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2022.01.28
自分史のつまらなさ
なぜか退職後に自分史を書きたい人がいるという。そして、つまらないそうだ。現物を読んだことはないが、おそらく自画自賛だからであろう。そもそも成功者の成功体験でさえたいして面白くない。時代の寵児としてのアイコンだから辛うじて書物として成り立つ。信者のためのグッズとしてご利益があるのだ。現実に成功した人の話は、成功してない人の誇大妄想と大差がないし、実は誰の成功体験もつまらないというのが結論である。凡人の自分史がつまらないのではなく、成功者の自分史も実はつまらない。芸能人の自伝が目の前に並んでいるとして、それを読みたいかというと疑問である。自分史は誰が書いてもあまりおもしろくない。さて、成功体験の自分史がつまらないことの説明はこれで終了した。その一方で、古傷を抉るように生々しく書かれた本なら読んでみたい。失敗だからこそノウハウであり、落とし穴を知っていることは逆に武器になる。これは人生の知恵である。しかし、そういうノウハウはなかなか書物として書かれない。手痛い代償と引き換えに得た教訓をただで教えるのは惜しいのである。多額の印税が入ると決まっているならいいだろうが、たいていは見返りが少ないので書かない。また社会的事件になったことなら公益性があるので書けるが、そうでもないと守秘義務違反の方が強く問われそうである。そして、言うまでもなく、恥ずかしいというのが最大の理由であろう。自分の人生の失敗をそのまま書けるかということである。自らの手痛い教訓は話したくないのである。そこを省かない自分史なら価値がありそうだが、たぶん露骨に省いているからつまらないのだろうと想像している。自分の銅像を建てるようなつもりで自分史を書くなら、誰のものでもつまらない。
2022.01.17
殺人の空想を時たま実行する奴が出てくるだけ
東大で刃物を振り回したという事件。通り魔業界というか、この斯界において象徴的な人物となると有村悠さんが真っ先に思い浮かぶが、いまのところ有村悠さんは通り魔を実行していない。有村悠さんが東大で刃物を振り回す可能性は現実にありえたと思うが、やはり実行に移す確率は高くないわけである。おそらく今後も実行には移さないであろう。どうしても時たま実行に移してしまうひとがいて、最近では岩崎友宏とか青葉真司とか、そういう名前が思い浮かぶ。大阪のクリニックで放火した男もいた。こういうひとたちも通り魔的な犯罪を実行することが確定していたわけではなく、ノイローゼ状態で世の中を恨みながら、殺人の空想をしていたわけである。そしてとうとう空想を実行してしまったのである。あまりこういうひとたちの動機について深く考えても意味はないのである。ノイローゼ野郎は世の中に必ずいるし、人間が100人いたらそのうち一人や二人は必ずいる。この日本列島に通り魔予備軍は100万人いる。だが、ほとんど全員は実行に至らない。不穏な言動で他人と衝突して周りをヒヤヒヤさせてもなかなか最終的な殺人まではいかない。ノイローゼ野郎は実は陳腐でありふれた存在である。世の中に腐るほどいるから、根絶することはできない。ごく稀に爆発して実行するのを制止することはできない。こういう通り魔として、宅間守のような前科者タイプもいれば、加藤智大みたいなガリ勉タイプもいるわけである。どちらかといえば、今回のような受験ノイローゼ的なひとの方が同情されるようである。高い理想を課せられながら生きてきて、徹底して追い詰められるというのは、宅間守のように囚人番号で呼ばれる粗暴な前科者とは違って、誰もが突き当たる壁ということなのだろう。他人から見れば塵芥でも、個人の人生は重大であり、その自我にとっては世界最終大戦であり、一回性の命の終末思想に溺れながら世界没落体験をするのである。端から見て、おまえなんぞ重要人物ではないと言えるとしても、胸に手を当てれば、人生の途次において、有象無象の自分を宇宙の主人公のように考えたりしたことは誰でも思い当たる。有村悠さんも典型的な受験ノイローゼであるし、ギリギリで東大に合格してみたところで田舎のガリ勉の悲しさというか、エリート東大生の前で煩悶し、血腥い瘴気を発しながら悪魔憑きとして彷徨したのである。実質的には東大不合格である。さすがに有村悠さんも42歳になって落ち着いてきており、また発達障害という概念を知ったことで、長患いが軽快したように思える。発達障害に気づくまでは精神分裂病の薬を飲んでいたようだが、有村悠さんはどう考えても精神病ではないし、ただの注意欠陥障害である。フロイトのカウンセリングで症状が悪化したひとはたくさんいるし、あれは説明としてとても間違っていた。発達障害は、原因の根本だから、これを知ることで、多くの人は改善する。注意欠陥であれこれ見落とすことで、メクラとして生きているのだから、円滑に他人と関われたらおかしいのである。これはカウンセリングや精神病の薬で解決はしない。注意欠陥障害により、どれだけ他人とズレているのか自覚するのが本当の治療である。有村悠さんが完治することはないが、そこそこは改善した。このように危機を乗り越えるケースもあるのである。こうやって克服するのも人間である。完全に乗り越えたわけではないであろうし、重度の注意欠陥であるから、他人とズレていることは今後も変わりないが、本当に刃物を持ち出す確率はかなり低下しているのである。自分と世界のどちらが遺体袋に入るかという殺伐さは無くなったように思える。またコロナの入場制限が原因でコミケでは売れなかったようだが、有村悠さんの絵は以前に比べるとずいぶんマシになっている。絵心がないので、輪郭だけで描いた絵はいつまで経っても下手だが、細部まで描き込めば意外と見られる。同人作家なら細々と生活費程度は稼げそうだし、以前の状態と比較すれば、なかなか見事なことである。所詮はエロ同人であるし、社会的に称賛されることはないが、まったく何もしない状態から脱したという点では成長したのである。
