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2022.03.30
好かれたら困る。好意という原罪。
いわゆる孫引きになってしまうが、スティーブ・シルバーマン「自閉症の世界」(正高信男/入口真夕子訳)を読んでいたら、ハンス・アスペルガーのこのような発言を見かけた。
ちなみにこの本によれば、自閉症の権威であるレオ・カナーは重度の自閉症を診ることが大半で、それに対して、ハンス・アスペルガーは無名であったから軽症の患者を診ることが多かったそうだ。
であるから、ハンス・アスペルガーが自閉という場合、(いわゆる狭義の自閉症ではなく)最近の発達障害者に近い状態と考えて良いのではないかと思う。なんにせよ、孫引きであるから、わたしは元の文章を見ていないし、ここでは漠然と発達障害の話として考えておくことにする。
さて、少女には発達障害の傾向がなく、おばちゃんが発達障害であるというのは、現実でたくさん体験する。落ち着きのない女子小学生はあまり見かけないが、落ち着きのないおばちゃんはうんざりするほどいる。問題なのは、これが本当に障害なのか、ということだ。落ち着きがないのが問題視されるのは、これが自閉的(社交性の欠落)だからであるが、おばちゃんは落ち着きがないことで人との距離を戦略的に縮めているようにも思える。落ち着きがないから障害者だという単純な話ではあるまい。おばちゃんなりの故意の図々しさであり社交術とも言える。ともかく、落ち着きがないおばちゃんというのは現実にとてもたくさんいるのだが、果たしてこれが発達障害なのか、というのはよくよく考える必要がある。あるいは二種類いるのかもしれない。他者との距離を故意に縮めているおばちゃんもいれば、ぼんやりした自閉の世界に入ってしまっているおばちゃんもいるであろう。われわれの頭に浮かぶおばちゃんの多くは故意であろうし、わざとべたべたしてくるのである。発達障害の根幹にあるのは、人を愛するのが迷惑行為という問題である。好意は様々なトラブルを引き起こす。男性ADHDの人でも、いわゆる天然キャラというか、憎めない人懐っこさを武器としていることもあるが、それで好かれるのは少数派であろうし、たいていは嫌がられる。なんとなく思い浮かぶのは有村悠さんである。天然キャラとして愛されることもたまにあるかもしれないが、基本的には「この人に好かれたら怖い」と思われている。おそらく落ち着きが無い人間が障害者扱いされるのは、他人にべたべた接することが多いからであろうし、そのような天然キャラは人畜無害であるように見えて、実は恐ろしい。恋愛感情が憎悪に変わる繰り返しである。男性も女性もストーカーになり得るが、基本的には男性のストーカーの方が危険である。つまり、こういうことだ。うら若き乙女は「恋愛感情を持たれないようにしよう」と気をつけているのである。おばちゃんはそんなことはない。本気で好かれたら困るとか思ってない。おばちゃんは恋愛感情の圏外にいる。だから、好意という原罪とは無縁であり、落ち着きがなく戦略的にべたべたと距離を詰めてくる。本当に制御不能な発達障害(完全なメクラ)とはまた違うのだろう。
私たちは、自閉症と断定できる特徴を持つ少女に出会ったことが一度もない。しかし、自閉症児の母親の中には、行動が明らかに自閉的特徴を表している人もいた。この観察結果の解釈は難しい。たまたま自閉症の少女がいなかったのかもしれないし、女性の自閉的特徴は思春期を迎えた後に顕在化するのかもしれない。
ちなみにこの本によれば、自閉症の権威であるレオ・カナーは重度の自閉症を診ることが大半で、それに対して、ハンス・アスペルガーは無名であったから軽症の患者を診ることが多かったそうだ。
であるから、ハンス・アスペルガーが自閉という場合、(いわゆる狭義の自閉症ではなく)最近の発達障害者に近い状態と考えて良いのではないかと思う。なんにせよ、孫引きであるから、わたしは元の文章を見ていないし、ここでは漠然と発達障害の話として考えておくことにする。
さて、少女には発達障害の傾向がなく、おばちゃんが発達障害であるというのは、現実でたくさん体験する。落ち着きのない女子小学生はあまり見かけないが、落ち着きのないおばちゃんはうんざりするほどいる。問題なのは、これが本当に障害なのか、ということだ。落ち着きがないのが問題視されるのは、これが自閉的(社交性の欠落)だからであるが、おばちゃんは落ち着きがないことで人との距離を戦略的に縮めているようにも思える。落ち着きがないから障害者だという単純な話ではあるまい。おばちゃんなりの故意の図々しさであり社交術とも言える。ともかく、落ち着きがないおばちゃんというのは現実にとてもたくさんいるのだが、果たしてこれが発達障害なのか、というのはよくよく考える必要がある。あるいは二種類いるのかもしれない。他者との距離を故意に縮めているおばちゃんもいれば、ぼんやりした自閉の世界に入ってしまっているおばちゃんもいるであろう。われわれの頭に浮かぶおばちゃんの多くは故意であろうし、わざとべたべたしてくるのである。発達障害の根幹にあるのは、人を愛するのが迷惑行為という問題である。好意は様々なトラブルを引き起こす。男性ADHDの人でも、いわゆる天然キャラというか、憎めない人懐っこさを武器としていることもあるが、それで好かれるのは少数派であろうし、たいていは嫌がられる。なんとなく思い浮かぶのは有村悠さんである。天然キャラとして愛されることもたまにあるかもしれないが、基本的には「この人に好かれたら怖い」と思われている。おそらく落ち着きが無い人間が障害者扱いされるのは、他人にべたべた接することが多いからであろうし、そのような天然キャラは人畜無害であるように見えて、実は恐ろしい。恋愛感情が憎悪に変わる繰り返しである。男性も女性もストーカーになり得るが、基本的には男性のストーカーの方が危険である。つまり、こういうことだ。うら若き乙女は「恋愛感情を持たれないようにしよう」と気をつけているのである。おばちゃんはそんなことはない。本気で好かれたら困るとか思ってない。おばちゃんは恋愛感情の圏外にいる。だから、好意という原罪とは無縁であり、落ち着きがなく戦略的にべたべたと距離を詰めてくる。本当に制御不能な発達障害(完全なメクラ)とはまた違うのだろう。
2022.03.25
練習は自閉的であろうか
練習というのは、なんとなく自閉的なようにも思える。ひたすら鍛錬するのは自閉っぽい。だが、発達障害のお歴々の顔を思い浮かべてみるに、彼らはだいたい練習嫌いである。そして、練習が嫌いなくせして試合には出てくる。なぜ発達障害者は練習嫌いなのかと言うと、まずは時間待ちが苦手だからであろう。筋トレすればすぐに筋肉がつくわけではなく、継続的な練習が必要だから、そこまで待てないのである。カップラーメンにお湯を注いで三分待てば出来上がるとわかっていても発達障害者は待てない。それが練習嫌いの本質である。公式戦なら結果はすぐに出るので発達障害者の好むところである。もちろん、その結果は悪い。こうやっていろいろ考えてみると、練習は自閉的ではないのだが、これはおそらく、誰もがやるような基礎練習と、なにかしら独自の探究のようなものを混同しているのもあるだろう。現実的な基礎練習は、やれば成績の向上は確実だが、そこまでのタイムラグが発達障害者には苦手なのである。むしろ結果などわからずに道なき道を行くというか、杳と知れない未来に向かって、変わり者と言われながら山野を跋渉するほうが、まだ向いているのではないだろうか。なんにせよ、発達障害者という人間のクズは、練習しないのに試合に出てくることが多すぎるので、これは本当に勘弁してもらいたい。待つのが嫌いという人間的欠陥を糞便のように垂れ流しているので、汚臭に塗れるしかない。我が道を行くような修行であれば時間待ちのストレスはなさそうだが、発達障害者が自分なりに物事に打ち込んでいるかというと、ごく一部の人だけである。ほとんどの発達障害者は没頭すべきライフワークをもっていない。たいていは世俗的な好奇心であちこちに首を突っ込んで、他人の眉を顰めさせ、迷惑行為の限りを尽くして、飽きたら別のところで同じことを繰り返すだけである。
2022.03.16
単純労働。体力・器用さ。
社会を維持しているエッセンシャルワーカーの人々は、正規雇用ではなく、非正規・単純労働の側であることが多いであろう。単純労働はシンプルといえばシンプルだが、それなりの体力と器用さを要する。体力・器用さは特技としている人がたくさんいるので(特技でない人は発達障害者であるから)、どうしても、ありふれた能力として低賃金になりやすい。必要不可欠であるからこそ、人間の基本として、たいていの健常者はできるので、低賃金に落ち着くのであろう。さて、単純労働は安くて、管理職の賃金が高い理由は判然としないが、学歴の違いに帰着するのであろう。もし仮に芸能界のギャラの仕組みのようなものがあれば、(つまり大物芸能人のギャラが高いから、若手を起用するという原理で)低学歴の積極的な登用というのもあり得るが、低学歴だから給料を安くできるのかといえば難しいであろうし、どうせ同じ給料を払うのであれば高学歴に越したことはない。外注であれば「うちならもっと安い金額で引き受ける」という競争は資本主義として普通にあるが、正規雇用でそういうことはありそうにない。外注と雇用ではなぜ違うのかといえば、これは資本主義とはまた別の、なにか社会主義的な考えのように思える。労働組合が正社員のものであるから、そうでない人は恩恵を受けられないのもあるだろう。ともかく、体力・器用さが社会機能の根底なのだが、これは稀少性がないので、人間社会の根幹でありながらも特別待遇というわけにはいかない。高度な知的能力は稀少であるが、高学歴の人が増えていることで、人類の知的水準が上がるわけではなさそうだし、なにかしら水増し感もある。