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2023.03.27
分類するのは人間だけか
分類するのは人間だけか、と考えてみたい。おそらくそうではない。たとえば猫がカラスを見てどう思うか。カラスはカラスであり、一羽一羽のカラスを個別に切り離して認識しているとは思えない。カラスはすべてカラスなのである。つまりカラスという概念を猫は持っているはずで、新しいカラスが登場するたびに未知の存在とは考えていないはず。だから、分類するのは人間だけではない。分類するのはさほど知的な能力ではなく、かなりざっくりと、カラスならカラス、犬なら犬、ということだと思う。むしろひとつひとつを見分けるほうが高等な能力なのではないか、という気がする。一羽一羽のカラスを見分けるほうがむしろ難しく、カラスはカラスと分類してまとめるほうが容易い。この世の中、だいたいのものが類的存在である。オンリーワンのものが世の中にはほとんどない。生物でなくても、雲は雲、雨は雨、水は水である。太陽や地球にしても、宇宙には同じような星が無数にある。人間が作り出す道具にしても、自動車は自動車、時計は時計、鉛筆は鉛筆、という、類的なものである。つまり、いろいろなものを見た上で、その共通点を抽出し、「これは鉛筆だ」と閃いて分類しているのではなく、あくまで鉛筆は鉛筆なのである。実際のところ、カラスについてどれだけわれわれが知っているのかというと、疑わしいのである。かなりざっくりとしたイメージであり、細部については知らない。一羽一羽の見分けはついていない。であるから「分類」とは果たしてなんだろうか、ということでもある。つまり、細部まで認識しているのではなく、むしろ、まったく細部はわからない状態で、「あれはカラス」と括っているわけである。
2023.03.08
物理世界
寝ているときに見る夢の世界では何でもありである。日本からフランスにいきなり移動することもある。現実の物理世界でこれはありえないわけである。然るべき物理的手段を用いて移動しなければならない。そしてそれは計算可能であり、数学や物理が重宝されるのも、それが理由であろう。寝ているときの夢では、物理法則が絶対ではない(それどころか物理法則を頻繁に無視する)世界を体験しているので、物理法則がなくても人間は成り立ちそうな気がしないでもない。なんにせよ、目が覚めているときは物理法則に縛られている。ゼノンの詭弁でアキレスと亀というのがある。「アキレスがいる場所」と「亀がいる場所」を別の土俵のように考えると、亀がいる場所にアキレスが到達したときに、亀はそこにいないという詭弁が生じてしまう。アキレスが亀に追いつけるのは3次元空間という同じ土俵にいるからであるし、時間に従って移動しているからである。現実世界において、われわれは物理法則に従い、他人と同じ土俵に乗っており、この土俵で戦うしかないのである。時間は容赦がない。どれだけ詭弁を弄しても時間は差し迫ってくるし、タイムリミットはある。われわれは物理世界をとても自明なものとして考えており、物質の実在を信じているが、もしかすると物質は実在していないかもしれない。「物自体」はわれわれが考えているような素朴な物質ではないかもしれない。とはいえ、まやかしを見破れば雲散霧消するようなものではなく、やはり空間と時間は絶対的である。物質に匂いも味もないはずで、手触りも脳が作り出しているものであろうし、重い・軽いとか熱い・冷たいなんてのも、脳の感覚でしかない。物質は熱くも冷たくもないはずだ。しかしやはり熱くて火傷するとか、寒くて凍死するとか、それ自体はやはり絶対的なのである。寝ているときの夢であれば、火だるまになって大火傷してもかまわないが、現実だと、それが物理的にわれわれの肉体の皮膚を蹂躙するのであり、それを背負って生きる、もしくは死んだりするわけである。