孝明天皇は江戸幕府を支持していた。孝明天皇の妹である和宮は、第14代将軍・徳川家茂に嫁いでいるが、子宝に恵まれなかった。徳川家茂が(天皇の妹を嫁にしたのに子孫を残さず)1866年に20歳の若さで死んだことが明治維新の大きな原因である。家茂の死因は判然としないが、甘いものが大好きでかなり深刻な虫歯で健康を害しており、それが遠因とされている。内親王が武家へ降嫁したのは、日本の歴史の中で和宮だけであり、徳川家茂が早世していなければ、公武合体路線が続いたと思われる。家茂が死んでも、徳川慶喜は孝明天皇をコントロール出来ている状態だった。孝明天皇は強硬な攘夷論者だったので開国を拒んでいたが、「攘夷を貫いたら日本が焦土になる」と徳川慶喜が説得し意向を変えさせたので、孝明天皇のままだと開国を拒み玉砕を選択したというのはない。徳川慶喜は孝明天皇から将軍宣下を受け、征夷大将軍になったが、その二十日後に孝明天皇は病気のため35歳で崩御(1867年1月)。新政府軍が15歳の明治天皇を取り込んだので、徳川慶喜は失脚した。江戸城が明け渡されたのは1868年4月である。孝明天皇の崩御で形勢が逆転したので、暗殺説は絶えない。孝明天皇を暗殺したと噂される連中が明治天皇を担ぎ上げて作ったのが明治憲法である。暗殺説の真偽はともかく、徳川幕府側だった孝明天皇が崩御した際に大喜びした層が、明治新政府の中心になった。皇国史観はそれほど天皇に権限を与えていない。明治憲法は「天皇ハ帝國議會ノ協贊ヲ以テ立法權ヲ行フ」ということだから、天皇に大権があるとしながらも、議会が代理人として行使するということであり、明治天皇を味方に付けた官軍の勝利宣言でしかない。皇国史観の信奉者はアンチ孝明天皇であり、明治新政府のファンでしかないのだ。第二次世界大戦時の軍部の台頭も必然的だったと言える。日本人は明治憲法に困惑していたのである。戦時下に三島由紀夫が徴兵検査で不合格になった時に、父親は大喜びした。三島の死後の回想録で三島の父は「喜びがこみあげてきてどうにもなりませんでした」と綴っている。三島の父親は息子が兵隊に取られて死ぬことなど、決して望んでいなかった。三島由紀夫の父親が特殊というわけではあるまい。戦後のわれわれは、第二次世界大戦で日本が負けてくれて本当によかったと考えている。後年の三島由紀夫が天皇崇拝をこじらせたのは、徴兵検査失格で生き延びて、戦後社会で生きているのが恥ずかしかったからだ。リアルタイムの問題ではなく、過去の肉体コンプレックスの問題と戦っていたのである。戦後左翼が自衛隊が違憲だと騒いでいたのは、自衛隊を無くして、お友達のソビエトに侵略して貰って共産化と考えていたからだ。純粋な平和主義ではなく、日本をソビエトに売りたいというクーデター願望である。全学連は日米安保に断固反対と頑張ったが、要は米国資本主義と決別したいという運動である。日米安保を無くし自衛隊を無くし、日本を焦土にして、ソビエト連邦に入るのが真の目的だった。現在の体制に滅びて貰いたいという党派が敗北主義者として頑張ることがあるのだ。1961年にソビエトは人類で初めて有人宇宙飛行を果たした。パイロットであるガガーリンの「地球は青かった」という言葉は有名である。この当時だと、アンチ米国の連中が、ソビエトを崇拝し、共産主義に参加しようとしたのは、幻想としてあり得たのだろう。1960年に日本社会党の浅沼稲次郎が右翼少年に刺殺された。浅沼稲次郎は日米安保に反対し、左翼のカリスマだった。暗殺されてなければ政権を取ったかもしれないし、日本がかなり左に傾いていた可能性もある。今日のわれわれは日米安保の世界観にいるから、第二次世界大戦で負けてくれてよかったと思うわけである。共産主義の失敗を歴史的事実として知っているから、マッカーサーに与えられた米国の民主主義に感謝しているわけだ。だから、あまり体制転覆を願わない。何年か前にプチ体制転覆として民主党に乗り換えたのだが、あまりにも悲惨だったので、最近は自民党が崇拝されるばかりである。とはいえ、体制転覆を望むのは人間社会の本質でもあろうし、自民党が永遠というわけではない。







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