
ジェイムズはこの問題について次のように説明する。
まことに真理は大部分が一種の信用組織によって生きている。われわれの思想や信念は、それを拒否するものがないかぎり、「通用する」。それはちょうど銀行手形がそれを 拒む人のないかぎり通用するのと同じである。しかしこのことはすべて、どこかへ行けば目の前にじかに験証が見られるという 黙契 の上に成り立っているのであって、もしこの験証がなければ、かかる真理の構築は、なんら現金保有の裏づけをもたない金融組織と同じように、たちまち倒壊してしまう。
まさに信用というしかなく、それだけである。
盲信しているというよりは、そうなのだろうと信用するしかないわけだ。
アフリカは暑いとかシベリアが寒いとか、現地まで行ってようやく信じるというのではなく、行かなくてもそうなのだろうと信用して簡略化している。
これがプラグマティズムである。
この本の別の箇所の記述を引用すれば、こんな説明となる。
プラグマティックな原理に立つとき、われわれは生活に有用な帰結が流れ出てくる仮説ならばいかなる仮説でもこれを排斥することはできない。もろもろの普遍概念も、それが考慮されるべきものである以上は、プラグマティストにとって、特殊な諸感覚と同様に実在的なものでありうるのである。もしそれらの普遍概念がなんの用をもなさないならば、もちろんそれはなんら意味をもたず、また実在性をもってはいない。しかしもしそれがなんらかの有用性をもっているならば、それはその有用なだけの意味をもっているのである。そしてこの意味は、その有用性が人生の他のもろもろの有用さとよく合致する時、真となるであろう。
ジェイムズはプラグマティズムを多元論と称する。
森羅万象をすべて統一的に把握した世界というのはなく、あれこれ断片を足し算した多元的世界である。
2021.12.08
明治維新。武士が不要になっただけ。
明治維新に勝者も敗者もない。武士が不要になっただけである。新政府で要職についた勝者は近代化の立役者ということになっているが、実のところ、会社が倒産したあとに転職に成功した人という具合である。たとえば徳川慶喜が勝者になっていても、似たりよったりだったと思われるし、徳川慶喜が近代化を進めていただけである。西郷隆盛が西南戦争で非業の死を遂げたのも、武士がリストラされたという巨大な現実にお付き合いせざるをえなかったのだし、たまたま彼が武士の没落を鎮魂する象徴になったのであろう。誰のおかげで近代化が進んだというわけではないし、武士は没落するしかなかった。そのリストラの過程で勝敗めいたものがあった、だけのことである。なぜ、そういう当たり前の指摘をする人がほとんどいないのかというと、どのチームが優勝しても同じという身も蓋もない話だからであろう。会社が潰れて新会社になるとして、栄達した人と路頭に迷う人がいるなら、その人生はあまりにも対極であり、優勝した人間が見る風景と最下位の人間が見る風景は真逆である。不良品を廃棄すればいいという話とは違う。たぶんその出来不出来の軋轢が人間ドラマなのであり、それぞれが個別の重大性を生きているのである。「どっちみちどこかのチームが優勝してくれますよ」とか野球選手やサッカー選手が言っていたら、とてつもなく奇妙な話であろう。そりゃあどこかが優勝するのであるが、自分が優勝しなければならないという差し迫ったストーリーを生きているのである。