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2022.08.28
自慢することがないのでプライバシー
なぜプライバシーに敏感なのかといえば、見栄を張るのが面倒だからである。昭和の頃は今よりひとびとが見栄っ張りだったが、これはやはり隣近所の付き合いが深くてプライバシーがなかったからだと思う。人間と人間が関わるからには、自慢のネタくらいは持ちたい、あるいは、他人にいろいろ聞かれて、冴えない人生について正直に説明して会話が途切れるというのも、お互いに気まずいものであるから、場を寒々しくしないために自慢する材料を用意したいと考えていたのである。こういう自慢やお世辞の世界がとても面倒であるから、自分の人生がネタとして俎上に乗らないようにプライバシーを守ろうとしている。見栄を張るのはコストが掛かるしお世辞も言われたくない、お互いを品定めする品評会にはうんざりだ、服はユニクロでいい、という姿勢だ。水商売が廃れているのも、見栄を張るのが馬鹿らしくなっているからだろうし、香川照之という俳優のスキャンダルを見るに、昨今の夜遊びはなんぞやといえば、高い服を着て、高い腕時計をつけて、高い酒を飲んで、ホステスに告発されることである。悪いことだらけだ。ホステスが著名人を告発するようになったのは宇野宗佑首相からだが、宇野内閣の誕生は平成元年であった。水商売はまさに昭和も昭和、昭和らしい産物であり、コンプライアンスの高まりには耐えられない。見栄を張るのが馬鹿馬鹿しい、ホステスに告発されても馬鹿馬鹿しい、水商売から人々の足が遠のくのは当然であるし、未だに行っている人は昭和の感覚が抜けないというか、お世辞や自慢話が好きな病気なのであろう。
2022.08.23
堕落・貧困・文学
貧困は文学で極めて頻繁に扱われる。貧富の問題ばかり書いていると言ってもいいくらいだ。経営者として資金繰りが苦しいとか、そういうのはあまりなさそうで、おそらく経済小説としてたくさん存在しているが、文学では扱われない。文学で描かれる典型は、放蕩して借金で苦しむ退廃的人間である。遊び人が反復強迫のように借金を繰り返して堕落を極め、破滅して終わるのが文学である。病気や貧困でないと詩人になりづらいし、没落を歌うために没落するというのもあるが、文学と詩は通底していると考えると、普通の人間がギリギリの市民生活を維持しているストーリーではピンとこない。カラマーゾフの兄弟や太宰治が典型となるが、放蕩は自傷行為であり、経済への不安は表層的なもので、自分の人生そのものへの物足りなさが根源である。たとえば氷河期世代の非正規が不安だというとして、それは一応は経済不安であるが、やはり何も成し遂げてない自分の人生の終末に向けた実存的不安なのである。大企業の正社員は何かを成し遂げてるのかというと疑わしいが、成し遂げたつもりになるのは容易い。大企業の名前を主語にできる人と、自分の個人名が主語になってしまう人間では存在証明においてかなり隔たりがある。文学者は真面目系クズというか、読書好きのわりには怠け癖があるタイプが多いし、そのダラダラした無為な在り方を強調して書くなら放蕩となるし、赤貧が描かれるとしても、おそらく貧困問題を扱いたいのではなく、経済的貧しさと人生の貧しさを重ねているのである。
2022.08.12
買い物で自分の世界を拡張する
わたしはずっとギブソン・レスポール(ビンテージではない最近のものなので10万円くらい)を使っていたが、ネックが太くて弾きづらいので、最近アイバニーズのものを買った。これもお値段は10万円くらい。アイバニーズはネックが薄くてかなり弾きやすい。上達したわけではないが、今までよりはマシになった。こうやって新しいものを買うことで人間は自分の世界を拡張していくのである。買い物で世界は広がる。ギブソン・レスポールはとても人気があるが、重いしネックが太いので、所有していても、実際には軽くて薄い別のギターを使う人が多いであろう。わたしとしても、ギブソン・レスポールの音が好きで、ブランドとして所有欲を満たしたいのもあり、これを使っていたのだが、実用性としてなかなか厳しいので、軽くて薄いアイバニーズにしたわけだ。わたしは下手なので、どのギターを使おうが同じであるかもしれないが、大衆消費社会において、われわれはお買い物で自己を拡張するのである。戦後社会はテレビ・冷蔵庫・洗濯機の三種の神器でライフスタイルを変えたが、最近ならスマホとかインターネットになるであろう。今後も新しい製品がライフスタイルを変えていく。おそらく人間自体はまったく進歩しないので、そこは悲しいところである。