寝転がり、冷たい床に顔を付けながら、カチェリーナは自らの細胞が死に絶えていくのを感じた。脳細胞の発火現象によって作られていた彼女の心も、そろそろ死ぬのである。

「天国はないという結論に至ったわけだが、まだわたしはどこかで信じている。そういう甘えを断ち切らなければならない」

天国のヴェルサイユ宮殿でお姫様として暮らすという妄想を抱いたまま死体になるのは納得がいかなかった。生まれてから死ぬまで領地から一歩も出なかったカチェリーナだが、単なる見苦しい死体となり、何ら夢見る余地がないのを証明することが、多少なりとも生きた証になるような気がした。

「仮にわたしが天国に行くとしよう。そこで現世の記憶はリセットされるのだろうか。仮にされるとしたら、それはもはやわたしではないだろう。記憶がリセットされたら、別の人間として組み替えられ、別の自我を持つだろうから、もはや同一性などないよ。記憶がリセットされたら、自分だって消えちゃうんだ。精神とか魂とやらは、記憶の反芻で作られた迷妄である。記憶喪失になった程度で無くなってしまうのが自分というものだ」

それからカチェリーナは、現世の記憶をそのまま引き継いで天国で生きる場合のことを考えてみた。

「ではリセットされないとしよう。現世の記憶を引き継いで天国で生きるとしよう。そしたら天国の住人それぞれが現世での設定を引き摺ったまま、お互いに出会うのか。多文化共生というお笑いぐさをやるのだ。あらゆる時代のあらゆる国々で、まったく相容れない文化性を背負った人間が、天国で一緒に暮らすわけだ。あり得ないよ。現世での価値観をすべて放擲し、共産主義的な楽園を築こうというのか。自らの同一性のために過去の記憶だけは後生大事に持ちながら、その価値観を平気で放棄する、そういう出来の悪いユートピア思想が天国というものらしい」

考えれば考えるほど、記憶だけが存在の根拠だとわかるのである。

「そもそも肉体から解き放たれるとは何なのだろう。世界の設定から解き放たれたら、自分がなくなってしまうではないか。わたしたちは自らの現世での設定を憎みながら、実際はそれしかアイデンティティーの根拠がないのだから泣けてくるよ。たとえばロシアの農奴が、天国で天使になるのを夢見るとしても、農奴の頃の記憶は必須なわけだ。記憶が全消去されて天使になったら別人になるのだから、救われるもくそもない。人間はおそろしいくらいに根無し草なのだ。だから肉体を与えられ、役割を固定する必要があるのだ」







スポンサードリンク

最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

ukdata

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jp■yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング