Archive
2022.10.18

実母は姉

われわれは年齢に従って生きており、20歳なら20歳らしく、60歳なら60歳らしくとなるのだが、実際はただ漠然と年を食っていくだけである。外見が変わるだけで中身は変わらない。せいぜい耄碌するくらいである。とはいえ、世の中のロールプレイとして、60歳と40歳と20歳が同じというわけにもいかない。ある程度は年齢相応にするわけだ。しかし、家族となると、長期間に渡り一緒にいるからロールプレイが破綻する。われわれは赤の他人の中高年女性に対して人懐っこくお母さんお母さんと言ったりするが、そういう関係のほうが母性はある。やはり実母・実子の関係だと、母親は姉に近い。母親と娘が一卵性親子と言われることがあるが、これは母親が姉だからである。父親が40歳で母親が35歳で、子どもが10歳だとして、一見したところ、二人の大人とひとりの子どもがいるかのようだが、母親が実は子どもの枠であることが多々ある。40歳の父親の下に、35歳と10歳の姉妹がいるわけである。実母と実の息子でも似たようなものであろう。結局のところ、歳を重ねれば人間は立派になるという大嘘が見破られてしまう。家族は一緒にいる時間が長いので、演技はできない。一期一会で煙のように蒸発するのではなく、いつまでも眼前に屹立し生々しく爛れて腐乱する。そもそも赤の他人が敵で、血縁者が味方というわけでもない。血縁者とは意外と利害が一致しない。歴史の本でも、赤の他人をぶっ殺す話よりは、血縁者の内輪揉めの方に紙幅が割かれる。実際のところ、赤の他人が相手だと通りすがりの正義の味方のように無償の愛を発揮しやすい。われわれには慈悲の心があり、たとえば捨て猫を見れば保護してあげたいと思い、それが楽しいのである。もちろん言うまでもなく、その捨て猫を死ぬまで保護するとなるとできないから断念するわけである。われわれは愛や正義に満ち溢れた人間であるが、継続して面倒を見るとなるとそれはできない。溺れている人を助けたいという願望と、しがみつかれたら困るという恐怖で生きている。飛び降り自殺を図る人を止めることは大喜びでやるけれども、自殺を思いとどまらせてそこからどうするか、となると絶対に関わりたくないわけだ。つまるところ、母性というのはシンボル的なもので、一応それはあるのだが、年単位で(というか十年単位で)実子の面倒を見るとなると、まさに面倒で仕方がないという本音が出てくる。一日だけなら理想的な母親を演じることもできるし、むしろ楽しいだろうが、何十年も続けるのは難しい。理想的な父親についても然りである。父性も母性もペルソナの問題であり、さすがに十年単位で演じるのは無理がある。
LGBT関連だが、国際カミングアウトデーというのがあるそうだ。これに乗っかって花王が次のようなツイートをしたとされる。「実は…#ノンシリコーン シャンプーなんですよ。#国際カミングアウトデーということで、みなさんが知らなそうなことをカミングアウトしてみました」。これについて花王は速攻で謝罪している。何が悪いのかピンと来ないが、カミングアウトは笑い話ではないということかもしれないし、とりあえず謝罪して反省の演技をしておいた方がいいという判断であろう。初期消火である。早めに消火しないと謎の燃え広がり方をすることがある。さて、花王の件は取るに足らない事例として目についたが、それとは逆にずいぶん悪質なことが謝罪だけで済んでしまうことがある。たとえば2010年の話だが、日清食品が槍ヶ岳でラ王のCM撮影を巡って揉めた問題。これなどは初期はかなり炎上したと思うが、謝罪で簡単に鎮火してしまった。撮影クルーの横暴さは謝罪して許されるものではない、とわたしは思うが、正義中毒者は許してしまった。なんというかこの世の中には、謝罪をせずに居直る人種がいて、正義中毒者はここを執拗にバッシングするようだ。謝罪という御褒美があればそれで満腹になる。池袋の暴走事故の飯塚幸三のような事例だと重大性が違ってしまうので、木下優樹菜がタピオカ屋に暴言を吐いた事案を考えてみよう。これは日清食品の槍ヶ岳の事案と同じくらい、というより軽いと言っていいが、木下優樹菜は炎上が続いている。謝罪をしなかった人間への執着心はすごいものがある。もちろん傍から見ていて「謝罪しないから馬鹿だな」とは思うのだが、頭を下げない人間への正義中毒は常軌を逸している。だいたい日清食品という法人の広報部が頭を下げても、これでは儀礼的なものでしかないし、そういう仕事だというしかない。はっきり言えば反省の演技である。池袋の飯塚幸三にしても(重大性は違うが)本人が反省の演技をしていれば、一般的な自動車事故の範疇だったかもしれない。何が言いたいかというと、起こした事故への怒りではなく、反省の色がないことへの怒りが蔓延しており、それが正義中毒なのである。だから、反省の演技をすると、それだけで正義中毒の炎は鎮火してしまう。池袋の暴走事故の加害者が仮に腰の低い老人で、世間にご迷惑をお掛けしたと、ひたすら頭を下げていたら、事故の重大性にも関わらず、これほどまでに大きな「社会問題」にはならなかったはずである。つまり、木下優樹菜にせよ、飯塚幸三にせよ、反省の色がない本人のキャラクター性が「社会問題」なのである。
核戦争で人類が絶滅する可能性はゼロではないはずだが、不思議なことに誰も恐れていない。おそらく終末思想として消費されていたのであろうし、なんか歴史が終わってしまったので、漠然としたリスクの問題でしかない。核戦争は現実に起こりうるので、ネッシーとか雪男とかUFOとか宇宙人とは違うと思うのだが、何かしら似通った文脈ではあった。昨今では核戦争は交通事故や飛行機事故のようなリスクと同じイメージである。発生しうる悲劇への不安に苛まれても、その悲劇の可能性が消滅するわけではないし,悩んでもストレスでしかないから鈍感力で麻痺しながら対応しているわけだ。ともかく一昔前まで核戦争はオカルトとして考えられており、核戦争で救世主が降臨し、何かしら世界の謎が解き明かされるみたいなファンタジーであった。人類が絶滅して終わりというのではなく、千年王国が始まるみたいな思想である。昨今だとそういうファンタジーがないから、ウクライナ問題にも鈍感力で対応しており、核戦争になったら「まさか」ということなのである。オカルトが衰退し核戦争と千年王国が切り離されたから、そういう扱いになるのだ。夜にトイレに行くとして、大人が子供に「お化けが出るぞ」と脅すことは今ではないと思うのだが、おそらく一昔前は大人もお化けを半信半疑で信じていた。お化け屋敷にリアリティーがあったのが昭和である。昨今だと、世界のすべての札がオープンになり、未知のものがなく可視化された状態となっている。実際は宇宙の謎などわれわれはまったくわかってないので、オカルト的な幻想が塗りつぶされただけ、ということもできる。三次元空間で起こっていることは科学的に説明が済んでしまった。それより次元の高いミステリーの答えはまったくの空白だが、難解すぎてピンとこないので、不思議に思うことすらできないし、種明かしが終わった世界をわれわれは生きている。
最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

ukdata

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jp■yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング