「あの花」の主人公を見ていたら、人気ブロガーの有村悠について語りたくなった。
日本にとってここ二十年くらい、
かなり大きな社会問題であるはずなのに、まともに手を付けられていない宿題だ。
放置され遺棄されている真っさらなノートに私なりの現状分析、もしくは、その問題解決の難儀さを書く。

有村悠は「新しい落ちこぼれ」だ。
昔の落ちこぼれとは話が違うのだ。
多くの人が見合い結婚をして、保守的に勤労し、マイホームのローンを払い、
高度経済成長社会を生成していた時代の落ちこぼれとは対極なのだ。

有村悠のような新しい落ちこぼれは、
バブル崩壊以降にアノミー状態に陥った日本が生み出した奇形児なのである。
こういう奇形児はこの二十年くらいの日本に百万単位で転がっているが、
誰も語る文法を持たないので、「働け」と見当違いのことが言われるだけである。

なぜ「働け」と言うのが見当違いなのか。
遠い昔の落ちこぼれは、底辺労働に最適だった。
基本的にタフだから、それなりに社会的に「働く」場があるのだ。

翻って有村悠。
まあ彼は月収5万円のフリーライターだから勤労はしているが、世間的には「働け」と言われるポジションである。
彼は新しい落ちこぼれなのだ。
彼に限らず、この二十年くらいに製造された新しい落ちこぼれは、肉体的な劣等者である。
顔が悪い。運動が出来ない。身長が低い。
こういうスペックの人間が新しい落ちこぼれの特徴なのだ。

昔の落ちこぼれはボクサーの辰吉丈一郎のような類型の人間であり、タフである。
「働け」と言われる場合、エリート職が残っているはずもなく、
底辺の労働を暗黙に要求されているわけだが、
昔の落ちこぼれはまさにそれにふさわしいわけだ。
肉体労働にジャストフィットだったんだよ。

再度言うが、「働け」という場合、財務省で働けとか、公認会計士になれとか、そういうことを意味しない。
底辺労働の要求だ。
昔のタフな落ちこぼれにはそれが適職だった。

新しい落ちこぼれは、肉体労働に適さない不登校児のタイプである。
不登校の経験があろうとなかろうと、不登校になりやすい身体スペックの持ち主。
そういうことなのだ。
こういう百万単位の奇形児たちに「働け」と大合唱しても無意味なのである。
かつての落ちこぼれとはまったく様相が違うのだから。

さらに重大な問題を述べなくてはならない。
自由恋愛社会の勃興である。
見合い結婚は社会的だったが、自由恋愛は原始的だ。
そしてマストである。
表に出るなら恋愛をしなければならない。
さもなくば引き籠もれということなのだ。

これ以上の説明が必要だろうか?
たとえば有村悠の身長は163センチで、学歴は東京大学中退だが、
東大に入れる頭脳よりは屈強な肉体を持って馬鹿に生まれた方が、
この現代を謳歌出来たかもしれないのである。

30年前なら有村悠は普通に働いていたと思われる。
勉強だけして東大も卒業していただろう。
恋愛に関する障壁も、昔なら見合い結婚で解決できた。

自由恋愛とは、人間が原始状態に回帰するということだ。
敗戦後の焼け野原から高度経済成長を社会的に行おうという時に自由恋愛などはない。
今は経済的に一段落付いたから、自由に人を愛し、
つまり、
勉強ではなく優れた肉体を、という社会であり、
これではニートという奇形児が生まれるのもやむを得ない。
勉強なら、生まれつきの知的障害でもない限り、そこそこ何とかなる。
しかし素の部分で肉体のスペックを求められるなら、
特に日本人だと、
脱落者が多数出るのはやむを得ないのである。

何にせよ、恋愛やコミュニケーションの脱落者に「働け」というのは、
まったくの見当違いなのである。
彼らがどこで脱落したのかを見なければならない。







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