肌寒い季節になると、妙にわびしくなってくるものである。上流階級の恵まれた環境に移ってから、カチェリーナはゴロゴロ生活をやめ意欲的にやっていたが、どうも調子が出なかった。おそらく季節が変わろうとすると、それだけ時計の針が動いたことを感じるからだ。普段は寿命のことなど考えないのに、残りの命とか、これまで無駄にしてきた時間とか、そういう圧倒的な重みに押し潰されそうになるのだ。普段は曖昧にしている時間の流れに直面させられるから、季節の変わり目は人間を感傷的にさせる。
なんとなくカチェリーナはグルーシェンカを部屋に呼んで説法でも聞こうと思った。グルーシェンカは片手間に修道女の真似事をやっているが、かなり人気があるようである。あの悪魔的な女の話に御利益があるとは思えないが、今は暇つぶしが必要だった。
「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せって、聖書にあるだろ。おまえあれをまったく実践してないよな。聖書を実践出来ない人間が修道女をやる資格あるのだろうか」
カチェリーナはグルーシェンカに問いただした。この女にはまったく寛容の精神がなく、軽く十倍は反撃してくるわけである。まったくカトリックを実践している様子が見えない。
「復讐するなというのは、キリスト教の運動方針の話なんです。もちろん個人間のモラルの問題としても聖書に書いてあるんですが、根本的にはキリスト教の布教戦略なんです。ご承知のように、旧約聖書はユダヤ教という民俗宗教ですが、それを世界的に広めるにあたって、新約聖書のイエス・キリストの論法が必要だったのです。迫害されたら反撃というのでは権力に潰されて終わってしまう。つまりキリスト教への迫害に対して、寛容に許すという非暴力の姿勢で対処することにしたのです。そうやってリスペクトを得ることで勢力を広げようという戦略なのです」
「キング牧師とかガンジーと同じやり方だな」
カチェリーナはコニャックを傾けながらつぶやいた。
「そうです。ガンジーだってイギリスと本格的に戦ったら負けるに決まってるから、ああいう手法を取ったのです」
「要は個人間のトラブルで左の頬を差し出すのは単なる馬鹿ということか」
「無抵抗な個人がリスペクトされることはないですね」
カチェリーナは、険悪だった家族にいたぶられるだけだった日々を思い出した。宗教的な感性を持っていたカチェリーナは抵抗しないのが正義だと考えていたが、今から考えれば愚かでしかなかった。
「おまえは信者にもちゃんとそう説明してるのか」
「復讐したくても出来ないことが多いですから、赦すという宗教的なアプローチを薦めることはあります。そうやって自分が高級な魂の持ち主だと自己満足出来ればいいじゃないですか」
「まあそうだな」
「被害者になると、被害者としての債権が生じますよね。相手から賠償金を貰いうる。でもたいていは不良債権になります」
「他人を傷つけるたびに賠償金払うなんてないからな。被害が回復されるなんてレアケースだ」
「被害者に滅多に賠償などされないという現世的な問題に解決を与えるのが宗教です。神様に不良債権の回収を依頼するのです。神様が取り立ててくれると考えるのです。そうやって丸投げした方が精神的に楽なのです」
「本当に神様は債権回収をやってくれるのだろうか」
「被害の回復が困難である場合は、宗教のロジックで説明しております。聖書にも罰を与えるのは神様に任せろと書いてあります」
「わたしの場合、家族が皆殺しにあったが、神様がやってくれたのかもしれないな。大事な幼少期にネグレクトされたダメージは取り返しが付かないし、この素晴らしい家庭環境に接してると、育ちの格差を思い知らされるばかりだが」
「今からでも遅くないです。いつまでもうちにいてください」
「おまえは神様とか信じてないんだよな。まったく宗教家ではない」
「いろんな御意見はあるでしょう。ローマ法王も進化論を認める時代なので、それに合わせるだけです。懐疑的ながら、わたしもカトリック信者の端くれなのです」







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