インターネットがブームになったのは1995年だが、その頃はパソコンの所有率が高いとは言えず、ネットの回線はとても貧弱だった。多数の人は指をくわえて見ているしかなく、本格的に大衆にインターネットが普及したのは21世紀になってからだ。その90年代においてネットの中心だったのはニフティフォーラムだった。会員向けのパソコン通信でしかないニフティサーブは衰退する運命にあり、実際2007年にニフティフォーラムは閉鎖になるのだが、ネットに手が出せない90年代の人達は、まだ見ぬニフティフォーラムに憧れていたのである。そこでは侃々諤々たるディベートが行われ、ニフティフォーラムでの勝敗が人生にとって重大な出来事であると扱われていた。おそらく限られた陣地を奪い合っている感覚だったのだろう。しかしインターネットはサイトやブログを作りたいだけ作れる仕組みである。新しい領土をいくらでも作れる空間である。21世紀になって大衆がネットを始めた当初は、ネットでディベートするというニフティ文化の流れを引き摺っていたのだが、だんだん誰も議論しなくなった。ネットユーザーは分散的になり、あちこちで慎ましくやるようになったのである。

そもそも日本人はディベートする必要がないのである。アメリカ人が議論好きなのは、人種や民族が違うからである。人種や民族の違いがあるから、ディベートせざるを得ない。裁判で訴えられたら弁護士を雇わなければならないのと同じだ。日本人は単一民族なので、人権問題を語る必然性が少ない。人権問題を除くとディベートの題材はかなり少なくなる。21世紀になってある程度人権が達成されたので、イデオロギー問題も薄くなった。日本人は常識的に物事を判断すればよいので、論争する必然性がない。自分が正義であるという主張を行う必要がない。ネットが完全に普及してから日本で広がったのは「自分は日本人である」というアピールだ。日本人なら常識が通用するので、議論の必要がないということであり、これが共通言語なのである。相手を韓国人と認定することで議論は回避できる。このような議論の拒否を知性の後退と言うことも出来るが、ネットユーザーが公人でないからには、人権軽視が合理的である。人権重視と言えば聞こえはいいが、弱者らしい人達に税金を使うとか、所得を移転させることでしかない。アメリカではアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)が大々的に行われているが、ディベートの結果は逆差別の推進でしかないのだ。人権問題に時効はあるのか、というと難しい話だが、差別は、それが行われていた時代では合法なので、その後で政治的に救済するという話になる。人権問題は、差別された本人というよりは、その子孫の救済という側面が大きく、なかなか時効とか法の不遡及なども言いづらいので、日本人がディベートするメリットがないのである。

東浩紀は大昔は必死にディベートしていたが、ここ10年くらいは「議論する意味がない」として話し合いを避けている。大手サイトが零細を相手にしないのと同じだ。議論をふっかけることでアクセスを誘導したいという零細の欲望はあるわけで、そういう零細とのプロレスにはメリットがないので応じなくなった。グーグルがない頃の大手サイトは零細を相手にすることでアクセス(承認願望)を保っていた部分もあるのだが、グーグルのページランク制度だと、一度大手になれば地位は揺るがない。大手サイトが零細を相手にしないのは合理的なのである。東浩紀もその合理性に乗っかって、安泰な生活を手に入れたのである。日本人のディベート意識の低さに便乗したのだ。知識人として成長した様子は見えないが、本人はそれでいいのだろう。







スポンサードリンク

最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

ukdata

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jp■yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング