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2023.06.26
家族愛と報復感情は同じか?
そもそも世の中に家族愛が本当にあるのか、という疑問がある。たとえば日本での離婚率は35%である。本当に離婚する人だけで35%なのだから、離婚を考えて踏みとどまっている人も加えたら、不仲な夫婦の方が多いと言ってもよい。仲が悪い家族というのは普通なのである。それにも関わらず、家族が殺されたとなれば、復讐の鬼になるし、そもそも大衆が黙ってはいない。「うちの家族がこんな目にあったら」と狂い出す。仲が悪いはずなのに不思議だな、ということだし、賠償金目当てというのもあるだろうが、愛と復讐は別腹なのである。愛とは違って、復讐のエネルギーは強い。賠償を求めるのは、一万円札がたくさん欲しいというのもあるが、なにかしら傷ついた自尊心の回復でもある。この激憤は愛情とは別腹なのだが、大多数の人は混同しており、「こんなに愛していた」と錯覚したりもする。愛情は弱く憎しみは強いのが人間である。外敵に攻撃されなければ団結できないような家庭ばかりだし、家庭内が愛で溢れていたというよりは憎しみで溢れていたことも多々あるだろう。もしかすると犯罪者は仮想敵として大事なのかもしれない。縄張りを侵害するのが犯罪なのであるし、権利侵害に対する激怒である。愛情は枯渇しているが、憎しみはマグマのように湧き出すのが人間である。殺された被害者を美化するのも、遺族の都合が強いにせよ、生々しく生存している人間はまがまがしく、死んでいると理想的な家族愛という幻想を託しやすいのがある。現在目の前で生きている人間を愛せるのか、という問題でもあろう。
2023.06.24
木村花さんへの誹謗中傷は、愉快犯による捏造もあったらしい
6月22日、読売新聞の記事。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20230622-OYT1T50090/
この裁判で争われている木村花さんへの誹謗中傷は、死亡後に愉快犯が捏造したものである、らしい。
木村響子さんを踊らせることを目的として捏造したのか、それともまとめニュースで盛り上げるために捏造したのか、あるいは、この無実の人を加害者に仕立て上げるために捏造したのか、そこは不明である。
ともかく、捏造されたスクショを見て怒り心頭に達し、それで裁判を起こしてしまったようである。
もちろん本物の中傷もあっただろうし、それについての裁判がどうなっているのかは知らない。
既存アカウントの名前を使って捏造するのも、それはそれで愉快犯に法的リスクが生じうるから、まさかそんなヤツがいるとは思わなかったが、有名人の発言を捏造して貼り付けたりしている輩は普通にいるので、そういう暇潰しに手馴れているのかもしれない。捏造したスクショで憎悪を煽り、いろんな人の人生を愚弄し、混乱に陥れたのだから、まさに悪魔の所業である。捏造したスクショがひとつだけとは思えないし、むしろこの愉快犯は暇を持て余してたくさん作成したであろう。読売新聞の記事によれば「花さん息してるー? ってもう遅いかWWW」というような捏造スクショについて提訴していたそうだが、こういう遺族感情を逆撫でする捏造スクショを濫造し、木村響子さんの視界に入れていたとすれば、暇人の恐ろしさに背筋が寒くなるし、そしてネットの情報を見て正義に駆られたとしても、念を押して捏造を疑う理性が必要であると思う。
さて、以前にも書いたが、木村花さんはコロナでなければ自殺はしていない。コロナの三年間、いろんな人が精神的に追い詰められ、誰もが知る有名人だけでも10人は自殺したし、上島竜兵みたいな人も自ら命を絶った。多くの無名人も死を選んだ。人間としての活動が制約されるのは、それだけ辛いことである。木村花さんもプロレスの興業が中止になり辛かったから死んだのである。もし仮にコロナがなければ、ヒールとして悪目立ちすることでプロレス会場の集客もできたと思うので、自殺するはずがないのである。木村響子さんが弁護士に入れ知恵されて戦うのはいいことではなく、「誹謗中傷で死んだ」と強調するあまり、コロナ禍で活動できなかった木村花さんの苦しみが伝わってこない。どうしても弁護士の指揮下に入ってしまうと、発言もコントロールされるし、名誉毀損の裁判で勝つのが目的になってしまう。零細企業であれ、大企業であれ、社長が弁護士に経営判断を委ねる機会はあまりないだろう。自分の判断の舵取りは自分でしなければならない。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20230622-OYT1T50090/
テレビ番組に出演していた女子プロレスラー木村花さんがSNSで中傷されて自殺した問題を巡り、母親が中傷の投稿をされたとして損害賠償を求めた訴訟で、証拠とした投稿が第三者による捏造(ねつぞう)とみられることがわかった。投稿内容の捏造は技術的に容易とされる一方、それを偽物と見抜くのは難しい。ネット上には真偽不明のものが出回っており、対策が求められる。
(中略)
母親は21年8月、ツイッターへの投稿で花さんが中傷されたとして、大阪府内の女性ら一家4人を相手取り、約300万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。訴訟はその後、大阪地裁に移された。
(中略)
これに対し、母親側は、母親と代理人弁護士が協議の上、訴えを取り下げて弁護士費用を負担する意向も示したが、条件が折り合わなかった。女性側は今年1月、捏造された画像に基づいて不当に提訴されたとして、母親側に880万円の損害賠償を求めて反訴し、訴訟は続いている。
この裁判で争われている木村花さんへの誹謗中傷は、死亡後に愉快犯が捏造したものである、らしい。
木村響子さんを踊らせることを目的として捏造したのか、それともまとめニュースで盛り上げるために捏造したのか、あるいは、この無実の人を加害者に仕立て上げるために捏造したのか、そこは不明である。
ともかく、捏造されたスクショを見て怒り心頭に達し、それで裁判を起こしてしまったようである。
もちろん本物の中傷もあっただろうし、それについての裁判がどうなっているのかは知らない。
既存アカウントの名前を使って捏造するのも、それはそれで愉快犯に法的リスクが生じうるから、まさかそんなヤツがいるとは思わなかったが、有名人の発言を捏造して貼り付けたりしている輩は普通にいるので、そういう暇潰しに手馴れているのかもしれない。捏造したスクショで憎悪を煽り、いろんな人の人生を愚弄し、混乱に陥れたのだから、まさに悪魔の所業である。捏造したスクショがひとつだけとは思えないし、むしろこの愉快犯は暇を持て余してたくさん作成したであろう。読売新聞の記事によれば「花さん息してるー? ってもう遅いかWWW」というような捏造スクショについて提訴していたそうだが、こういう遺族感情を逆撫でする捏造スクショを濫造し、木村響子さんの視界に入れていたとすれば、暇人の恐ろしさに背筋が寒くなるし、そしてネットの情報を見て正義に駆られたとしても、念を押して捏造を疑う理性が必要であると思う。
さて、以前にも書いたが、木村花さんはコロナでなければ自殺はしていない。コロナの三年間、いろんな人が精神的に追い詰められ、誰もが知る有名人だけでも10人は自殺したし、上島竜兵みたいな人も自ら命を絶った。多くの無名人も死を選んだ。人間としての活動が制約されるのは、それだけ辛いことである。木村花さんもプロレスの興業が中止になり辛かったから死んだのである。もし仮にコロナがなければ、ヒールとして悪目立ちすることでプロレス会場の集客もできたと思うので、自殺するはずがないのである。木村響子さんが弁護士に入れ知恵されて戦うのはいいことではなく、「誹謗中傷で死んだ」と強調するあまり、コロナ禍で活動できなかった木村花さんの苦しみが伝わってこない。どうしても弁護士の指揮下に入ってしまうと、発言もコントロールされるし、名誉毀損の裁判で勝つのが目的になってしまう。零細企業であれ、大企業であれ、社長が弁護士に経営判断を委ねる機会はあまりないだろう。自分の判断の舵取りは自分でしなければならない。
2023.06.12
権力者が死ぬまで待つ
生き残る人間というのは九死に一生を得る悪運の強さもあるだろうから、必然的な結果として説明することはできないが、それでも、それなりの理由はありそうである。19世紀後半の清王朝において、なぜ西太后が長期に渡り権力を握ったかと考えると、いわゆる現状維持バイアスというか、あの当時のリーダーになど誰もなりたくないし、羨ましくないというのが大きかったであろう。西太后は現代では悪女として嫌われているようだが、同時代人からは意外と憎まれてないはずである。西太后に劣等感が刺激されることもないし、憎めない存在だったのである。気位が高いとしても臆病なタイプではないから、頼りがいもあった。光緒帝が西太后に反逆しないのも不思議であるが、西太后のパワハラに悩まされながらも、彼女の図太さに頼っていた側面はある。康有為に唆された戊戌の変法などもあったが、西太后を排除すればどうなるわけでもなかった。西太后は当時としては72歳とかなり長生きしているが、周囲はなんとなく死ぬのを待っていたのもあるだろう。1908年に西太后が死んで(その前日に光緒帝は毒殺され)、愛新覚羅溥儀が皇帝になったらあっという間に清王朝は終わってしまったが、もし西太后が80歳まで生きていたらどうだったかわからない。西太后が咸豊帝の後宮に入ったのは太平天国の乱(1851-1864)の最中、1853年であるが、1856年に同治帝を出産し、1861年に同治帝が即位してから権力を握り始めることになる。やはりこの時期の中国でトップに立つのはかなりのストレスである。やはりまったく羨ましくないのである。日清戦争(1894-1895)とか、義和団事件(1900年)で失脚してないのも、やはり羨ましくないからであろう。いわゆる老害的な人物が権力を維持してしまうのは、排除することで薔薇色になるわけでもなし、泥舟から逃げられないひとびとが模様眺めをしてしまう弱さである。
2023.06.08
「宅間守」と「学校の責任」のすり替え
命日反応のように毎年この重苦しい6月8日がやってくる。反吐が出るほど、学校の責任についての記事が書かれ、宅間守の名前は出てこない。マスコミとは所詮は代筆屋であり、誰かの情報で記事を書くわけだ。池田小事件だと弁護士が情報源なのであろう。世論を動かすことで法的責任が変わってしまう根源的な問題である。そもそも7年後の同日に行われた秋葉原の加藤智大の事件では被害者遺族が出てこないし、つまり、誰かの過失を問えないのであろう。宅間守とか加藤智大を逆さにして振っても一円も出てこないから、なんらかの過失責任を他所に求めるのは弁護士の戦法なのであろうが、なぜ世間がそれにお付き合いしなければならないのか、ということである。この問題について指摘する人がほとんどいないのも、著名な文化人からすれば「学校のせいにした方が安全」という保身もあるだろう。お金があるところを攻めるという論法にお付き合いしているのである。つまるところ、池田小被害者の遺族は「金目当て」なのだが、金目当てに事件に巻き込まれたわけでもないのは、言うまでもない。事後的に「金目当て」になるだけである。果たして遺族は宅間守への怒りはないのか。弁護士の指導の元に、遺族が事後的に金目当てになることについて、われわれはよくよく考えなければならない。最初から金目当てで犯罪に巻き込まれる人はいないが、巻き込まれたからには賠償金を取り立てようとする、それ自体は至極当然だとしても、やはり胡散臭いのである。なぜ宅間守に責任を問わないのか、(お金がない人に責任を問うても仕方がないので弁護士的には当たり前だが)、お金さえ出てくればいいのか、と言いたい。狙いやすいターゲットを狙うというのでは宅間守と変わりがない。
2023.06.01
犬猫の擬人化
犬猫のYouTubeを見ていて気になるのは、犬猫を擬人化して台詞を付けている人が多いことである。死んだ犬猫が虹の橋で飼い主を待っているという幻想も、擬人化から生み出されるものなのであろう。人間と人間が愛を語り合うとなるとなかなかできないが、犬猫だと、理想の恋人と語り合うような夢の世界を簡単に作れる。普通の人間関係だと、憎悪や嫌悪だけでなく、好かれたら困るとか、ストーカーだと誤解されたら困るなどの理由でよそよそしくする必要があったり、なかなか親しくはなれないが、犬猫だとその心配もない。腹話術の人形みたいなものだから、自分の分身なのである。犬猫に言葉が通じているわけがないのに話しかけて、それで言葉が通じていると思い込むのは、犬猫の基本的な役割なのかもしれないが、そうやって自己愛を守ってくれるイエスマンというか、それがゆえに愛護するというのは、自己弁護や自己保身でもある。架空の自分を作り上げているだけだ。とはいえ、腹が減ったとか暑い寒いとか、動物的な状況は共通の理解が可能であろうし、人間はそれに名前をつける能力があるだけとも言える。だからただのぬいぐるみではないし、犬猫は動物としての察しはいろいろと付いているであろう。文明は理解できないであろうし、猫に「車に気をつけろ」と言っても轢き殺されるし、やはりわかってないので、原始人と接しているようなものである。では文明的な人間同士なら言葉が通じるから快適かというと、そうでもない。言葉があるがゆえの苦しみ、もしくは、「あえて言わない」ことは多々ある。理由をきちんと説明してから嫌がらせをする人はあまりいないし、なにかしら恥の観念から、人間は理由を言わずに他人を攻撃したりするが、なぜ嫌がらせを受けているのか、それは嫌がらせを受けている人が自分で考えることになるし、想像力で他人に字幕をつけるしかない。つまり、人間なら言葉で詳細に説明してくれるとは限らないし、あまり立ち入ったことは話していない。相手が人間であれ、犬猫であれ、その心情は想像するしかなく、こちらが字幕を付けている。相手が話していないことについても、たぶんこうなのだろうなと字幕をつけざるを得ないのがわれわれの習慣ではある。だから相手が人間でも犬猫でも同じと言えるが、人間相手だと神経を擦り減らすのに対し、犬猫だと字幕をつけるのが快楽なのであろう。