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2023.08.24
清原の息子に価値なし。親が金持ちなだけ。
慶応大学というのはずいぶん不思議なところであり、「親が金持ち」というオーラがとても強い。極貧家庭に生まれて慶応大学に進学した人ももちろんいるのだろうが、その場合は出自を黙っているのかもしれない。清原の息子にしても、慶応だから野球部でベンチ入りできるのであり、普通の強豪校ならベンチ外である。「親が金持ち」という血縁や門閥を世間に見せつけて、いったい何がやりたいのか、本当に不思議である。これによって人から尊敬されるとは思えないし、いや、尊敬されたくもないだろうが、社会の底辺層から嫉妬ややっかみだけ受ければ満足なのだろう。慶応大学とは、「親が金持ち」ということでふんぞり返る、ずいぶん奇妙な社会集団なのである。ボンボンにはボンボンなりのコンプレックスがあるのかもしれないし、そもそも本当に優秀なら国公立大学に行くと思うので、つまり、親の力で上げ底するために慶応に行くのだろう。よくよく考えると、親が金持ちという家庭環境ならもっと上を目指せそうである。ともかく彼らは威張っており、自分がすごいのではなく親がすごい、ずいぶん倒錯的なブランド大学が出来上がっているものである。これが圧力団体として幅を利かせている光景は見るに堪えない。「親が金持ち」という特技があるからには、慶応が没落することはありえないし、これからも親の力を使って瘴気を漂わせ、大衆に不快感を与え続けるのであろう。
2023.08.18
自宅で死ぬと90歳過ぎても警察が来る
「異状死」平野久美子著(小学館新書)という本を読んで、クレーマー気質に唖然とすると同時に、一応は勉強になった。94歳の母親の死についていつまでも愚痴愚痴できるひとでないと、こういう粘りは出てこない。
まず前半は、読むに値する。
94歳の母親がショートステイ先の施設で誤嚥し死亡して、そこからの警察や葬儀屋とのやり取りである。
かいつまんで言うと、人間が病院以外で死ぬと警察が調べに来る。今回の場合はショートステイの施設だが、もちろん自宅でも同じことだ。94歳でも警察はやってきて家族は事情聴取される。保険金殺人とか、そういうのを念のために疑うわけである。
「かかりつけ医」がいれば、また話は違うのだが、それも簡単な話ではない。普段から元気だと、なおさらそうであろう。
(このケースではかかりつけ医はいたが、死亡がショートステイ先だったので、異状死となったそうだ)。
またこの著者の逆鱗に触れたのは、父親が世田谷区で死んだときは費用負担を求められなかったのに、母親が横浜市で死んだときは費用負担させられたことである。
では具体的にいくらだったのか。
請求書は葬儀屋が持ってくるそうだ。
この他に、雑費があり、そして、嘱託医による検案料が45,000円。
諸々合算して15万円を超えたそうである。
葬儀屋としては「自分が立て替えたので支払ってほしい」ということだ。
なぜ遺族が横浜市に直接支払えないのか、というモヤモヤがでてくる。
当然ながら、警察と葬儀屋の癒着が疑われるが、この本によれば、神奈川県警と葬儀屋の贈収賄の不祥事が2021年に問題となったという。
検索してみたら、その裁判のニュースが出てきた。
https://www.asahi.com/articles/ASQ2J3TQNQ2HULOB00C.html
ちなみにこの本の後半では、なぜかショートステイ先の誤嚥についての責任追及をしており、ここは感心しない。ちなみに裁判に訴えたとか、そういうわけではないと思うが、クレーマー的なのが気になる。前半部の神奈川県警と葬儀屋の問題は現実に贈収賄で捕まっているのだから、非常に社会的な悪であり、そこだけに集中して書いたほうがよかった。後半部については、94歳の誤嚥について愚痴愚痴と施設のせいにされても読んでいて不愉快なだけである。すでに述べたように、贈収賄の事件はこの本でも触れられていて、わたしもそれではじめて神奈川県警と葬儀屋の問題を知ったから、ここを徹底して掘り下げるべきだった。(誤嚥について施設が悪いとどうしても愚痴愚痴書きたかったのだろうが、神奈川県警という巨悪に絞った本にしてほしかった。蛇足の極みである)。
ともかく、神奈川県警は葬儀屋から賄賂をもらっており、ただでさえ不愉快な死後の事情聴取や葬儀屋とのやり取りが、賄賂が絡んだ邪心ゆえに、無神経極まりないものになっているのである。これは神奈川県警の救いがたい問題であろう。
まず前半は、読むに値する。
94歳の母親がショートステイ先の施設で誤嚥し死亡して、そこからの警察や葬儀屋とのやり取りである。
それからちょうど十年後の二〇二〇年。世の中が新型コロナウイルス感染症に身構え始めた三月九日に、母がショートステイ先の施設で誤嚥を起こし、救急搬送先の神奈川県横浜市立市民病院で死亡宣告をされた。九十四歳だった。
父とは息を引き取った場所も状況もまったく違うのだが、母も突然死だったので異状死扱いとなった。まさか両親が二人揃って警察のお世話になるとは……私も妹もとうてい考えつかなかった。
かいつまんで言うと、人間が病院以外で死ぬと警察が調べに来る。今回の場合はショートステイの施設だが、もちろん自宅でも同じことだ。94歳でも警察はやってきて家族は事情聴取される。保険金殺人とか、そういうのを念のために疑うわけである。
「かかりつけ医」がいれば、また話は違うのだが、それも簡単な話ではない。普段から元気だと、なおさらそうであろう。
(このケースではかかりつけ医はいたが、死亡がショートステイ先だったので、異状死となったそうだ)。
またこの著者の逆鱗に触れたのは、父親が世田谷区で死んだときは費用負担を求められなかったのに、母親が横浜市で死んだときは費用負担させられたことである。
「あ、それと明日の件ですけれど、横浜市の場合はすべてご遺族の実費負担なので、よろしくお願いしますね」 刑事さんは帰り際にそう付け加えた。同じ異状死扱いでも東京都内で亡くなった父の時は代金の話など一切出なかったのに、どういうことだろうか。 「何が起きても驚かない」という母との約束は、この場面を迎えるに及んでがらがらと音を立てて崩れた。 ──遺族負担? そんなこと初めて聞きました。東京都は無料でしたけれど。私は十年前に父が都内で亡くなった時のことを懸命に思い出し、かいつまんで説明した。
「すみませんね、東京都と横浜市は制度が違うんです。さきほどお渡ししたパンフレットにも書いてあるように、ご遺族負担なんですよ。ご遺体の搬送費とか検案代とかもろもろの費用は、ご遺体が明日帰ってこられた時点で支払いをお願いします」
では具体的にいくらだったのか。
請求書は葬儀屋が持ってくるそうだ。
搬送施行人件費……二万円
寝台車・病院へのお迎え……一万六三〇〇円
寝台車・検案施設往復……二万三九〇〇円
防水シーツなど……二万円
消費税……八〇二〇円
この他に、雑費があり、そして、嘱託医による検案料が45,000円。
諸々合算して15万円を超えたそうである。
葬儀屋としては「自分が立て替えたので支払ってほしい」ということだ。
なぜ遺族が横浜市に直接支払えないのか、というモヤモヤがでてくる。
当然ながら、警察と葬儀屋の癒着が疑われるが、この本によれば、神奈川県警と葬儀屋の贈収賄の不祥事が2021年に問題となったという。
検索してみたら、その裁判のニュースが出てきた。
https://www.asahi.com/articles/ASQ2J3TQNQ2HULOB00C.html
警察で扱う遺体の搬送を巡る贈収賄事件の公判が15日、横浜地裁であった。受託収賄の罪に問われた神奈川県警大和署元警部補、加藤聖被告(48)は初公判で起訴内容を認め、検察側は懲役2年6カ月を求刑。一方、贈賄の罪に問われた葬儀会社「林間葬祭」の実質的経営者、河合恵子被告(60)と、夫で宮前署元警部補の博貴被告(65)に対して、青沼潔裁判長は懲役1年6カ月、執行猶予3年(求刑懲役1年6カ月)の有罪判決を言い渡した。
起訴状によると、加藤被告は大和署で検視を担当していた2019年3月~20年1月、署で扱う遺体の搬送先として遺族に林間葬祭を優先的に紹介してほしいと河合夫妻から依頼を受け、現金127万円とクオカード計68万5千円分を受け取ったとされる。
加藤被告の公判で検察側は「警察官の職務に対する社会の信頼を失墜させた」と指摘。弁護側は「現金収受は受動的だった」として執行猶予を求めた。
河合夫妻の公判で青沼裁判長は「警察に対する社会の信頼は相当に害された」としたが、2人が罪を認め反省していることなどから執行猶予付き判決とした。
葬儀会社から警察への金券の提供について、加藤被告は被告人質問で「私がいた6署全てであった」と供述。神奈川県内には全54署あり、「全てでやっていると思う」とも述べた。
弁護側から事件の経緯を問われた加藤被告は「博貴さんから『どうしても頼むから助けてくれ』と何度も電話を受けた」「捜査1課でお世話になった先輩なので断れなかった」と述べ、河合夫婦の葬儀会社を使うよう部下に頼むための飲み代として月10万円を博貴被告に求めたという。弁護側は「かねてより葬儀会社から県警にビール券を渡す慣習はあった」と指摘した。
県警監察官室は、葬儀会社によるビール券などの提供の有無について「公判において被告人等が申し立てた事項についてコメントは差し控えますが、現在同種の案件で調査している事項はありません」としている。(土屋香乃子)
ちなみにこの本の後半では、なぜかショートステイ先の誤嚥についての責任追及をしており、ここは感心しない。ちなみに裁判に訴えたとか、そういうわけではないと思うが、クレーマー的なのが気になる。前半部の神奈川県警と葬儀屋の問題は現実に贈収賄で捕まっているのだから、非常に社会的な悪であり、そこだけに集中して書いたほうがよかった。後半部については、94歳の誤嚥について愚痴愚痴と施設のせいにされても読んでいて不愉快なだけである。すでに述べたように、贈収賄の事件はこの本でも触れられていて、わたしもそれではじめて神奈川県警と葬儀屋の問題を知ったから、ここを徹底して掘り下げるべきだった。(誤嚥について施設が悪いとどうしても愚痴愚痴書きたかったのだろうが、神奈川県警という巨悪に絞った本にしてほしかった。蛇足の極みである)。
ともかく、神奈川県警は葬儀屋から賄賂をもらっており、ただでさえ不愉快な死後の事情聴取や葬儀屋とのやり取りが、賄賂が絡んだ邪心ゆえに、無神経極まりないものになっているのである。これは神奈川県警の救いがたい問題であろう。
2023.08.09
保護犬・保護猫。ロンダリング。
人間が犬猫を繁殖させることの罪障の深さは不明だが、褒められたことではあるまい。ペットの繁殖は創造的な行為と言えないし、殖やすのは楽しく簡単である。生命は宿業であるから、産まれた命をどうするのか、というのが問われる。その問いの矛先をどこまで鋭く、そして誰に向けるのか、という話である。レスキューしたという文脈であれば、繁殖という罪から逃れられる風潮もある。保護犬・保護猫はロンダリングである。自分が命を生み出したのではなく、助け出したのだ、ということだ。保護活動というのは、免罪符とかロンダリングという側面が必ずある。犬猫が捨てられてないと困るわけだ。もちろん犬猫を飼ってないなら無縁の話である。飼ってない人には原罪もない。だが、飼っている人は原罪から逃れられない。保護活動をやる人だとどうしても犬猫を飼いたいだろうし、道に落ちてないとなれば、自分で繁殖させたりペットショップで入手するしかない。犬猫が落ちてないなら、(そしてどうしても犬猫を飼うのなら)、手を汚しながら犬猫を繁殖して、模様が悪いとか、障害があるとか、そのような難題にも直面するであろうし、繁殖という罪と共犯関係にならねばならない。現状においては、犬猫は落ちていて、それを拾うだけで簡単に正義になれる。レスキューした保護犬・保護猫を飼っているから繁殖にはノータッチであり、ペットショップとは無縁の正義の人である、という立ち位置が可能なのである。果たして「自分はレスキューしただけだから無罪」という論法はどこまで正しいのか、ということである。捨て猫を保護しました、という人も、かわいい子猫とか、きれいな猫だから保護したのだろう。「三毛猫だから保護したが黒猫なら見捨てていた」とか、それが実態である。命の選別に関わらないためには、飼わないという一言に尽きる。飼っているからには、需要あるところに供給あるというか、繁殖と無縁とは言えない。
