やたらといろんな人が鬱になる時代である。その一方、神経を病む人がいなくなった。これは病気の捉え方の問題である。20世紀を席巻したフロイト思想は、精神分析の治療効果の低さの露呈や、SSRIなどの薬物治療の進歩により、著しく人気を落とした。またDSMが主流となったことで、神経症という言葉もあまり使われなくなった。かつてはなんでもかんでも神経症と言われていたものが、過度の手洗いや重度の確認癖などの強迫性障害だけに絞られた。メンタルを病んでいる人の多くは鬱と言われるようになったのである。

誰も神経を病まなくなったのは、ひとびとが健康になったからではなく、病気の原因の追及をやめたからである。フロイト思想は、病気の原因の徹底追及だった。なぜ神経症になったのか、と訊問するのが精神分析であり、時には架空の虐待経験などの冤罪も生み出された。「原因」を徹底追及することで完治するとしたフロイトは、明らかに誤りだったと言えるだろう。メンタルがおかしくなった原因を考えれば考えるほど、他者への恨みが募ってくる。特に親がその恨み対象となる。親はこどもに無償の愛を注ぐべきであり、そうでないなら、大罪を犯したことになるからだ。このあたりをほじくり返すのも、治療効果が低い、もしくは悪化させる原因となった。親が不良品だからと言って、取り替えるわけにはいかないから、親を批難するのは家庭を混乱させることでしかないし、だいたい親が人格者であることの方が稀なのだ。フロイト精神分析は、親を糾弾しながらも、親に聖者であることを求めた。親が不完全な人間であることを認められなかったのである。

人間は時間的存在であり、歴史的存在である。刻々と別の人間に生まれ変わるのではなく、同一性を持って持続的に存在し、それぞれの時間が事実として確定し地層として堆積していく。その歴史性を背負っているのが人間存在だ。それを掘り返すのがフロイト精神分析だったが、過去に確定した事実は覆せない。たとえば10年前に屈辱的な体験をしたとして、それを延々と反芻するよりは、放置して忘れた方がよいのだ。「忘れる」というのは記憶の消去ではなく、記憶を反芻しないという向き合い方である。時間を巻き戻して過去を変えることは出来ないので、諦めて損切りした方がいいのだ。

神経症から鬱への時代的変化の背景にあるのは、世の中から呪術的なものが消えたからである。極端に言えば、神経症は宗教であり、根拠のない畏れを抱いて生きていた時代の産物である。田舎の迷信と同じだ。天罰や祟りを本気で信じているような宗教的資質を持った人が神経症になる。腫れ上がるまで手を洗わないと深刻な病気になるという迷信が手洗い強迫になる。家を出る時に延々と火元や戸締まりを確認するのは、そういう儀式をやることで家事や泥棒を防ごうとする祈祷なのだ。脱聖化された現代においては、迷信や祟りを信じる人も少なくなり、神経症の時代ではなくなった。強迫的な行為で悪霊を退散させる必要がなくなったのである。







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