世界から大きな物語が消えつつあることは散々指摘されている。大きな物語の終わりとはなんぞやと考えると、その根幹は人類を救済するという思想の終焉なのである。キリストが人類救済の世界宗教を提唱してから、われわれはずいぶん人類救済を試みてきたはずだが、その少なからずは侵略や虐殺や思想弾圧であった。20世紀の共産主義は唯物論によって地上の楽園を作り、すべての人類を救済するはずだったが、無惨な結果に終わったのは言うまでもない。

人類を救済するという思想は、キング牧師やネルソン・マンデラのように実を結んだこともあるが、もはや行き詰まっており、人類全体を救済する思想(狂気)はもう誰も唱えていない。そこそこ人権思想が浸透し、それが一段落ついたので、個々人が生き残るゲームに関心がシフトしている。今の世の中はカンダタが蜘蛛の糸を登り切れる時代なのである。「蜘蛛の糸」はカラマーゾフの兄弟にも似たような話が出てくるので、芥川龍之介の独創とは言えないが、それだけに普遍性があるとも言える。地べたをはいずり回って苦しんでいる多数の連中がいるとして、そこで他人を蹴落とし、自分だけが天国に這い上がって助かろうとする行為は許されないというのが、蜘蛛の糸の思想である。救うなら人類を救わなければならないという古めかしい価値観なのだ。こういう価値観は、ワシントンの桜の木の馬鹿正直の提唱と同じく、完全に唾棄されたのである。ロンブーや津田のような21世紀のカンダタは他人を蹴落として登り続けるが、決して糸は切れない。ネルソン・マンデラも死んだことだし、ますます自分だけ助かろうとする時代へ進んでいく。われわれはすっかり優生思想の持ち主となっており、劣った者は救済されることなく、断種された方がいいと考えている。断種を強制したら人権問題であり、人道への罪だが、「結婚できない」という自然淘汰は認められてるし、これは権力の罪ではない。

人類という大きな物語が終わり、個人間の優劣という小さな物語に躍起になっているのである。容姿とか身長とか、知能とか運動能力とか、そういう問題が、人類愛より大事である。肌の色の差別は、キング牧師の公民権運動やマンデラの反アパルトヘイトの活動で、世界的な物語になった。だが、顔が不細工とか、身長が低いとか、そういうのは世界的な物語になりそうにない。知力に関しては、知力の低い人間がソーシャルスキルで対抗しようという社会的流れがあり、これは大きな変化なのだが、ソーシャルスキルは小さな物語の典型なのである。ソーシャルスキルは、協調性とは違うわけだ。他人を助ける意志など毛頭無く、自分が生き残る戦略の問題である。知能が高いコミュ障を蹴落とすことで、ロンブーや津田のような女1000人斬りの猿が成り上がろうという個人的な活動でもある。今日においては、晩婚化が進んでいるので、美人のおばさんと結婚する夢よりは、婚前交渉でどれだけ若い女を食えるかが重要である。ソーシャルスキルの隆盛は、婚前交渉への特化という側面があるわけだ。

ソーシャルスキルとは、社交性の格差を強調し、それが優れた人間だけに価値があり、学力の価値に対抗しようという思想なのである。半数以上が推薦入試やAO入試で大学に入る時代だが、成績が優秀な人間は早稲田慶應の複数の学部に合格させるために高校が推薦しないという現状があり、学力とソーシャルスキルが反目し合う格好になっている。ソーシャルスキルは極めて利己的であり、勝ち組肯定論(負け組は死ねという論)でしかない。協調性という団体的なスキルから、ソーシャルスキルという個人競技にシフトしたわけだが、ここでも、人類の救済という思想の消滅がある。

学力の問題に関して言えば、大学の機能として学者の育成というのがあるのだが、大学進学率が高くなると、「学者肌」の人間が社会で役に立たないという議論は当然起こってくる。そして理数系の方が役に立つのは明らかであり、文系の学者タイプが使えないのは確かなので、数学出来ない文系がソーシャルスキルで生き残るという戦略に正当性はあるのだが、前述した、高校が(進学実績を上げるために)成績優秀者を推薦から外すという問題があるので、学問とソーシャルスキルの両立というより、知力で劣る推薦組が学力に対抗するためソーシャルスキルで斬りつけるという構図がある。元々学力の低い人間は群れるのが得意なので、教養が低い階層のメンタリティーの蔓延に過ぎないと見ることも出来る。この背景を俯瞰して見れば、大きな物語が衰退したことで、文学部でやるような思想の重要性の低下という問題がある。元々文学部は実用性がないとされていたが、大きな物語(思想文化)の衰退により、意義さえなくなったのだ。

人類全体を救うはずの共産主義があのような大悲劇を生んだし、人権問題も一段落済んだので、自分だけが生き残るという発想が跋扈するのは当然であり、なんか勢いがありそうな米国でも、一部の人間が大富豪になっているだけという現実がある。21世紀は世界貿易センタービルへのテロで幕を開けたが、大量破壊兵器を探す茶番が失笑を買うだけだった。あの戦いは米国のアッパークラスを守るためだけに行われた。人類救済や文明の進歩という高邁な思想がなかったから、そこに大きな物語を感じ取ることは出来なかった。テロでたくさんの人が命を落としたのは確かなので、葬式で喪服を着るのと同じ理由で、われわれは儀礼的に哀悼の意を表明したのだが、ニューヨークの世界貿易センタービルは、蜘蛛の糸を登り切った勝ち組が優雅に過ごす天国であり、地上で蠢く衆生を睥睨していたのである。永遠の勝利を約束すると思われた塔が、ボーイングの特攻により飴細工のようにひん曲がって瓦礫として崩れ落ちたのだが、地上に蠢くわれわれ下層民と等価の命が散ったというよりは、もはや人類としての共通項を持たない別世界の人間達が死んだという印象も受けたのである。

すべての人権問題が解決されたわけではなく、たとえばインドのカースト制度は極めて大きな未解決問題であるが、インドのカーストはヒンズー教の輪廻転生の信仰の根底であり、カーストが下であっても転生できるみたいな発想がある。民俗宗教が変な形で完結してしまったので、われわれ他国の人間は放置しておくしかないのである。人類救済という概念が失われたので、どこかで何かがあっても他人事である。







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