中学の時どんな人物だったかというのが、その人間の本質を表すという考え方がある。中学において王様であるヤンキーに強い発想だが、ヤンキー独特とは言えず、社会全般で共有されている考えだ。われわれはテレビで芸能人などを見る時「こいつは中学校の頃どんな人物だったのか」と気にする。なんで気にするのかというと、やはり中学時代が人間の本質という発想があり、テレビ的に作られた虚像の中身をチェックしたいという気持ちがある。このあたりはアイドルの処女性の問題と同じで、虚像と理解しつつも本気で信じたいという願望があるわけだ。

たいていの人間は小学生の頃は「いい子」である。だが中学生ではいい子である度合いが下がる。はるかぜのように正義感をこじらせているタイプは、小学生くらいだと周りがいい子なので何とかなるが、思春期になると厳しいだろう。この世の中では多数派に合わせる必要があるから、思春期の正義感の低下に付き合うしかないのだ。そして大人になると、たいていはまともになる。不良でも20歳過ぎればまともになる。

大人になると立派になるのかというと、おまえらの実情を見れば断じて否と言える。だが表面上のコントロールが可能になるのも確かだ。内面がクソでも表向きはちゃんと振る舞える。本当に立派な人格者になるわけではないが、表向きはまともな人間になる。

多数派が小学生はいい子であり、思春期がワルであり、大人になるとまともな社会人としてのペルソナを付けるようになるのだから、そういう発達段階に合わせる必要があるのである。発達障害といじめの問題にしても、中学校が主な問題だ。発達障害者は小学校でもいじめられるが、周りに「いい子」が多いのでまだ何とかなる。中学校(思春期)になると、いい子がいなくなりワルが増えるので、ここが最も苦しいはずである。

発達障害とは、まさに平均的な発達段階をたどれない障害である。中学が「思春期はワルになる」という平均的な発達に合わせた通過儀礼の空間であるとするなら、発達障害は積極的に中学不登校を選択するべきとも思われる。だが、そのような積極的不登校を選択する親は皆無に近く、たいていはこどもがいじめられてボロボロになってから不登校ということになる。中学はたかが三年間であり、一生のうちのほんの一部だが、この三年間が人間の本質を表すという考えが根強く、「いい子」の小学生でもなく、表向きまともな大人でもなく、その間の人間の本性が剥き出しになる場として、同年代と交流するのが思春期の大事なプロセスであり、誰も回避できない通過儀礼と考えられている。

米国ではホームスクーリング(自宅学習)が認められている。わりとキリスト教徒がやりがたるので、宗教上の理由が多いと思われる。日本ではキリスト教徒がとても少ないので、積極的に中学不登校を選択するのは、義務教育の拒否として問題となる。親が捕まるわけではないだろうが、日本政府はホームスクーリングを認めない立場だ。政府の問題だけではなく、「中学に行かなかった」となれば、通過儀礼を踏んでないということで、人間的欠陥のある人物と見なされるだろう。

われわれの平均寿命を考えれば、まともな人間として生きていく大人の期間が最も長いのだが、この「まともさ」が仮面であることは自覚しており、それが最高に素晴らしいとも思ってない。だからこそ本能が剥き出しになる暴力的な思春期を崇拝するのだろう。

アスペが積極的不登校を選び、ホームスクーリングを選択すれば、彼らの正義感だけで生きていく世界観を守れることになる。いい子→ワル→まともな大人という発達段階が無理だと思われるから、中学校という戦場には参戦しないというもひとつの考えだ。いわば軍国主義の時代に徴兵拒否するようなものであり、中学校という通過儀礼を踏まないのは、人間失格の極みと白眼視されるだろうが、アスペが中学に行ったところで、どっちみち白眼視されるのだから、行かない方が合理的だとも思える。われわれは思春期を崇拝するのだが、その醜悪な実態を考えると、思春期の回避というのも、ひとつの選択肢だ。







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