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今までわたしはエレキギターの弦が生きている・死んでいるという問題について無頓着であったが、ここ最近はとても気になる。なぜ気になるようになったかというと、わりと長いことギブソンレスポールを使っていて、ご承知の通り超人気のギターなのだが、ネックが太いし重いし、本当に使っている人が意外と少ないから、使用者が多いアイバニーズを買ってみたのである。ちなみにわたしが使っていたギブソンレスポールはビンテージではないから、10万円くらいである。アイバニーズの新しいギターも10万円くらい。そして実際に弾いてみると、やはりアイバニーズのほうが格段に弾きやすい。いろんな人がギブソンレスポールに憧れて所持しながら実際には使ってない理由が腑に落ちた。そして、アイバニーズはジャンボフレットなので、これも演奏しやすい要因。ジャンボフレットとは文字通りジャンボなフレットである。特別に巨大というのではなく、実際はじっくり見てわかる程度の違いである。低いフレットは1ミリで、ジャンボだと1.4ミリとか、その世界である。知らなければ気づかないくらいの差だが、フレットが微妙に大きいと、軽く触るだけで音が出る。(ちなみにギブソンはフェンダーよりはフレットが大きめであるらしい。わたしはフェンダーのギターは処分してしまったので、手元で比べることができない)。ともかくアイバニーズであれば、弦をしっかり押さえる必要がなく、軽くなぞるような具合。押弦している手応えがないので、ムズムズして気味が悪いところもあるが、弾きやすいのは間違いない。そして、今までギターの弦が生きているとか死んでいるとか気にしてなかったが、アイバニーズにしてからとても気になる。しっかり押弦しているのではなく、軽くフィンガリングする感じであるから、弦の弾力性に頼っており、死んだ弦、つまり伸び切ったゴムのような弦では跳ね返りが弱くて居心地がよくない。弦が弾んでくれたほうがフィンガリングしやすいのである。生きている弦と死んでいる弦の音色の違いは個性とも言えるが、やはり軽めにフィンガリングするとなると、明確な優劣がある。こういうのも人間的な都合であり、ギターの弦そのものに生死はあるまい。人間から見た上での生死である。人間都合だからこそ生きている死んでいるという表現になるのだろう。若い女は美しくて老婆は醜いとか、それと同じである。人間の快・不快に基づいた価値判断である。
われわれは消費する主体としては、誰もが一人前であり、美女や美酒を豪邸で楽しむことは(楽しむ能力としては)誰もが可能である。たとえば西武の源田に成り変わって乃木坂の妻を持つのも、そういう体験をする能力は(楽しむ能力としては)一人前である。また、人間には位置エネルギーがあり、西武の源田を見てまったく嫉妬しないとなると「すっぱい葡萄」とか言われそうである。むしろ羨ましいと思うのが義務であり、その位置エネルギーを感じなくてはならない。源田のチームメイトの妻の問題も、なんというか、羨ましいと思う義務もあるだろうし、妻と妻のカーストというか、人間と人間がひしめき合う世界の難しさである。つまり西武の源田と接したとして、そこら辺のおっさんと同じように扱うのも難しい。人間はあまり個別性を持っておらず、「他人に成り変わる」という欲望をもっており、それはそれで(欲望とか夢としては)可能であり、今回の件は西武ライオンズのチームメイトであるからまさに「他人に成り変わる」欲望が発動しやすかったと言える。われわれの人生でもこういうくだらないことがあるのである。ともかく、嫉妬がよくないと言われると同時に、羨ましいと思う義務とか位置エネルギーを感じる義務というのがあり、そこに無頓着ではまずいのである。本当に他人に「成り変わる」ことができるのかはなんとも言えないし、たとえば源田にしかわからない守備の感覚とか、個人個人その人だけが到達している境地もあるはずだが、どうしても通俗的には、寝ているときに夢の中で野球選手になったりするようなもので、(貧乏人が金持ちの生活をするのが可能という意味では)誰もがなりうる立ち位置である。何と言っても、プロ野球選手で妻が乃木坂という人をまったく羨ましいと思わないのも失礼という根源的問題があるから困った話である。やはり羨ましいと思うのは社交辞令として義務なので、嫉妬はよくないという単純な話ではあるまい。
われわれは目標を見失って生きている。いや、目標がある人もいるだろうし、もしくは、目標がなくてもごく自然体で努力している人もいるだろうが、そうもいかない場合は、何らかの形で自らを鞭打つ必要があり、そのために自己啓発という奇妙な市場が生まれる。なにかしら啓示を受けて一時的にでも気分が高揚すれば、それでいいという場合もあるだろう。たとえば読書の意義について啓発した本を読むことで、読書量が増えることもあるだろう。おそらく読書が習慣づいていれば、啓発されなくてもごく自然に読んでいるだろうし、モチベーションが高まってようやく本を開くのでは遅いのだが、人間は重力の魔に囚われて生きているので、絶望という病臥から身体を起こすために気分の高揚が必要であることもある。自己啓発本を読んでいる段階でそいつは駄目だと思うのだが、無気力で寝ているよりはマシであろう。蜃気楼のような目標が見えているだけで人間は前進できる。目標は現在の自分を礎にして成り立つから、現在に帰属しているのだが、未来は不確定なので、未来に帰属していると考えることも可能だ。一念発起して、今から難しい資格の勉強を始めるとか、おそらく無理だとは思うのだが、何もしない状態と比較すれば、蜃気楼のような未来を追いかけるほうがマシではある。つまり、現在の自分から積み重ねていく目標を生きている人と、啓発されて突発的に未来が開けたように高揚している人ではずいぶん違いがあるが、虚無から逃れられるのであれば、それに越したことはない。老化現象で鬱になっている人が「肉体は若返る」とか、そういう本を読んでその気になってトレーニングでもすれば、少しは健康的であろう。肉体は若返らないという現実に押し潰されているよりは、嘘を信じて努力したほうがマシである。とはいえ、ひとびとが未来を悲観して鬱屈して生きているのは、躁状態への警戒があるのかもしれないし、明るい未来を物語って浮かれることへの懸念があるのかもしれない。自己啓発を専業にしている人が宗教めいているのは、気分を高揚させることが生業だからであろうし、笛を吹いて踊らせるというか、踊らせれてセミナーまで参加するようになったら終わり、というより、そこが問題なのであろう。パチンコで大当たりすれば高揚感が得られるが、トータルでは大損である。それであれば未来を悲観して寝ていた方が安全というのもあり、困ったところである。
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