2022.01.15
権力は物権ではなく債権
実は人間が威張れる相手はとても限られている。権力というのは多くの場合において、AさんとBさんの関係である。誰に対してでも威張れるような万能性は意外と無い。物権(誰にでも主張できる権利)ではなく債権(特定の相手への権利)なのである。社会的に偉い人だから誰に対しても威張れるということはなく、影響力を及ぼせる範囲は限定されている。圏外から見れば、どれだけ偉くてもただの人であり、頭を下げる必要はまったくない。だが、圏内であれば恐るべきことがたくさん起こる。物権でも債権でも似たりよったりだが、やはり債権とは特定の相手との関係であるから、その密室性ならではの怖さがあり、これが人間そのものなのである。「あの人は遠くから見ている分には面白い」という言い回しがあるように、やはり近くで関わり権力が発生してしまうと、とても厄介な人間というのはいるものだ。都合よく選べるものでもないし、人と関わるからには債権・債務があるので、特定の相手との関係が避けられないのが人間であり、リセットして白紙にできない、もしくは白紙にしても同じことの繰り返しであるから、「こいつさえいなければ」という発想はあまり正しくないが、密室における因果にひとは苦しめられる。密室とはいえ、相手を殺して完全犯罪というわけではないし、そうなれば捜査のメスが入るようになっている。ずいぶん嫌な密室なのである。この密室性によって、この相手だけには威張れるとか、わかりやすく言えば、毒親などが典型的な事例だが、最高権力者になったり最下層民になったり、そういう具合なのである。物権という物差しで見れば少額に過ぎなくても、債権の物差しで見れば巨大な債務であり、天と地という関係になる。この特定の相手との債権・債務がわれわれの狭い世界を作り出しており、それが人間存在なのである。
2022.01.08
昭和の飲食は叩き潰すべき
コロナにおいてあちこちが苦しんでいるのに、なぜ飲食だけ助けようという強い流れがあるのかというと、おそらくスケベ親父が多いのだろう。パトロン気取りなのかもしれないし、それでいて自腹で支援するお金がないから、税金で払わせようとする。最近はそうでもないが、昭和のイメージだと飲食をやるのは社会の底辺である。未だに昭和の亡霊のような個人飲食店が存在しており、事業規模はともかく、事業者の数では多数派である。古めかしい個人飲食店はたいてい家庭環境が悪い。この家庭環境の悪さはガチでもあるし、しかし未だにやっているのは、それなりの狂言でもある。最近では貧乏人でもユニクロやニトリで小綺麗な生活をしている。貧乏だと小汚いのは昭和の話である。ボロボロの飲食店を構え続けるのも、立ち退かずに格安の家賃で借り続けようという弱者の戦略だろう。とはいえ、やはり彼らは元々が底辺なので擬態ではあれど、まったくの虚偽ではない。そういう育ちの悪い気の毒な召使いに接客してもらうわけだ。協力金も最初はこの手のボロボロ個人飲食店にバラマキされた。この疚しさもしくはスケベな感情が協力金バブルとなり、いずれ大増税となって襲いかかってくるのだから、恐懼の念に耐えない。少なくともわたしは御主人様になる気はないから、パトロン気取りのべらんめえ親父には呆れている。助けたければ自腹で助けてやれと思うし、バーの女給の生い立ちに同情しながら飲む酒がそんなに美味いか、という話である。千円札を握りしめてスナックのママに齧りついているスケベ親父は親分気取りであっても出せる金などないから、飲食への同情というキャンペーンを張るわけである。飲食店の悲鳴という記事タイトルにはうんざりである。これをいい機会に昭和の遺物を叩き潰さなければならない。家庭環境の悪い人に接待してもらう慈悲深い御主人様になるのは御免こうむる。さて、飲食を好む理由として、他人にプライベートの時間を割いてもらう手段だからというのがある。共通の趣味でもあればそれをやればいいが、なにもない相手と場を伴にしたいとなると、会食が手っ取り早い。本当に必要な打ち合わせなら飲み食いするわけがないので、このよくわからない飲み食いを伴う漠たる打ち合わせが果たして必要なのかというと判然としないし、なければないで済むというのはコロナになってから痛感した人も多いであろう。政治的な連中に自分の時間が奪い取られる損失はとてつもなく大きい。どこにでも派閥はあるものだが、あまりにも昭和的でバカバカしい。飲食につきものの奢り奢られるという関係も、客が御主人様で店員が召使いという構造と関係している。接待でぐるぐる回る政治空間である。こういう昭和的なものは完全に潰して、新しい時代に向かわなければならない。