有村悠さんという人がいます。
東大に入れば中退し、はてなでアイドルになれば退会し、Twitterでフォロワー1万人間近でブロック祭りなど、衝動的な行動の繰り返しです。
彼はたぶん、行動した時はスッキリしている。
せいせいした感じだと思う。
しかし後から悔いて、自分が切り捨てたものの重さを知るのです。
失ったものは戻らない。

有村さんはかなり極端だけど、僕らでも思い当たることがあります。
破壊した方が、短期的にはすっきりする。
だからアホのように破壊してしまう。
長期的に計算したら我慢して保持した方がいいのに、短期的な衝動で破壊するなんて、人生でよくあること。
音楽で人が悔恨の歌を歌うのは、そういう経験で失ったものを感傷的に悼み、弔鐘の鐘を鳴らすことなんです。
「万能の君の幻を僕の中に作ってた」というラブファントム(B'z)なことは多々あって、それにそぐわない現実を滅多斬りにしてしまうアホな行為を時々やってしまう。
僕らは不完全な生き物のクセして理想だけは追い求め、時として愛すべきものを傷つけてしまう。
その痛みを背負いながら生きていくのです。

三島由紀夫の「金閣寺」で、南泉斬猫という公案が出てきます。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%EE%C0%F4%BB%C2%C7%AD
禅宗の公案。無門関第十四則。南泉和尚と呼ばれた唐の時代の名僧の山寺に一匹の子猫が現れ、この猫をペットにしようと争いが起きた。南泉和尚は子猫の首をつかまれて「大衆道ひ得ば即ち救ひ得ん。道ひ得ずんば即ち斬殺せん」と問い、答えがないのを知ると子猫を斬り捨てた。寺に帰ってきた高弟の趙州に南泉和尚がことのあらましを教えたところ、趙州は靴を脱いで、頭上に乗せて外出した。南泉和尚は「趙州があの場にいれば、子猫は助かったのに」と嘆息した。所有欲の無為を諭す教えと思われる。

単純に言うと、喩えようもなく美しい猫がいるとして、その猫に対する姿勢です。
大前提としてその美しさを自分のものにすることが出来ない。
そういう場合、その美しさにどう対処するか、という話なんです。
ある僧は、猫を切り捨てて問題の解決を図る。
ある僧は、靴を頭の上に載せる。
靴を頭の上に載せて耐えるしかない、ということなんです。
手に入らない美しい猫に対する姿勢なんて、それくらいしかないんです。
とはいえ、「金閣寺」の主人公は、猫を殺す方法を選択します。
そして放火を決行して、最後に一服しながら「生きよう」とつぶやく。
そのつぶやきの空虚さは、三島由紀夫の最後の自決の無為さに繋がります。

「金閣寺」はかなり極端に書かれたものだけど、<美>というテーマ性が僕らの人生において重大だから、世界的文学たり得ているんです。
つまりこの文脈の<美>というのは、狭義の美ではなくて、僕らが理想として手に入れたいものの総称と言っていいでしょう。
美少女であることもあれば、お金だったり、学歴でもあり、社会的地位でもあり、まあ何でもいいですよ。
そして理想通りにならないと、本来愛おしむべきものを破壊してしまうこともある。
もちろん現実の人生でそれをやってはいけない。
でもやってしまいがちだ。
だからこそ、「金閣寺」は人類普遍の名作であり、そして主人公の放火も、僕らが犯しがちな罪の象徴なんです。
それはたとえようもなくアホであり、思い出すたびに後悔で悶絶したくなるようなことだけど、それでも「金閣寺」的な行動をわれわれは取ってしまう。
猫の美しさに耐えきれなかった短絡的な行為の結末として、猫の喪失があり、その絶望的な喪失は「金閣寺」の結末以降の話なのです。
アホで最低で最悪の行為をしたから猫は生きてないし、生かしていれば得られた喜びも得られないのです。
何にせよ、時間は巻き戻せないので、失ったものは取り返せない。
だからその悲しみを詠うくらいしかないんです。
若気の至りと呼ぶべきものだけど、理想との格闘は人間の一生を通じて立ち現れます。







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