2023.08.06
コロナのときの葬儀屋の対応について裁判
2023年8月6日読売新聞。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20230806-OYT1T50114/
2022年8月に85歳女性がコロナ陽性で死亡したという。こうやって、家族が死んだときに、その「悔い」を他罰的に吐き出す人がよくいるわけである。あの病院の治療が悪かった、とか、葬儀屋の対応が不愉快だった、とかそんなことである。だいたい、死んだときに「悔い」しか残らないのはそれまでのこと。おそらく普段から愚痴愚痴した性格なのだろうと思われる。こうやってコロナが明けてから振り返ると、なぜあそこまでピリピリしていたのか、と思うことは可能だが、あくまで当時の状況からすると、過剰な自粛が起こってしまっても仕方あるまい。葬儀屋も大変だっただろうに、この原告は、そちらへの思いやりはないようである。少なくとも、わたしの意見としては、この件について、葬儀屋が負い目を負う必要はない。85歳で死んで悔いしか残らないのでは困る。そもそも高齢者を守るためにコロナという感染症に対して過剰な自粛をしていたわけである。感染して死んでしまったから過剰な自粛は無駄だったという発想だとしたら辟易とする。(つまり生き残った老人からすると、度が過ぎた自粛もよかったという考えもあるだろう)。ただひたすら高齢者が重荷であることを憂うし、人生への後悔を先延ばしにするための延命にお付き合いしていたのもあるだろう。コロナを生き延びた高齢者が、ではこのあとどうなるのか、と考えても、それは未練だらけの人生の先延ばしかもしれない。おそらくこの件は原告側が敗訴すると思うのだが、万が一に勝訴したとしても、愚痴愚痴した他罰的性格は変わるまい。コロナで人が死んだ時、葬儀屋も大変だったろうし、そちらへの思いやりも持ちたいものである。裁判を起こすのも権利と言えば権利だが、裁判を起こされること自体が負担という現実もあり、やはり、原告は他罰的な性格という印象しかない。おそらく普段から他人をなじったりしているのではないか。葬儀屋も災難である。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20230806-OYT1T50114/
新型コロナウイルス感染後に亡くなった女性(当時85歳)が火葬される際、「顔を見せてほしい」と求めたにもかかわらず、検討されずに拒まれたとして、遺族側が火葬した福岡県筑紫野市の筑紫農協に慰謝料など約180万円の損害賠償を求め、福岡地裁に提訴したことがわかった。コロナ感染者の葬儀を巡っては、トラブルが相次いでいるが、葬儀業者側の責任を問う訴訟は珍しい。提訴は3日付。
訴えているのは、女性の夫(81)ら遺族4人。訴状などによると、女性は昨年8月、コロナ陽性が判明した5日後に老衰で死亡。入院先で納体袋に収容された遺体はひつぎに納められ、火葬場に運ばれた。夫は業者に妻の顔を見せてほしいと頼んだが断られ、即日火葬された。
国は当時、指針で飛沫(ひまつ)を出さない遺体からの感染リスクは低いとした上で、顔の部分が透明な納体袋の使用を推奨しており、遺族側は「顔を見ることができる可能性を検討せず、最後の別れという遺族にとって重要な権利を侵害した」と主張。夫は取材に「50年近く連れ添った妻との最後の時間を奪われた」と語った。筑紫農協は「訴状が届いておらず、コメントは控える」としている。
国民生活センターによると、コロナ感染者の葬儀を巡っては「消毒作業などで過剰な対応をされた」といった相談が2020年度以降、約330件寄せられている。
2022年8月に85歳女性がコロナ陽性で死亡したという。こうやって、家族が死んだときに、その「悔い」を他罰的に吐き出す人がよくいるわけである。あの病院の治療が悪かった、とか、葬儀屋の対応が不愉快だった、とかそんなことである。だいたい、死んだときに「悔い」しか残らないのはそれまでのこと。おそらく普段から愚痴愚痴した性格なのだろうと思われる。こうやってコロナが明けてから振り返ると、なぜあそこまでピリピリしていたのか、と思うことは可能だが、あくまで当時の状況からすると、過剰な自粛が起こってしまっても仕方あるまい。葬儀屋も大変だっただろうに、この原告は、そちらへの思いやりはないようである。少なくとも、わたしの意見としては、この件について、葬儀屋が負い目を負う必要はない。85歳で死んで悔いしか残らないのでは困る。そもそも高齢者を守るためにコロナという感染症に対して過剰な自粛をしていたわけである。感染して死んでしまったから過剰な自粛は無駄だったという発想だとしたら辟易とする。(つまり生き残った老人からすると、度が過ぎた自粛もよかったという考えもあるだろう)。ただひたすら高齢者が重荷であることを憂うし、人生への後悔を先延ばしにするための延命にお付き合いしていたのもあるだろう。コロナを生き延びた高齢者が、ではこのあとどうなるのか、と考えても、それは未練だらけの人生の先延ばしかもしれない。おそらくこの件は原告側が敗訴すると思うのだが、万が一に勝訴したとしても、愚痴愚痴した他罰的性格は変わるまい。コロナで人が死んだ時、葬儀屋も大変だったろうし、そちらへの思いやりも持ちたいものである。裁判を起こすのも権利と言えば権利だが、裁判を起こされること自体が負担という現実もあり、やはり、原告は他罰的な性格という印象しかない。おそらく普段から他人をなじったりしているのではないか。葬儀屋も災難である。
2023.08.04
他人にやらせて中間搾取
奴隷というのは使用頻度が高すぎる言葉で、これはこれで問題だが、やはり「他人にやらせる」というのが人間社会の基本なので、そうなってしまうのだろう。「自分でやるよりは他人にやらせた方がいい」というのがあり、「他人にやらせる人」と「こき使われる人」に二極化するので、その後者を言い表すと俗的には奴隷となるのだろう。丸投げが社会的分業の正体。他人に丸投げしてピンハネというのは人類の根源的な問題だ。ちなみに中抜きという言葉もあるが、中抜きという言葉は、以前であれば、「問屋を省いて直接取引する」という意味だった。なぜかピンハネする会社(たとえば電通)という意味で使われるようになった。人間は新しい言葉を使うことで、なにかしら新発見をした気になるのだが、ピンハネという言葉は手垢が付きすぎているのだろう。ピンハネという言葉は中間搾取と言い換えられるが、中間搾取というとマルクス主義みたいで、あまりカッコよくない。ともかくピンハネ(中間搾取)という人類の古来からの奴隷的ビジネスモデルは廃れない。士業などでも、たとえば税理士が自分で税金の計算をすることはないし、できるだけ非正規(税理士を目指している人)にやらせるわけである。税理士の試験は五科目受かればいいそうだが、まだ二科目の人とか、そういう人が税金の計算をする。税理士はクライアントを開拓しているだけである。零細の税理士だと自分で税金を計算していることもあるだろうが、それは不本意なのである。そもそも経理代行的なもの(会計ソフトの入力とか)は誰でもできるわけで、できるだけレベルが低い人にやらせたいわけである。「税理士を目指している人」という税理士未満の存在に仕事を分け与えている、という言い方も可能であるが、安い労働であるから褒められたものではない。さて、最近は人手不足であり、非正規に丸投げするビジネスモデルが成り立たないと言われることもある。「他人にやらせる」立場の人間が増えすぎて、(丸投げされるよりは丸投げする側になろうと)経営者だらけなのかもしれない。若者の人口が減っており、めぼしい若者は正規雇用になるので、非正規の若者が少ないのかもしれない。氷河期世代が加齢で使いづらくなったのかもしれない。コロナが原因で外国人の若者が流入できてないのかもしれないし、しばらくすれば流入してくるのかもしれない。