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2022.07.22
他人が詐欺師だからこそ自己判断の価値
世の中は詐欺に満ちている。騙し騙され、が俗世である。人を騙して詐欺罪で捕まることはほとんどないし、捕まるとすれば、たいていは致命的被害であろうから原状回復されることはない。深手を負ったらそれまでであり、ここから人間不信に陥り世の中を憂いて不定愁訴になるのだが、しかし、他人に騙されるからこそ人間の主体性があるとも言える。人生においては、他人の助言を受ける素直さも必要だが、しかし、利害の不一致が多々あるし、なにかしら困難に直面して、迂闊に誰かに相談すると内情を知られて罠にはめられる悲喜劇がある。騙されたり裏切られることがない楽園があるとしたら、なんでもかんでも執事にお膳立てしてもらえるお坊ちゃんのようだし、香しい薔薇園で無償の慈愛に育まれた御曹司も世の中にはいるだろうが、われわれの大半は鼻が曲がるような瘴気に満ちた血腥い邪心に囲まれているので、人生を他人任せにはできない。恵まれた環境なら、よい助言をしてくれる善男善女に囲まれているかもしれないが、そうでない場合は、育ちの悪い連中を相手に虚々実々の渡世をするしかない。名だたる権力者でもいつ裏切られるかわからない孤独はある。側近が寝返って裸城という繰り返しである。他人に任せず自分で考えた結果としてかなりの悪手を指してしまうこともあるが、他人が掘った落とし穴に落ちるよりは、自ら薄氷を踏むようにして歩を進めたほうがよい。「ひとの言うことを聞かない」と言われることもあるが、他人の助言には邪心があるので、頑固に自分でやるしかないこともある。それによって愚かなわれわれがますます愚かになったりするのだが、致し方あるまい。人間は素直であることも大事だが、この殺伐とした末法の戦場において、親切な人に善導してもらえることはないので、他人の手を払い除け、怪物と戦うには怪物であるしかないというべきか、悪魔憑きとして愚かな独断を繰り返し、血痰を吐きながら地獄草紙に悪鬼を描き足していくのである。
2022.07.12
「真面目にやれば報われる」という危険思想
安倍晋三を殺害した犯人もそうだが、真面目な人間は腐りやすい。真面目にやれば報われるという信念で生きているから、報われなかったときの怒りがとても強く、その攻撃が他者に向かったり、そうでなければ、不貞腐れるだけの真面目系クズになるわけだ。いや、安倍晋三の犯人についてはさすがに背景が極端なので、典型的な事例とは言い難いが、真面目人間の怨みの強さというのはよくある。真面目な人はよだれを垂らしながらご褒美を待っている。ご褒美がなければ怨みを持つ。おそらく性格の評価として「真面目」と言われる人と「温厚」と言われる人の違いである。温厚とされる人は気が長く、ごく自然に真面目だったりする。真面目と言われる人は、フロイト神経症の患者のようで、人参のために走っているようなところがある。なにかしら見返りを求めて頑張っている人は、人生がうまくいかないと、虚空に手を伸ばし続ける壊れた機械のようになり、それが反復強迫になる。「真面目にやれば報われる」というのは、決まり文句になっているので、われわれはよく考えずに他人に対して励ましの言葉として投げかけてしまうが、決まり文句で思考が短絡化するのはよくない。報われるために真面目にやる、というのはやや動機が不純であるし、見返りを求めない真面目な人のほうが価値は高い。というか、すでに述べたように、あまり見返りを求めない人は温厚な性格と言われる。まったく温厚と言われず、真面目だと頻繁に言われてしまう人は、気性が激しいと思われているのであろうし、我慢して頑張っているというか、抑圧されているというか、そういう張り詰めた具合なので、糸が切れてしまえば箍が外れて自暴自棄になりやすいところもある。温厚だと言われない真面目人間は危険人物だと言っても差し支えない。たまたまご褒美が出てくればいいが、そうならなければ腐るか暴れるか、ろくな人間ではない。
2022.07.08
大物と刺し違える
人殺しくらいに簡単なものはない。証拠を残さずに他人を消すのは難しいが、明々白々たる証拠を残し、刑務所に入ったり死刑になってもいいなら簡単である。つまるところ、刺し違えるつもりなら、簡単なのである。われわれは滅多にこれを実行しないし、上司にパワハラされた人が上司を殺害することはまずない。程度が低い人間と刺し違えても仕方がない。であるから、命と引き換えに誰かを討ち取るとなれば大物を選ぶ。首相、もしくは首相経験者などは格好の標的である。安倍晋三が殺害された背景は定かではないが、やはり大物だからであろうし、たとえば二階俊博のように小者感が強い相手では意味がない。結局は無理心中なので、それなりの格が必要である。そもそも人を殺す動機自体はわれわれの人生に鈴なりのように立ち並んでいるが、それが実行されることはない。むしろ追い詰められた側が自死するのが大半である。赤木俊夫さんもそうだった。刺し違えることに正当な権利があるわけではないし、殺人者として歴史に汚名が残るのだから、ダークヒーローたらんとする狂人しか実行しない。不思議なことに赤木俊夫さんが安倍晋三を殺害することはないのだし、殺人とはそういうものではない。世間の重力に囚われたわれわれの臥所で憎悪は棚晒しにされ、決して快癒することはなく、俗塵で肺は蝕まれ、ただの疵痕として疼痛が反芻される。殺人という例外的な解決手段は空想として消費されるのみである。殺す殺されるという選択は稀であるし、人間は消えるか消えないかである。少なくとも今回の安倍晋三の射殺は「消された」のとは違うし、いわば勝ち逃げに成功した隠居老人の立場だったのだが、よくわからない英雄主義の犠牲になった。殺害される理由は誰でもたくさんあるが、本当に殺害されることはなく、仮に殺害されるとしたら、なにかしら奇妙な理由なのである。安倍晋三についていえば、言論の自由を制限したがる人物であり、たとえばNHKという時代遅れの団体は政治家からの圧力に怯えているからずいぶん安倍晋三に屈した。また、これは安倍晋三と関係がないが、昨今は侮辱罪が実刑になったりして、ネットでの書き込みで憂さ晴らしすることも禁じられている。低能先生がhagexを刺殺した事件もなんとなく思い起こされる。鬱屈した感情をネットで吐き出すのが制限されると、これはこれで、言葉の刃物ではなく、現実の刃物に転じることもある。ネットで暴れる人間を規制する社会風潮が果たしてよいのかどうかはわからない。ネットで暴れるだけ暴れてその上で冨田真由さんを滅多刺しにした岩崎友宏のような事例もあるので、ネットで吐き出せばそれで済むとは限らないし、歴史を振り返り世界を見渡せば、まだまだ現在の日本は言論の自由がある方だが、なぜかそんなことをつらつらと思った次第である。
2022.07.07
わざわざ言う
普段は思っていても言わないわけである。それがSNSとなれば、わざわざ書いてしまう。これによって証拠を押さえられ、監視されるのである。コロナによって対人接触を減らしたからSNSの比重が増えているのは言うまでもない。現実より価値が低いはずのものが、現実と同等の重みを持ってしまっている。たとえばゲイは気持ち悪いと多くの人が思っているが、「ゲイは気持ち悪い」と現実社会で口にする機会はあまりない。あったとしても、その証拠は残らない。これがSNSとなると、証拠が残り、そして衆人環視の中で侮辱をしたということになる。SNSに書き込んだ瞬間はほとんど見られていなくても、いわば破門状が回されたかのように伝染し、あちこちで正義の怒りが火柱を上げる。口は災いの元というが、今やSNSは災いの元である。心で思っていても、口には出さないという現実社会の在り方がネットでも求められている。これは何かしら監視社会のようにも思えるが、現実でわざわざ口に出さないのであるから、ネットでもわざわざ書かない節度が求められるという意見もあるだろう。どちらかというと、われわれが現実社会で口に出さないのは、言葉で説明しなくても状況を察しているわけであり、必ずしも徳操が高いからではない。言わなくてもわかるから言わないのである。あるいはマナーとしてわざわざ言わないということについて、たとえば顔に瘤のある人と対面したら、瘤など見えてないかのように振る舞うわけだ。それがひとつの尊重の仕方なのである。わざわざ「顔に瘤がある」などと口に出して言うのは侮辱である。なぜ沈黙が人間を尊重しているのかというと、おそらく瘤があることなど気にせず、ごく普通の人間として扱うという立ち位置なのであろうし、相手の顔には関心を持たないのが親切ということだろう。相手の顔の瘤に無関心であるのが人間の節度ということなのである。さて、「顔に瘤がある」というのはさすがにわたしでも言わないが、しかしゲイは気味が悪いというのは書くしか無い。成人男性のゲイがカップルになるのはいいとして、どうしてもそれ以外が性欲の対象になりうるからである。とはいえ、これについても、わざわざ言うのはリスクがあるわけで、正義中毒の人から狙われたり、口は災いの元というのはあり得るが、これは顔の瘤とは違う問題である。
2022.07.02
日大問題
数学ができる人とできない人ということであれば、別の生物というくらいの差があるが、文系人間である限り、インテリは体育会系より一応はマシという程度である。そして日大は偏差値が低いので、この問題がなおさら顕著になる。勉強だけして日大にしか入れないとなると、知能指数100未満であろうし、ただの運動音痴である。勉強も運動も両方できないわけだ。これだと体育会系には負けてしまう。日大の一般学生だと、高校の教科書を理解できてないレベルであろうし、基礎学力の低さは察しである。この手の輩がよく自己弁護に使うコミュ力についても、体育会系の方が長けている。体力は体育会系の方がある。筋肉を使うのも、それはそれで、人間は肉体で生きているのだから、その使い方を考えるのは、ひとつの知的探究である。もちろん筋肉ありきだから、加齢でそれが衰えれば説得力がなくなるが、一応は運動を通じて学ぶこともあるだろう。なんにせよ、日大の一般学生だと知性そのものが低い。だから、知性と筋肉の対立問題ではなく、それよりレベルが低い勝負である。偏差値の低い大学で体育会系が幅を利かせるのはそういう理由であろう。では、一流大学ならエリートはそんなにすごい知的能力を持っているのか、あるいは、知能指数が高ければそんなに格が違うのか、というと、それはそれで怪しいところであるし、財務官僚が天下りするとして、そういうお爺さんが使い物になるのかというと、あの日大の元力士と大差がないかもしれない。老人に名誉職を与えなければならない、という難題でもある。あの元力士の理事長は75歳であるが、高齢化社会における老人の扱いの難しさでもある。ともかく総括すると、日大の偏差値の低さゆえに起こりやすい体育会系の跋扈なのだが、インテリならすごい素晴らしい人物という結論でもない。人間そのものの腐敗、もしくは最初から腐っているのかもしれないが、だいだい人間こんなもの、ということかもしれない。