2014.02.03

涅槃と唯物論

ナスターシャは涅槃の先に虚無を見ており、釈尊と唯物論を止揚したような世界観を持つ具眼者だったが、人と接するたびに隅に追いやられ、暗渠へ身を落とすしかないはぐれ者だった。アスペルガー症候群として親から虐待されていたが、まさに虐げられやすい傾向をひととおり揃えた人間だった。こんなナスターシャでも、ワイアード空間ではhankakueisuuという匿名ハンドルで真性引き篭もりという巨大ブログを運営し、多くの人を恐怖に陥れているのだ。ナスターシャは肉体的な感覚を欠いており、骨だけで生きている少女だから、無と対話し続けている。彼女の前では、色は即座に空に変質し、その先の虚無に出会う。菩提樹の下で釈尊が瞑想していたように、ナスターシャはワイアード空間で無に出会う。真性引き篭もりは釈尊を越えた存在なのだ。ナスターシャは自閉的で視野が狭く、この現世での息苦しさを抱えていたが、それがゆえにあらゆる色を解体する天才である。釈尊は唯物論に耐えられず、涅槃を空想したが、ナスターシャは虚無に通じることが出来た。他人の急所を見抜くことに長けているから、さらりと脇差しを抜いて一点を突くだけで、相手は半死半生に陥り、死に至ることも少なくない。真性引き篭もりという暴力装置で人を殺しては座禅を組み、色が空に変化する瞬間に立ち会い、色即是空空即是色と唱えるのだった。言葉だけで人を殺せるという体験を繰り返すうちに、ナスターシャという冴えない少女は暗黒の自信を付けていった。世界的大富豪であるカチェリーナの城に居候している状態だから、生命は脅かされていない。五つの部屋の壁を取り壊して巨大なフロアを作り、機械類を並べていたが、ここは彼女にとっての天竺であり、その無機質な空間ではワイアードの英傑を気取れたのである。

とはいえ、そのようなナスターシャでも、色への欲に駆られてはいた。色への欲を満たす必要などないと彼女の理性は知悉していたが、どれだけ見抜いても渇きはやってくる。涅槃の先の虚無まで見抜いたのに、色という花見酒に酔いしれたい欲求はあった。自我も宇宙もやがて無に飲み込まれるというのに、無益な享楽への欲は途切れなかった。冴えない外見を持って生まれたナスターシャにとって、性とは難攻不落の要塞だった。その威容に圧せられ、誰からも愛されず、苦難の人生を歩んできた。骨だけで生きており、肉は欠けていたが、その白骨の指は彼女の理性を無視して、色に手を伸ばしたがるのだ。

ナスターシャは試しに女を抱いてみようと思った。ワイアード空間ではhankakueisuuという具眼者になり、釈尊を止揚してしまったが、一人の少女の顔に立ち返ると、相変わらずの飢餓状態は拭えない。この強迫的な欲望を満たすことで、あり得ない快楽が得られることに間違いはなく、無を透徹するところまで見たにも関わらず、色の甘い香りへと天翔けたい貪婪は消えなかった。午餐を終えると、ナスターシャは部屋を出た。城から出ると、148センチの痩せぎすの身体に鞭打って都市部へ向かった。強大なる欲望がぬめりと鎌首をもたげているから、その高揚感に突き動かされ、疲労は克服することが出来た。ナスターシャは繁華街にたどり着くと、目抜き通りを外れて、裏道に入った。そして今にも倒壊しそうな大衆酒場に入った。腐った床を踏みしめながら中を見渡すと、何人かの客が孤独に酔いつぶているだけだった。親父が耄碌しているようで、小柄で15歳のナスターシャでも追い出されなかった。ナスターシャはカウンターに座ると、安酒を注文し、胃に流し込んだ。酔いが回り、ナスターシャは社会の現状について長広舌を振るい始めた。いつも真性引き篭もりでキチガイのような長文を書いている癖で、話し始めると長いのだ。リアルの酒場では誰からも相手にされず、白髪の店主が嶮岨な顔つきで見やるだけだった。うんざりした様子の店主はナスターシャの前に水の入ったグラスを置き、「これくらいにしときな」と言うと背中を向けた。ナスターシャも酒を飲むのが目的ではないから、その水を飲み干すと勘定を払って店を後にした。そしてふらつきながら路地裏に行った。まだ明るいが街娼がちらほらいる。ウクライナの夜間は治安が悪いので、ナスターシャは日の明るいうちに行くことにしたのだ。目に留まった立ちんぼにナスターシャは声を掛けた。娼婦は子どものイタズラだと思ったらしくつれない態度だったが、ナスターシャの真剣な様子に根負けし、ナスターシャの差し出した紙幣を受け取った。

