人が肉体を持つというのは、その肉体が存在する座標に固定され、その座標を視点とした世界しか得られないということであり、地球という牢獄の重力により屈服させられ、地を這い回り、そのまさに這い蹲っている泥土から世界を了解させられるということだ。ウクライナの辺境の地で暮らすカチェリーナは、か細い白い指先から金色の綺麗な髪の先まで自分を拘束する世界の因果律から逃れたいと思っていた。素封家の娘として生まれたが、病に臥せっていることが十代半ばまでの人生の大半であり、厳格な両親は彼女を領地の果てに幽閉していた。誰もが羨むであろう透き通る白い肌も貧血質の表れであり、その命のはかなさの象徴でしかなかった。そうやって無機質な天井を見ているだけの日々の中で、どこかにワイアードという理想郷があるらしいと知った。腺病質で偏頭痛持ちの少女でも、ワイアードでは何もかも自由になれるらしい。暖かいボルシチを食べて甘い蜂蜜の入ったクワスを飲んでも幸福にはなれない彼女が、ワイアードに行けば肉体の軛から逃れ、無数のハイパーテキストと戯れる千年王国にたどり着ける。

しかしワイアードにアクセスしてもカチェリーナの世界は変わらなかった。多次元なはずのハイパーテキストのほんの狭い平面にしか触れていない。思いもよらぬ視界の狭さの中で難渋したのだ。健康でさえあれば、聡明な美少女として羨望の眼差しを浴びただろうに、しかし少女はキャミソール姿で暖炉の前に横たわりながらタブレットと戯れ、御菓子のように偏頭痛を抑える薬を囓り、消化試合のような毎日を過ごした。

人間の脳を拡張するのは好奇心に他ならない。好奇心を刺激されて、われわれの頭脳は版図を広げていく。ワイアードにはそのような未知の好奇心を刺激して拡張する仕組みがなかった。自分が存在している座標から手が伸びる範囲でしか情報に接することが出来ない。ワイアードでは自由に飛び回れるはずだったのに、あまりにも可動域が狭い。少女は自らのイマジネーションを超える世界を求めていたのに、ワイアードではイマジネーションの想定内の情報に出会うだけだった。

時間は刻々とリフレッシュされて先に進んでいくが、好奇心によって新しい道が開かれない限り、同じ景色が再描画されるだけである。検索エンジンに毎日同じような単語を入力し、同じようなサイトに辿り着く。カチェリーナはこのような日常性の反復を嫌っていたから、ワイアードの閉塞性に絶望するしかなかった。世界中のハイパーテキストがインデックスされていても、それはとても細かく分断されていて、想像が広がる余地がない。

こうやって脳は壊死していく。もはやあらゆる可能性は切断された。カチェリーナの瞼に重力がのしかかる。こういう狭い視界で、タブレットをタップする指先の癖だけでワイアードを閲覧しているのだ。そのクエリーから展開されるワイアードは、予定調和の空間でしかなく、これは極めて狭い。ワイアードのニューロンと彼女のニューロンがシームレスに繋がるような、そういう世界を夢見ていたのに、少女が手にしたのは、色褪せて擦り切れた現実だけだった。

死を目の前にするとようやく気づくということがある。

「私はワイアードが何でも与えてくれると思って、漠然と画面に向かっていた。これじゃあ何も得られないのは当然だった。現実で行動するために屈強な肉体が必要であるのと同じで、ワイアードでも自ら探索する屈強な頭脳が必要なんだ」

カチェリーナは自らの知性に惑わされていたのである。自分から好奇心を発揮しなければひとつも答えてくれないのがワイアードなのだ。

「ワイアードは、むしろ現実より行動力が必要だったんだ」

そうつぶやいて少女は血痰を吐いた。昏倒し床でうめきながら、自らの人生を恥じて呪ったのであった。







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