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オンとオフの切り替えという言い回しがあるが、そもそも人間はひとつの人生を生きているので、ひとつのことが延々と頭に張り付いているのが自然である。一回性の人生、それがすべてである。一本道である。並行して何かをやって都合よく枝葉を剪定できたら人生ではない。ひとつのことに囚われる人間的な在り方は心を蝕むので、オンとオフを使い分けようという話になるが、普段はAV女優をやっている人が、休みの日にその宿業をすっかり忘れて快適でいられるのかなんとも言えない。たとえば公務員として地味な仕事をしている人が、休日は趣味に打ち込むような使い分けはできるだろうが、おそらくそれは仕事が無味乾燥だからであろう。悩み深い人生を恣意的にオン・オフするのは難しい。たとえば借金苦の人は365日24時間ノイローゼであるほうが人間として自然である。ノイローゼになったら借金が減るわけではないので、忘れるときは忘れて楽しく過ごすという切り替えもできたほうがいいし、現実に開き直っている人もいるが、どうしても、借金を減らす方法について無間地獄のように延々と考え続けるのである。一時的に気晴らしをする方法もあるだろうが、基本的には、気持ちを切り替えることはできないのが人生である。出たり入ったりできる密室ではなく、出られないから密室なのであり、それが一回性の人生である。苦しくなったら一時的に脱出ということはできない。囚人服を着ながら、どうやって気晴らしをするかということである。牢屋の壁だけ見ていても気が滅入るので、気晴らしする方法を試すのはいいだろうが、やはり気は晴れない。オンとオフを切り替えられるという人は、あまり悩みがないということなのである。オンとオフを問わずに侵入してくるのが悩みであり、「今日は悩もう」とか「今日は悩まない日にしよう」ということはできない。「今日は筋トレをする」とか「今日は筋トレを休む」ということなら選択できるのに、なぜ悩みは選択できないのかこれは不可思議であるが、おそらく悩みは悪魔的な重力として、われわれをいつも蝕んでおり、虫歯が痛いのと似ている。鎖が重いというか、自分の人生からスルリと抜け出すことはできないという死刑宣告である。
天皇制で、なぜ女系は悪くて男系ならよいのか、それを考えると、やはり男の方がいろんな女に子供を作らせやすい現実がある。女がハーレムを作っていろんな男の子供を産むというのは、そう簡単ではない。なにしろ自分が産むのだから、昔だと命懸けである。それに昔だとDNA鑑定もないから、誰の子供かわからない。父親・母親を明確にするという人間存在の大原則を守れないわけだ。おそらく女性の再婚は大昔はおおらかだったはずで、たとえば斉明天皇(皇極天皇)は最初は用明天皇の孫と結婚して子供を産み、そのあとで、舒明天皇と再婚して天智天皇・天武天皇を産んでいる。(天武天皇と結婚して新田部皇子を産んだ五百重娘が、天武天皇死後に藤原不比等と再婚した事例もある)。とはいえ、やはり、女性の場合は、一度にいろんな夫を作るわけにはいかない。離婚・再婚が必要になる。父親・母親の識別は人間存在の根幹だからである。保護者がいなければ人間は生きられないので、父親不明・母親不明では遺棄されてしまう。生身の人間として地球上にいるのだから、人間関係が人間存在であり、俗縁こそが人間である。政略結婚に限らず、市井の庶民であれ、父親・母親というルーツを知ることで、自分自身についての通俗的な存在了解が得られる。得られたつもりになったと言ってもいいだろう。国籍とか両親で自分の立ち位置がわかる、それだけである。無国籍で両親不明となると、自分は誰なのかという実存不安に突き当たる。自分は日本人で親はサラリーマン、そういうことで、なにかわかった気になるのである。精子バンクで生まれた子供は匿名の父親の正体を突き止めたくなるそうだが、つまり、お父さんは誰でお祖父さんは誰という年代記的な自己理解を誰しも求めるのである。究極的には正体不明であるわれわれが地縁・血縁で自己をわかったつもりになるのは通俗的な存在了解と呼ぶしか無いが、ではそれを超えた存在了解があるのかどうか、これは無明の虚無である。
人類に付き物の衣食住の貧困は、安っぽいユニクロやそれなりの食事や、安い住まいで確保されたように見えるが、やはり高い服や、美味しい食事やタワーマンションへの憧れはあろうし、紙屑と塵芥が有象無象として虚空を舞っているからこそ、存在の輪郭を現し格差を識別する位階秩序として高学歴を求め、それが新たな貧困の温床となっている。行き倒れて餓死することはない世の中だが、教育の貧困があるらしい。学びたいという欲は、食欲や性欲のような根源的な欲求ではなく、学歴を渇望する煩悩であるが、「卒業させてもらっている」のが教育の実態である。高卒の人は、だいたい高校を卒業させてもらっている。高校で高校の勉学など全うしておらず、むしろ退学処分が似つかわしいのに卒業させてもらっている。高卒の学力は中学レベルである。さて、それでは大卒の実態は高卒なのか、というと、そういう側面もあるだろう。本当に大学の学問を深く理解するのは難しいはずなので、あくまで学生レベルで表面的に「履修した」というアリバイを単位として与えている。基本的には卒業証書を与えるビジネスなので、それなりに理解した体裁を整えれば箔が付くのである。だから人類の知性はグレードアップしない。現代の科学者がニュートンより優秀であるとは言えない。せいぜい万有引力をわかったつもりになっているだけで、いくら箔をつけても、ニュートンより頭が悪い。それでも理数系であれば、ニュートンが「巨人の肩に乗る」というように、先人の業績に改善を加えていくことはできるので、(個人個人の知性が上がってなくても)科学を積み上げていくことはできる。たいした科学者でなくても、ちょっとした改善策を施して世の中をよくすることができる。人文系は、そういう積み上げができないので、ただひたすら進歩がないことが露呈されてしまう。高学歴化を進めても、卒業証書の枚数が増えるだけで、人類の頭の出来がよくなっていることはない。それなのに、見栄を張ることだけは一人前で教育のコストだけが重くなり、まさにバベルの塔と言うべきであり、その聳え立つ重力が奨学金などの形でひとびとを圧殺している。基礎学力が上がらないのに学歴だけ上がるという奇妙なことになっている。高学歴化によって底辺の底上げがされている、という言い方も出来るのだが、建設作業をしている中卒の親方の方が、ある意味、知性があるとも言えるし、むしろ手に職を付けることは、なんとなくわかったふりをして卒業証書をもらうのとは違って、誤魔化しの利かない本物の力である。何にせよ、結論的に言うと、人間の頭脳そのものが進化しないから、どうやっても限界がある。理数系なら(個人が進歩しなくても)先人の業績を改善することで前に進めるが、人文系は前に進めない。勉強しないよりはした方がいいが「わかったふり」というのは避けられない。世界がディストピアなのではなく、人間がディストピアである。勉強して学歴を上げても本当に知性の次元が上がっているわけではないので、実態は酔生夢死、アリバイ的であるのは避けられない。
コロナの間はマイノリティの尊厳の話で埋め尽くされた。なぜなのだろうかと考えると、マイノリティとは実は個人ではなく集団だからである。少数集団であり、つまり、少数派ではあるが、集団でもあるのだ。「同性愛者である」とか「少数民族である」とか、そういう集団性がコロナになって跋扈したのである。これは他人と会ってないことと深く関係している。沖縄とかアイヌ問題を観念的に強調されると、なるほど、確かにあいつら日本人ではないぞ、という印象が強くなるが、しかし現実的に「沖縄人」とか「アイヌ人」を見分けられるかというと無理である。沖縄人全体を見れば顔が濃いが、顔が濃いから沖縄とも限らない。やはりコロナで対面を避けているからこそ、ひとりひとりの個別性ではなく、なにかしら民族的な傾向(その民族の平均値)で人間を理解しているのだし、やはりステレオタイプである。個人個人がどういう人間かということよりも、沖縄人かアイヌ人か日本人か、という民族性(その民族の平均値)が重視されている。民族の平均値から人間を理解するのは、まったくの間違いではないにしても、かなりザックリとしたものである。われわれがマイノリティ連中に困惑しているのは、マイノリティが実は一人ではなく、何かしら同一性を持った群れであることだ。「わたし」というこの世界におけるたった一人のマイノリティの話ではなく、「アイヌ」とか「沖縄」とか「同性愛者」とか、そういう少数政党の括りなのである。彼らはステレオタイプを嫌っているように見えて、実はそれに依存しており、なにかしら利権があるのかもしれないが、まさに自縄自縛である。このコロナという孤独な世界において、われわれは他人と会えないので、自分自身にも出会えていない。ドイツに行ったことがないのに「ドイツ人はこんな感じ」と捉えるような、そういうステレオタイプに陥っている。コロナで他人に直接会えない代わりに、マイノリティ集団(そのマイノリティ集団の平均値)にお付き合いさせられたのは、あまりにも憂うべきことである。日本人・アイヌ人・沖縄人の区別などつかない、あるいは区別できたとしても、その民族の個性(民族の平均的な傾向)よりは、個人個人のほうが重大である。「自分は沖縄」とか「自分はアイヌ」と強調する人は、そんなにステレオタイプな理解を好んでいるのか、ということだ。「平均的な日本人」というのもあるかと思うが、われわれはそこに埋没しなければならないのか。今こそステレオタイプな人間理解から脱却し、ひとりひとりの在り方が問われるべきである。
なぜ歴史が終わったのかというと、医学の発展で人間が死ななくなったからである。何百年も前だと、個人個人の寿命は予測不能であった。大病すればあっさりと30代や40代で死んでしまう。疫病や飢饉もある。たとえば遣唐使は、三分の一くらいは沈没して死んでいるはずだが、それでも空海は遣唐使の船に当然のごとく乗った。なぜ沈没リスクがあっても船に乗るのかといえば、後生大事に自らの命を守っても、なにか別の理由で死んでしまうのが大きいと思う。自分の命でギャンブルをする合理性があった。あるいは他人があっさりと病死して、世界の局面が大きく変化したりする。病死と事故死にさしたる径庭もなく、命は軽かった。翻って、われわれ俗人がのうのうと暮らしている現代社会は、生命に関するアクシデントがとても少ないので、たとえば50歳なら、あと30年は生きると予想できてしまう。人生80年の保証書が付いて生まれてくるようなものである。お互いに人生80年を保証し合うのだから五人組みたいで息が詰まるし、囚人服を着せられた懲役80年と考えて差し支えあるまいが、権利社会において自縄自縛に陥り高齢化社会という泥土に塗れている現在地である。権利と不良債権は背中合わせで、相互監視が猖獗を極めており、人間平等という美名の元に、夾雑物のような有象無象が命を守り通そうとしているのだ。本当に価値があるのかどうか実感できず鬱屈しながらも、なかなか行き倒れのような餓死も難しいので、人生への不安はあれど、文字通りの死が差し迫ることは少ない。首を絞められても死ねない呪いのようなものだ。人命尊重がゆえの虚しさが世界の根底にあり、死んではいけないから身動きが取れず、抽象的な命の価値だけが高止まりして、間違っても命を使い捨てることなどできないから、われわれは歴史を喪失している。80歳まで生きれば命を使い捨てたことにはならない、という通俗的な人生観がわれわれを蝕んでいる。そう、命を使い捨ててこそ歴史なのであるし、80歳まで生きたら歴史にはならない。切り札を使わないまま80歳になったということなのである。
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