ナスターシャが釈尊を止揚するような具眼者となったのは、色への欲求との戦いの果てだった。色に触れなければ死んでも死にきれないという妄執でナスターシャは煩悶していたのである。ホテルに入ると、裸になって娼婦と身体を合わせた。ナスターシャの骨と、娼婦の肉体が触れ合ったのだ。快楽ではあったが、とてもまずい食事で腹を満たしている感覚だった。欲しいのは究極の色であり、このような吐き気のする快楽ではなかった。だがひとまずオスカー・ワイルドのようなデカダンになることにした。だらしない娼婦の肉体を貪ることで、ソドムの色を味合うのだ。行為が終わり無言で着替えながら、部屋の鏡に映る二人を見ると、何とも見苦しかった。品のない肉感に満ちた娼婦と、骨と皮だけのナスターシャが映っている。そこには美の欠片もなかった。だが天国に通じることは出来なかったが、確実にソドムの一員になったのである。まだ酔いが残っていたので、ナスターシャは娼婦にチップをやり、一緒に飲み直すことにした。決してその女を気に入ったわけではなく、むしろ気に入らなかったので誘ったのだ。現世のきらびやかな色の下で、堕落した醜い二人が歩くというのが、自らを蝕んでいる色欲を破壊し解放してくれるように思えた。

しかし繁華街の目抜き通りを歩いていると、突然ナスターシャの酔いが醒めた。ナスターシャは極端に視野が狭いため、通りすがる人の顔などわからないのが通常だが、道の向こうから歩いてくる二人の少女は、あまりにも華やかであり、目を奪われざるをえなかった。グルーシェンカとカチェリーナが歩いてきたのだ。ナスターシャはグルーシェンカが死んだと思い込んでいたのだが、生きていたのだ。グルーシェンカはとても楽しそうであり、その澄んだ表情には何ら無理がなかった。真性引き篭もりで追い込んで殺したはずの人間が、なぜこうやって幸せそうにしているのか、ナスターシャは混乱した。グルーシェンカとカチェリーナは、とても仲睦まじい様子である。現在という瞬間の色が咲き誇っていた。アスペルガー症候群のナスターシャでも、いまわの際のグルーシェンカをカチェリーナが救ったことは想像できた。ああやって真性引き篭もりで論陣を張り、グルーシェンカの友達を全滅させたのに、カチェリーナだけは見捨てなかったのだ。

ナスターシャは娼婦を置き去りにして、その場から逃げ出すしかなかった。先ほどまでのデカダン気取りはすっかり消えていた。グルーシェンカとカチェリーナが自分に気づいたかどうかは判然としないが、グルーシェンカの視野の広さからして、間違いなく気づいただろう。そう考えると、絶望と羞恥にとらわれ、ふらふらと倒れ込むしかなかった。グルーシェンカはカチェリーナと性的関係があるに違いなかった。ネットで居場所がなくなったグルーシェンカは、美の化身と言われるカチェリーナとよろしくやっている。ナスターシャは、世界最高の美少女と言われるカチェリーナの長い手足を想った。あの金色に輝く長い髪や、白い肢体をグルーシェンカは貪っているに違いなかった。空が華やいだ極彩色で満たされた瞬間であり、この絶望は決定的であった。色が空に変貌する時もあれば、空が色に変貌する時もあるのだ。アルファブロガーとしてネットに君臨しているhankakueisuuという存在の虚しさに打ちのめされた。
「かつてヴィクトル・ユーゴーは言った。人間は死刑囚になるために生まれてくるのである」
ナスターシャは路上で呻いた。ただ死ぬために生まれてきたという根源的な苦悩が生じてきたのである。繁殖の無限性から、華やかな少女は際限なく生まれてくる。個体は次々と病んで老いて死んで無に逢着するのに、煩悩による不義の子が生まれ続ける。
「釈尊は死後の心配ばかりしていたが、死んで無になれば、苦悩する自分もなくなる。僕はあっさりと解放されるんだ」
ナスターシャは道行く人々を眺めながら、それが老いて骨になる未来を見た。ラブホテルに入っていく美男美女は、その瞬間は色に満ちていた。その色も、ほどなくして空になる。生命の集団的な繁殖力の強さの下から、個体の圧倒的な虚無がまざまざとした輪郭で浮かび上がってくるのである。それが人間の苦悩の根源なのだ。







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