2013.12.07
文学からSSRIへ
有村悠さんは東京大学文学部に七年間在籍しながらも、文学書と言えば、太宰治の人間失格しか読まなかった人間である。東大から徒歩五分の学生マンションに住みながら、アニメを見てオナニーしているだけだった。母子家庭が辛うじて東大に引っ掛かったという境遇を考えれば、無教養な家庭ならではのパターンとも言えるが、時代性も鑑みなければならない。
関心の共有が、われわれの存在の重要な部分を成している。お互いバラバラで、それぞれ独自の関心に従って生きているというのはない。辺鄙な山奥で蟄居生活を送らされるとか、孤島で隠棲するというのでもなければ、他者と世界を共有する際に、共通の話題というのがどうしても必要である。同じ時間の中で、同じ話題を共有するというのは、人間存在(世界内存在)として逃れることは出来ない。
かつての青年は文学的に苦悩していた。しかし今日の青年は誰も苦悩していない。鬱という身体症状が現れればSSRIを飲んで休む。有村さんも、この時代性に参加し、鬱になりSSRIを飲んだのである。有村さんが(東大文学部に七年間在籍しながら)文学書を読まないのは、教養主義の消滅の反映であり、文学や哲学で苦悩するという青年の文化が無くなったからだ。
今日の社会においては若者の半数は大学に進学する。そしてそのうち一般入試で入っているのは半分以下だ。過半数が推薦入学やAO入試ということになっている。高校で進路指導するとすれば、進学実績の嵩上げのために、学力が高く一般入試で合格確実な生徒は一般入試に流れて貰うことになる。一人で早稲田慶應5つくらい受かる力のある生徒を推薦に回したら、進学実績が減るだけだからだ。そういう背景の中で推薦枠だけ増えているのだから、まさに学力からソーシャルスキルにシフトしているのである。
かつては一割くらいしか大学に行かず、そのエリートが高等遊民的に文学的な教養を楽しんでいた。文学や哲学が役に立たないにも関わらず教養の中心だったのは、エリートが教養で遊ぶ余裕があったからだ。エリート青年が苦悩して、人間とはなんぞやと探究する文化があった。今日では教養主義は死んだので、数学が出来ない文系(特に文学部)は焦りを感じているのである。理数系には研究費がたくさん付くのに、文系は儲からない。産学連携の問題を考えずしても、理数系が産業において極めて有益なのは確かである。工業製品の製造において数学と物理はとても役に立つからである。数学が得意なら、数学をやった方がいいに決まっている。だが、数学はある種の特殊なセンスを要する。知能が高くても数学センスがないという人がたくさんいる。仮に数学が産業の役に立たず、難解な証明問題を無為に解くだけだったら、数学者は障害者扱いされ、学問としても廃れていただろうが、数学物理が有用過ぎる産業社会において、文系は追い込まれているのである。
東浩紀が、机上の教養主義を離れて津田大介と一緒にやっているのも、そのような時代の流れがあるのである。文学部不要論の風潮に対して、東浩紀は古色蒼然とした文学部の王道を行くのではなく、ソーシャルスキルに阿ったのである。それによって哲学オタクは東浩紀から離れたのだが、元々狭い市場であり斜陽なので、見捨てることにしたらしい。
有村悠さんは東大入試の数学で0点でありながら文Ⅲに合格したので、まさに凋落する文学部の典型であるが、彼が東大文学部の七年間で読んだのは人間失格だけであり、教養主義の象徴である岩波文庫など一冊も読んだことがない。これは彼なりに時代を感じ取った行動なのである。文学や哲学が無意味であり、教養主義が崩壊しているのを肌で感じていたから、岩波文庫を一冊も読まず、サークル活動(ソーシャルスキル)に明け暮れていた。しかし、そうやってソーシャルスキルに手を伸ばした結果、有村さんは散々な目にあった。津田大介の失敗作のような状態になってしまったのである。
では有村さんがどうしたかというと、アダルトチルドレンの教典である新世紀エヴァンゲリオンに傾倒し、庵野秀明の後継者になると言い出したのである。岩波文庫を読んで文学青年的苦悩に浸るのは叶わない時代なので、詐病を疑われながらも、彼は鬱の名目で精神科に通いSSRIを大量に飲んだ。東大から徒歩五分のところに住みながらも、自室に籠もりアニメとオナニーに明け暮れた。そしてお手軽なオタク教養主義を目指した。有村さんはアニメが趣味という程度だが「重度のオタク」というキャラ設定にしたのである。これは無理がある。深夜アニメなんて失敗作だらけだ。あれを全部見るのが重度のオタクとか、アホもいいところである。文学や哲学に傾倒している青年でも、ゴミのような三文小説は読まない。岩波文庫のラインナップに入るような(実用性が無いながらも)古典的名著を読んでいるのである。有村さんが東大生の頃は、放送されているゴミアニメを全部見るのが本物のオタクみたいな馬鹿な考えを低学歴の岡田斗司夫が広めており、彼はこれにまんまと引っ掛かったのである。
最近ハライチの澤部がデキ婚した。澤部は童貞というキャラで売っていたのに、デキ婚なのである。有村さんも童貞という設定であり、これは半ば真実であると思われるが、あまりにもサークル活動に執着しているため、女子大生を食いまくっていたという噂も流れている。だが、有村さんに妊娠させられた女子大生は全員即座に中絶したようなので、デキ婚が発覚することもなく今日に至っているようだ。
こうやって考えてくると、有村悠さんが東大文学部の七年間で一冊も岩波文庫を読まずにサークル活動(ソーシャルスキル)に明け暮れていたのは、時代に阿諛し過ぎた結果なのである。有村さんが人生で初めて買ったCDはミスチルのイノセントワールドであり、十代は小室哲哉の音楽に耽溺して過ごした。そして大学生になると、エヴァンゲリオンでメンヘラを気取り、精神科に通っていた。岩波文庫よりSSRIを選び、まったく勉強することなく、ひとつの教養も身につけず東大を中退した。まさに時代と共に生きて、時代と共に失敗したのである。
関心の共有が、われわれの存在の重要な部分を成している。お互いバラバラで、それぞれ独自の関心に従って生きているというのはない。辺鄙な山奥で蟄居生活を送らされるとか、孤島で隠棲するというのでもなければ、他者と世界を共有する際に、共通の話題というのがどうしても必要である。同じ時間の中で、同じ話題を共有するというのは、人間存在(世界内存在)として逃れることは出来ない。
かつての青年は文学的に苦悩していた。しかし今日の青年は誰も苦悩していない。鬱という身体症状が現れればSSRIを飲んで休む。有村さんも、この時代性に参加し、鬱になりSSRIを飲んだのである。有村さんが(東大文学部に七年間在籍しながら)文学書を読まないのは、教養主義の消滅の反映であり、文学や哲学で苦悩するという青年の文化が無くなったからだ。
今日の社会においては若者の半数は大学に進学する。そしてそのうち一般入試で入っているのは半分以下だ。過半数が推薦入学やAO入試ということになっている。高校で進路指導するとすれば、進学実績の嵩上げのために、学力が高く一般入試で合格確実な生徒は一般入試に流れて貰うことになる。一人で早稲田慶應5つくらい受かる力のある生徒を推薦に回したら、進学実績が減るだけだからだ。そういう背景の中で推薦枠だけ増えているのだから、まさに学力からソーシャルスキルにシフトしているのである。
かつては一割くらいしか大学に行かず、そのエリートが高等遊民的に文学的な教養を楽しんでいた。文学や哲学が役に立たないにも関わらず教養の中心だったのは、エリートが教養で遊ぶ余裕があったからだ。エリート青年が苦悩して、人間とはなんぞやと探究する文化があった。今日では教養主義は死んだので、数学が出来ない文系(特に文学部)は焦りを感じているのである。理数系には研究費がたくさん付くのに、文系は儲からない。産学連携の問題を考えずしても、理数系が産業において極めて有益なのは確かである。工業製品の製造において数学と物理はとても役に立つからである。数学が得意なら、数学をやった方がいいに決まっている。だが、数学はある種の特殊なセンスを要する。知能が高くても数学センスがないという人がたくさんいる。仮に数学が産業の役に立たず、難解な証明問題を無為に解くだけだったら、数学者は障害者扱いされ、学問としても廃れていただろうが、数学物理が有用過ぎる産業社会において、文系は追い込まれているのである。
東浩紀が、机上の教養主義を離れて津田大介と一緒にやっているのも、そのような時代の流れがあるのである。文学部不要論の風潮に対して、東浩紀は古色蒼然とした文学部の王道を行くのではなく、ソーシャルスキルに阿ったのである。それによって哲学オタクは東浩紀から離れたのだが、元々狭い市場であり斜陽なので、見捨てることにしたらしい。
有村悠さんは東大入試の数学で0点でありながら文Ⅲに合格したので、まさに凋落する文学部の典型であるが、彼が東大文学部の七年間で読んだのは人間失格だけであり、教養主義の象徴である岩波文庫など一冊も読んだことがない。これは彼なりに時代を感じ取った行動なのである。文学や哲学が無意味であり、教養主義が崩壊しているのを肌で感じていたから、岩波文庫を一冊も読まず、サークル活動(ソーシャルスキル)に明け暮れていた。しかし、そうやってソーシャルスキルに手を伸ばした結果、有村さんは散々な目にあった。津田大介の失敗作のような状態になってしまったのである。
では有村さんがどうしたかというと、アダルトチルドレンの教典である新世紀エヴァンゲリオンに傾倒し、庵野秀明の後継者になると言い出したのである。岩波文庫を読んで文学青年的苦悩に浸るのは叶わない時代なので、詐病を疑われながらも、彼は鬱の名目で精神科に通いSSRIを大量に飲んだ。東大から徒歩五分のところに住みながらも、自室に籠もりアニメとオナニーに明け暮れた。そしてお手軽なオタク教養主義を目指した。有村さんはアニメが趣味という程度だが「重度のオタク」というキャラ設定にしたのである。これは無理がある。深夜アニメなんて失敗作だらけだ。あれを全部見るのが重度のオタクとか、アホもいいところである。文学や哲学に傾倒している青年でも、ゴミのような三文小説は読まない。岩波文庫のラインナップに入るような(実用性が無いながらも)古典的名著を読んでいるのである。有村さんが東大生の頃は、放送されているゴミアニメを全部見るのが本物のオタクみたいな馬鹿な考えを低学歴の岡田斗司夫が広めており、彼はこれにまんまと引っ掛かったのである。
最近ハライチの澤部がデキ婚した。澤部は童貞というキャラで売っていたのに、デキ婚なのである。有村さんも童貞という設定であり、これは半ば真実であると思われるが、あまりにもサークル活動に執着しているため、女子大生を食いまくっていたという噂も流れている。だが、有村さんに妊娠させられた女子大生は全員即座に中絶したようなので、デキ婚が発覚することもなく今日に至っているようだ。
こうやって考えてくると、有村悠さんが東大文学部の七年間で一冊も岩波文庫を読まずにサークル活動(ソーシャルスキル)に明け暮れていたのは、時代に阿諛し過ぎた結果なのである。有村さんが人生で初めて買ったCDはミスチルのイノセントワールドであり、十代は小室哲哉の音楽に耽溺して過ごした。そして大学生になると、エヴァンゲリオンでメンヘラを気取り、精神科に通っていた。岩波文庫よりSSRIを選び、まったく勉強することなく、ひとつの教養も身につけず東大を中退した。まさに時代と共に生きて、時代と共に失敗したのである。
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