部屋の灯りがLEDになったことで読書が捗り空海を超える知性を身に着けられるかというと、そういうことはない。便利は便利というそれだけである。だから、たとえばわれわれが22世紀や23世紀の世界を見れないとしても、惜しむ必要はまったくない。未来の道具はすごい便利だろうが、人間そのものは横這いであり、人間の中身は進歩しない。こうやって考えてみると、本当に深刻な問題は、わたしのギターが下手ということではなく、すごい上級者で頂点にいるギタリストでも、ジミ・ヘンドリックスよりうまくないかもしれないし、作曲とかでも、だいたいやり尽くされた感はある。人類として音楽は終わっているという懸念だ。懐古趣味として演奏や作曲をしているだけかもしれない。さすがにレコーディング技術や機材は進歩していて、仕上がりは綺麗になるが、アナログのレコードよりデジタルの音の方が綺麗であるとしても、音楽そのものが進化したわけではあるまい。映像表現でも、最近はデジタル技術があるし解像度も高くなっているので美しいが、まあそれだけのことである。お手紙を手書きで書く代わりに、スマホで送信することで便利になったが、たぶん書いてる内容は進歩していない。技術は先人の業績に付け足しできるので進歩はするのだが、人間自体が同レベルという悲しさはある。人間そのものが向上しないからこそ、道具を発明し拡張していくのだ!とまとめることも可能であるし、人間は本体がしょぼくても拡張性を持った存在である、ということも可能だ。ユーチューバーがお買い物をする動画は再生数も多い。買い物で世界が広がるからであろう。人間そのものが進歩しないので、そうやって拡張するしか無いのである。
2022.08.06
世襲と革命
1868年の明治維新で支配階級が大きく変わった。1945年の敗戦は、日本人がやった革命ではないが、ともかく支配階級が一掃された。それから2022年に至るまで、明治維新とか太平洋戦争の敗北に匹敵する革命的な出来事が起こってないので、社会の上位層は世襲で固定しがちである。山上容疑者は80年くらい革命がない状態で、世襲的な支配階級を討ったとも言える。安倍晋三という一人の人間が暗殺されただけで、あれこれ隠されていたことが白日に晒されている。つまるところ、報道とは、リークを代筆するだけであるし、リークがなければ報道はない。安倍晋三の死亡に伴って、リークしても大丈夫という感じになっているから、それに伴い、それなりに報道はされるであろう。安倍晋三は韓国の大統領と同じ立ち位置まで転落した。死んだので刑務所には放り込めないが、梟首台に乗せられた状態である。世襲でステータスを維持しているのは安倍晋三だけではないし、安倍晋三と関係が薄い世襲議員はノーダメージであるから、明治維新や太平洋戦争の敗北に比べるとささやかなものである。利権が別の人に移動するだけというか、これで社会が激変することはあるまいが、革命の真似事にひとびとが共鳴しているのである。さて、世襲が悪いという前提で書いているが、非正規が非正規を蔑み、年功序列の正社員に憧れ、ひとびとは富貴な生まれを希求しており、裸一貫から成り上がる人生など誰も望んでない。山上容疑者は京都大学に入れる頭脳の持ち主らしいが、高卒だとただの非正規だし、つまるところその程度である。そもそも世襲に対抗する武器は偏差値であったはずで、安倍晋三や小泉進次郎など偏差値が低い世襲議員はたくさんいるし、三流大学卒の世襲議員など枚挙にいとまがないが、AOの影響もあって最近は違うかもしれないし、家庭環境と偏差値は比例するという考え方が強まっている。家庭環境がよければ、実力が身につきやすく、身につかなくてもコネやAOがある。家庭環境が悪ければ出口がないという発想が社会的に共有されているから、山上容疑者が英雄になっている。山上容疑者は恵まれた家庭環境に憧れているのだから、安倍晋三を撃ったのはただの妬みであり、価値観の相違ではない。このおかしな矛盾に気づかないほど、われわれは恵まれた家庭環境に恋焦がれており、世襲を否定しているように見えて、やはり上流階級に憧れているので、自縄自縛ともいえるが、その呪縛を抱えたまま暴発した山上容疑者が支持されるのは、奴隷が貴族に憧れるシステムにわれわれが浸りきっているのであろうし、扉が開いたというよりは、鉄条網が張り巡らされた世界の再確認にも思える。劣悪な環境に埋もれて非本来的に生きている現実に不満を持ち、その失った本来性を儚んで、本当は京都大学に入れた、家庭環境がうんたらと愚痴を垂れ流す病が猖獗を極めているから、そういう通俗的な茨の冠をかぶるひとたちが、山上容疑者を見て他人事ではないと共鳴してしまう。つまり、宗教被害者でなくても、家庭環境への不満という部分で気脈が通じているのだ。