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2023.02.12
動物に幸福・不幸はあるか
野良犬や野良猫の問題を見ていて思うのだが、そもそも動物に幸/不幸はあるのだろうか。幸/不幸というのは人間的な物語である。不幸のポイントを貯めて、その分だけ幸福を要求できるみたいな、そういうのは人間だけの発想である。動物には当然ながら快楽と苦痛があるわけだが、幸/不幸という自意識ではないはずである。いい人生だったとか、最悪の人生だったとか、そういう自意識はないはず。犬の幸せ、猫の幸せと言われると、われわれはなんとなく人間的な物語で了解してしまうのだが、ネズミや蛇の幸/不幸など気にしてないわけだ。知能云々でいうなら、猿やチンパンジーでもいいが、猿やチンパンジーだって「幸福な人生だった」とか「俺は不幸だ」という自意識はないはずである。ネズミや蛇はともかく、猿の人生とかチンパンジーの人生くらいは、もう少し心配してあげたらどうか、ということである。われわれが猿やチンパンジーの人生の心配をしないのは、やはり彼らは完全な野生で、福祉の対象外と考えているからであり、それに対して、犬猫は福祉の対象内なのである。犬猫は本人に自意識がないのに、幸福追求権があるらしい。なんにせよ、実のところ人間本位であり、犬の人生、猫の人生という物語(フィクション)を作り、愛情を注いで幸福を作り上げるゲームなのである。生きていて、快楽や苦痛の凸凹がたまたまあるのではなく、債権・債務のような意識があるのは人間だけだと思うが、その権利意識の傘に犬猫を入れているわけである。おそらく、恩の売り買いが可能な相手と考えている。「猫は3日で恩を忘れる」なんて揶揄されるが、さすがに人間の騙し騙されとは違うし、裏切らない存在であるわけだ。人を愛して裏切られるとか、あるいは愛されれば嬉しいとは限らず、ストーカーに追い回されて地獄ということもある。人間と人間の愛情は厄介である。犬猫が愛玩動物であるのは、愛情の貸し借りが確実な桃源郷だからであろう。もし犬猫に幸/不幸の権利意識があったら「別の飼い主がいい」と乗り換えることもありそうだが、そういう権利概念もないので、人間都合の物語に組み込める。
2023.02.04
飛沫を飛ばすのが人間
スシロー問題の正義感の暴走は万古の憂いである。大騒ぎするよりは意に介さず店に行ってあげたほうがよほど助かると思うが、刑罰感情の強いひとにとっては格好のネタなのだろう。そもそもこの3年間われわれがコロナで苦しんだことからおわかりの通り、人間は飛沫を飛ばす存在である。世界は鼻水と唾液に満ち溢れている。マスクをしていても止められないし、ノーガードで飲み食いするとなればなおさらである。飛沫の交換こそが人間社会であり、無菌室にすることはできない。回転寿司でなくても、飲食店の店内は飛沫で溢れている。みなさんが食べている料理には他人の飛沫が降り注いでいる。スシロー問題は飛沫恐怖症のヒステリーと言ってもよいが、つまるところ強迫神経症である。強迫神経症とは、万が一のことを非常に強く心配するものであり、決して完全な妄想ではない。自動車を平気で運転できるのも、交通事故の可能性を黙殺しているからである。外出できるのも、自宅に泥棒が入ったり火事になったりする可能性を忘れているからである。「自宅が火事になったらどうしよう」と身震いして動けないのであれば外出ができない。自宅が火事になることは現実にありえるので、決して妄想ではないのだが、そういう可能性は忘れなければならない。スシロー問題にしても、ひとびとがヒステリーを起こしているのは、他人がツバをつけるイタズラではなく、ごく自然に降り注ぐ飛沫への恐怖が根底にある。この3年で他人の飛沫がとても怖くなっている。そろそろ元の世界に戻すために飛沫に慣れましょうということだが、3年間の恐怖がフラッシュバックすることもあるだろう。他人が細菌兵器に見えてしまう。それを具現化したのが岐阜県の高校生なのだろうが、人類が誕生してからずっと飛沫を交換してきた、そして飛沫を止められないから3年間コロナで苦労した、それにどうやって折り合いをつけるか、なのである。