快と不快という現象はあるわけだが、われわれはそれ以上に幸福や不幸を求めている。幸福でなければならない、不幸であってはならないという存在証明の問題として考える。地べたを這う虫けらが幸福を渇望し、天に手を伸ばそうとするのは、死後の世界のためなのである。自殺や他殺や餓死など、不幸な死に方をすると悪霊になるという迷信がある。自殺があったアパートの部屋は借りたがらない。本気で悪霊がいると信じ込んでいるわけでもないが、そういう迷信を捨てきれないので、われわれは自殺者が出た部屋を忌避する。この悪霊という迷信こそが、人間が幸福・不幸に固執する原因なのだ。不幸な現世が原因で、死後に悪霊になるのが嫌なのである。鉄道に飛び込んで轢死体になると、その汽車や駅舎に悪霊として棲み着いて心霊写真に写り続けるらしいが、もはやわれわれは原始人ではないので、そのような迷信は克服しなければならない。脳が痛みや快楽を感じる程度で「これが人間精神だ」と高らかに謳いあげるのはよくないし、その脳が死んだら、無に移行すると考えるべきなのだ。人間は過去の記憶を反芻しながら、自らの同一性を確認している。毎朝目覚めるたびに別人になるのではなく、同一人物として再生産する。このような自己再生産が自己の基本だから、死によって、それが完全に無になるとは想像しがたいのである。だから死んでから悪霊になったり、もしくは天国から現世を見守るという発想をするのである。死んで無になるなら、不幸などたいしたことがない。幸福になろうが不幸になろうが、死んだら無であり、唯物論という虚無に回収されるのだ。死んで自分が消えるのは、宇宙の滅亡と同じであり、幸福だろうが不幸だろうが、どちらでもいいのだ。われわれが不幸を恐れるのは、悪霊化を恐れているだけであり、迷信の虜囚でしかない。死を目の前にして、悔いが残るとかいうのは、無知蒙昧なのである。どんなに悔いが残ろうが、単に無になるのであり、決して悪霊化しないから安心するべきである。誰かが自殺したアパートにも平気で住めばいいのである。自殺したら悪霊になるという迷信を唾棄してこそ、この耐え難い現世を乗り越えることが出来る。人間は債権・債務の主体であり、特にやられたことは忘れないから、債権者として生きている。他人に傷つけられるたびに債権が発生し、そしてたいていは救済されないので不良債権である。その紙屑を後生大事に抱えている。不良債権を取り立てたいと願っているのだ。だが、どれだけ無惨に死のうとも、待っているのは無であり、取り立てても墓場には持って行けない。われわれは何の因果か地球という戦地に送り込まれ、生傷が耐えない過酷な兵役を送らされるが、死によって無事に除隊となり、呪うべき命を消し去って貰えるのだ。この死者の無は絶対だ。鈴ヶ森の刑場に生首を晒したところで、その咎は問えないし、もしくは死後に教会で聖人崇敬され名誉を謳われたところで故人に意味はない。幸福な人を羨むこともないのである。幸福は死後には持って行けない。死後の世界で現世を反芻し続けるという迷信はすぐさま断ち切るべきである。死んだ瞬間に無になるのだから、どんな人生でも変わりがない。迷信にすがることをやめ、圧倒的な無に帰依するべきなのである。自己を反復する地獄の作業は死によって終わる。幼子だろうが、老境に差し掛かろうが、死という無は目の前にあり、誰も逃れることは出来ない。オムツを履いて特養のベッドにしがみついても、死んだら無になるのであり、速いか遅いかの問題でしかない。今こそ唯物論に拝跪せよ。死後の世界を空想し、その妄想の版図を広げるほどに、痛みの神経は存在の隅々まで繁茂し、われわれを蝕む。どんな人生であれ、最後は無が回収してくれると気づけば、不安などひとつもないのだ。







スポンサードリンク

最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

ukdata

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jp■yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング