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研ぎ澄まされた孤独感を持つのがとてもむずかしい。コロナがサナトリウム文学を生み出しそうにないのは当たり前で、そもそもコロナに感染してない人の方が多いし、感染しても軽症であるので、闘病生活がない。肺炎で集中治療室に入ったとしても、やはりこの程度の病気で文学は書けない。風邪を引いて死にそうだった、という作文では生きることの痛みや切実さを欠いている。戦いようがない敵、この長患いは生ぬるく、なぜか体がかゆくて寝苦しい不愉快さである。本来なら孤独というのは、もっと鋭利なものであるはずだ。自力で解答に辿り着こうという気高いものである。コロナにおいてひとびとは緩慢な孤独に陥っており、この泥濘をSNSで紛らわせたり、もしくは人付き合いが減って楽だと安堵して自宅でくつろいでいる。人と会わなくていいから助かるというのは、ずいぶん薄い孤独であり、自ら選び取った孤独ではない。孤独とは、ただの独りよがりであるにしても自ら道を切り開こうとする姿勢である。青春時代に特有の錯覚として、自ら独自に発見したものは、人類初のものであると考えてしまうことがあるが、そういう愚かしさがあるにしても、独自の解答に辿り着こうとする孤高の姿勢は人間にとって大事なものである。いわゆる車輪の再発明というか、前人未到どころか、とっくの昔にたくさんの人が辿り着いていたことだらけだが、やはり自らの決断で歩を進め、自力で解答にたどり着く孤独に価値がある。自分だけの服を誂えるのはコストが高いし、万人向けの服を着たほうがよいが、人生は誰にも相談できず自分で抱え込むしかないこともある。多くの人が通った道でも自分にとっては初めてのことである。すでに他人が描いた地図があるとしても、自分の足で歩いて外気に触れ、生傷を疼かせて、腐臭を嗅ぎながら死屍累々たる穢土をマッピングするべきなのである。コロナ禍の現在においては、感染対策として他人と距離を取っているだけなので、無価値な孤独であり、苦界であることに疑いはないにしても、決して独自の道を模索しているわけではなく、判で押したような通俗的なしんどさだけがある。全員が同じ囚人服を着ているようなものである。この茫漠たる孤独は、ただの苦痛であり、そこから見渡す風景はただの虚無である。
伊藤博文といえば、偉人ではあるが、さほど崇敬されているわけでもない。女好きを公言して実践していたので美化しづらいのも理由のひとつだが、秀才エピソードがないところも大きい。まったく神童ではない。だが、伊藤博文くらいに勉強が好きな人間はそう滅多にいないように思える。大人になってからかなり勉強している。後半生の勉学は経歴に反映されないので、どうしても前半だけ机にかじりついて箔をつける格好になりやすい。脳の若さの問題もある。50歳になってから医学部に入るような人もいるが、中途半端な医者になるだけだし、前半に勉強が偏るのは仕方がないところもある。勉強は人生の前半に集中的にやるのがいろんな意味でいいわけだ。人生の後半に勉強しても箔が付かないので、無為の後半生を過ごす暇人が多々いる。出遅れたレースを後から頑張ってもどうせ負けは負け、だから何もやらない、という人がいる。そもそも世の中のエリートのひとたちでさえ、実は人生の前半しか勉強してなかったりする。人生の前半で輝かしいキャリアをスタートさせて後半はエスカレーターという具合なので、前半だけ頑張るわけである。難しい資格を持っている人でも、合格した瞬間からまったく勉強してない人はたくさんいる。人生の後半になってから勉強しないのは、出来損ないだけでなくエリートの特徴でもある。どうせ負けだから寝ているだけの落伍者がいるかと思えば、すでに優勝が確定したから後半は適当にやるという成功者もいる。人生の後半は色んな意味で勉強しないのである。伊藤博文はそうではなく、大人になってから本当に勉強している。英会話が達者であることや、大日本帝国憲法の制定について自力でやろうとしたのも、体当たりで自ら学び取ろうという姿勢の強さである。伊藤博文は政治家であるが、会社の社長でも同じ話かもしれない。大企業の社長でも、弁護士や税理士の資格を持っている人は稀である。現実社会に実践的に取り組みながらの勉強である。伊藤博文がいくら憲法について学んだところで、素人は素人であるし、学識としてはたかが知れているだろうが、伊藤博文という素人が憲法学者から学んで身につけるプロセスも、日本の近代化にとって必要だったのである。世の中の動きはそうなっている。弁護士や税理士が先頭に立っているのではなく、会社社長は彼らに教えられつつ経営している。医者より患者のほうが病気に詳しいという具合で、病と戦うのである。そもそも人生の前半にすごい勉強している人は、現実の大人社会に直面する前から司法試験に受かったり、税金を払う前から税理士になったりしているので、これはこれでなにか人種が異なるのかもしれない。
大阪のクリニックの放火事件(谷本盛雄容疑者)にしても、埼玉県ふじみ野市の立てこもり事件(渡辺宏容疑者)にしても、普通なら感謝するべき相手を恨んでいるわけである。いい人が溺れている人に近づきすぎてしがみつかれた、と評することができる。どうせ猟銃で他人を射殺するなら悪党を狙えばいいと思うが、そうはいかないようである。われわれは悪党については恐怖もあるであろうし、諦めもある。悪党に期待しても仕方がないというのもある。相手がいい人だと過剰な期待をして「しがみつく」わけである。そして裏切られたと騒ぐ。ここが人間の困ったところである。恨みを実行されると社会的強者が困るので、それだけは徹底して封じているという側面もあるだろうし、われわれは自己判断ではなく刑法と相談して生きているのだが、そうなると、上司から嫌がらせを受けたから射殺するのは法的に損だからやらないという結論になり、そして、とても極めて不思議なことに、世話を焼いてくれた人を殺すのはあり得るのだ。悪人を殺して刑務所に入るとなると、つまり相討ちで心中ということだが、「こんな相手と心中しても仕方ない」という計算は働く。そういう計算になるように法律が作られている。相討ちに値するかということなのだ。であるから、むしろ相手がいい人だと、相討ちの相手としてふさわしいということになり、心中の相手として選ばれてしまう。大阪のクリニックの医師も、埼玉県ふじみ野市の医師も、ずいぶん献身的な人物像であるが、愛情深い人間だからこそ出来損ないにしがみつかれたという人類の業病、もしくは法律の構造の問題である。仮にデスノートみたいなものがあって、生涯にひとりだけ他人を殺せるとなれば選ぶ相手は異なると思うが、やはり相討ちとなると、どうしても溺れている人間がしがみつくという格好になる。
仕事は不快で遊びは快楽というのが通俗的な常識だが、コロナになってから実は遊びの方が苦痛で面倒という側面に気づいた人が多いに違いない。外遊びは人付き合いが面倒でもある。物事を必要/不必要に切り分けて、不必要な部分を断舎離すればなんとかなるのがコロナの世界であり、他人と遊ぶことはできないが、巣鴨プリズンで戦犯として書物を読み耽るような、苦界でありつつも、自分なりに愉しめる側面もあった。オミクロンのストレスがこれまでのコロナと別質に思えるのは、仕事を破壊しているからだと思う。必要/不必要のうち、必要な部分にまで侵食してくる。オミクロンは軽症ではあるが感染者が多すぎて、あちこち納期の遅れが発生している。デルタが交通事故だとすれば、オミクロンは交通渋滞である。ストイックに振る舞ったとしてもオミクロンは避けられない。秩序は大義を失った。不穏な事件を起こしているのは無職の連中なので、オミクロンを通り魔事件の多発と結びつけるのは的外れかもしれないが、世界から無菌室が消えたので、深山幽谷の地で隠棲者として暮らすことも叶わないのであり、至るところにオミクロンが入り込んでくる中途半端な危機が、生殺し感を強めている。オミクロンでは脅威が低すぎて自粛生活も楽しくないのである。
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