日本テレビの「明日、ママがいない」というドラマは見てないが愚作のようだし、これが消えたところで文化的損失にはならないのだが、気になるのが批判されている理由である。全国児童養護施設協議会は「このドラマが原因でいじめられて自殺したらどうすんだ」という抗議を日テレにしているのである。作品内容に関する議論よりは、いじめが発生することへの危惧が最大の問題なのである。

仮に本当に自殺者が出たとしよう。その場合、日テレに責任があるのだろうか。たぶん裁判くらいは起こすだろうし、民事で勝つのはわりと容易いので勝訴できるかもしれない。普通の人なら民事で負けても(西村博之を見れば明らかなように)踏み倒せばいいだけで、何の問題もない。踏み倒すのはなんら刑法犯ではないのだ。しかし日本テレビだと踏み倒すわけにはいかないので、たぶん賠償金を払うことになるだろう。

この問題の根底にあるのは、いじめが発生したら止められないという考えだ。相手が小学生でも止められない。いじめを止めるとは、お山の大将の面子を潰して人権を破壊することなので、これはなかなか出来ない。言うなれば、革命権というか抵抗権の発動なので、そう易々とは出来ない。革命は成功すれば正当化されるが、失敗すれば内乱罪である。

そもそも人類はパワハラとセックス以外に何もやってない生き物なのである。社会的権力に基づく大人のパワハラと、身体的特徴を笑うのが中心になるこどものいじめは同じではないが、根っこは通底している。人間社会は有史以来パワハラのイデオロギーで成り立っているから、こどもにだけ禁じるわけにもいかない。人類愛のために作られたはずのソビエト連邦がどれだけパワハラで腐敗したかを考えると、これは人間の業である。共産主義革命を起こしたらパワハラがさらに酷くなったのだから、絶対に治らない病気なのである。

いじめは人間の主体性の根源であり、権利なのである。歴史の本はパワハラとセックスの話しか書いてない。パワハラでなければ、戦争とか大虐殺とか、なおさら悪い。いじめをやめさせるというのは、人間の主体性の否定であり、人権侵害の最たるものと言える。

暴君的な父親とか、クラスでのいじめっ子とか、赤の他人から見ればゴミであろう。家庭とか学校とか、そういう閉鎖系での王様である。われわれ赤の他人が口を挟んでやめさせることは不可能ではないが、暴君の面子を潰すのは大罪であると教え込まれているので難しいのである。こどものいじめだって、学校以外で行われていれば、たぶん大人が止めるだろう。無関係の大人なら止められる。あなただって、無関係な大人として、こどもが路上でいじめられているのを見たら、止めることは出来るだろう。だが、学校という自治的な空間には踏み込めない。内政干渉の禁止が人類社会の本質であり、お山の大将に口を挟まないルールなのである。無関係の人間なら、正義の味方として行動できるはずなのだが、それをやってはいけないのである。われわれは赤の他人の案件には儀礼的無関心を徹底しており、当事者だけでドロドロやることになってるのだ。

学習塾でいじめが少ないのは、自治権の問題がないからである。塾の経営者は「月謝返すから、もう来なくていいぞ」と言えばいいだけである。月謝を返したら、生徒が居座る権利はない。以前代々木ゼミナールで、身長の低い女の子が男子の集団からチビだといじめられて代ゼミ側に助けを求めたが取り合って貰えず不登校になり、その後民事裁判になり、代ゼミに勝訴したことがあるが、これは代ゼミがアホだと言えるだろう。塾や予備校ならいじめっ子に月謝を返して「もう来るな」と言えばいいだけなのに、代ゼミはそれを怠ったのである。もしくは月謝を返したくなかったのかもしれない。

問題の核心になるのは、「自治」に介入出来るかどうかなのだ。一人の暴君が世界を支配しているのではなく、プチ暴君がたくさんいるわけだ。教師が生徒のいじめを見て見ぬフリをするのは、生徒の自治権を侵害したくないからである。教師だって、路上で他校の生徒がいじめをやってるのを見たら止めるかもしれないが、自分の学校の生徒となると自治権の侵害になるから無関心でいたいのだ。

私人間の人権問題に関しては、芦部信喜の「憲法」の第六章に記述がある。「私人間における人権の保障と限界」という項目だ。ここでは、直接適用説、間接適用説、非適用説の三つが紹介されている。
直接適用説には次のような問題点がある。第一は、人権規定の直接適用を認めると、市民社会の原則である私的自治の原則が広く害され、私人間の行為が大幅に憲法によって規律されるという事態が生ずるおそれがあることである。

間接適用説は通説として有力であるが、これは「憲法上の人権」を私人に適用するというよりは、「超実定法的な人権」を適用しているともされる。

非適用説は、私人の問題は民法でやれというものである。
憲法に取り込まれた「憲法上の人権」は、憲法が公権力を名宛人とするという特質により拘束されて、公権力を名宛人とする権利になるのであり、民法に取り込まれた人権は、民法が私人間を規整する法律であるという特質により拘束されて、私人間で実現されるべき権利となるのである。

どの説が正しいかは決まっていないが、ともかく、われわれ私人が他人の人権を侵害して憲法違反となることは、あり得ない。憲法は公権力の問題なのだから、いじめについて語る場合に憲法問題として考えると、的を外すことになる。

だから憲法問題ではなく、お山の大将(プチ暴君)になりたいという願望を分析するのが必要だ。威張りたいという根源的な欲求を潰すとなれば、人格の破壊であり、そう簡単には出来ない。ホッブズが言うところの自然権として認めるべきということも出来る。もちろんプチ暴君が素晴らしいはずがなく、これを理想として謳い上げることは出来ないが、人類の歴史からパワハラを取ったら何も残らない。

余談として言えば、頑固親父というのが最近はいなくなった。プチ暴君が消えたという実例ではあるのだが、これは自由恋愛が背景にある。頑固な男性だとセックス出来ないので、出来るだけフェミな性格になろうとしているだけであり、あくまで性欲のためである。







スポンサードリンク

最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

ukdata

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jp■yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング