この話題は本来なら僕が一番大好きなアニメである「コードギアス」のルルーシュと枢木スザクの関係性として語りたいのですが、世間の人はコードギアスなど知らないでしょう。ルルーシュとスザクを対立させて物語を展開させていく巧さを解説しても元の作品が知られてないのでは意味がない。なので、三島由紀夫の「金閣寺」を題材に語ることにします。金閣寺ならコードギアスの10000倍は有名です。なので、登場人物に思想を仮託して対立させるという手法を、金閣寺を通して語りたい。

主人公溝口は大学生活で孤立しつつ、不具者の柏木という青年に声を掛けます。主人公と柏木の関係について話すと極めて長くなるので、かなり割愛します。
柏木が出てくる必然性は明白であり、金閣寺に放火するかどうか、という葛藤を演じる相手です。主人公一人で自分語りして自己解決するやり方だってあり得なくはない。とはいえ、「もう一つの考え」を別の人物に体現させた方が物語は進めやすい。実際、柏木との対話で物語を進行させている部分は緊迫感がある。柏木を使わずに主人公の自分語りで進行させているパートはだるいんです。

さて、では主人公は金閣寺を巡り、柏木とどのように対立するのでしょうか。三島由紀夫はこのテーマに南泉斬猫という公案を用います。ここで南泉斬猫について説明する必要はないと思います。そもそも難解な公案であり、僕にもわかりません。使われる部分は簡単で、とても美しい猫が出てくるんです。金閣寺のヒロインである有為子ちゃんみたいな存在と思って貰えればいいでしょう。ともかくこの極めて美しい猫への対応。その猫を切り捨てた高僧と、それを知って靴を頭の上に載せた高僧。
柏木は靴を頭の上に載せる立場を最終的には取ります。要は美しさに対しては耐えるしかないんです。どんなに猫が可愛くても、有為子ちゃんが可愛くても、その美しさの痛みには耐えるしかない。頭の上に靴を載せるような、そういう心境で耐えるしかないのだ、と柏木は説くのです。
柏木は主人公と対立する立場ですから、当然主人公は猫を殺すという発想を持ちます。要は二択を用意して、二人の登場人物に体現させているわけです。どっちが正しいというわけでもないと思うんです。「金閣寺」だって、燃やさないラストはあり得ると思いますよ。実在の事件を題材にしてるから燃やさないわけにはいかないけど、フィクションの可能性としては二通りのエンディングがあり得た。ちなみに三島由紀夫があのような悲劇的で滑稽な死に方をしたのは、自身の最高傑作の結末に引き摺られてしまったという印象があります。

解決の可能性として第三の道もあり得るでしょう。しかし、二択で絞ってしまう視野狭窄こそが金閣寺の面白さなんです。ここで無難な解決方法を出したら話が成立しない。普通の人なら、適当に妥協して誤魔化しながら生きていくところを、先鋭的な二択にするから世界文学として成立するんです。ちなみに普通の人なら、猫とか有為子ちゃんの美しさの絶対性を否定するところから折り合いを付けるだろうなあ。「猫を殺しても猫の美しさは死なない」と柏木は解説するんだけど、これも思考の罠であって、他に綺麗な猫とか綺麗な女の子はいるでしょ。そういうもんだよ。とはいえ、有為子ちゃんに徹底してこだわって生きるのが物語的には面白いのです。この後の三島由紀夫が天皇制という絶対に代わりのきかない存在に傾倒するのも、こういう発想の延長です。







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