昔、何かの雑誌を読んでいたら、医者と弁護士を両方やっているという人が記事になっていた。
旧司法試験の時代だから、ずいぶん優秀なのだろう。
医者と弁護士を両方やるのを実践している人が現実にいるわけだ。

だが通常は、時間というリソースをひとつの専門に投入することが求められる。
医者と弁護士の資格を両方取ったら、一日が48時間に増えるわけではない。
誰でも一日24時間というのは決まっている。
その24時間というリソースを、医者と弁護士に分散させてしまうのは、よくないだろう。

このような専門性を疎外の問題として考えたのがマルクスである。

マルクス/エンゲルスの「ドイツ・イデオロギー」にはこんなことが書いてある。
労働が分割され始めるやいなや、
各人は、ある特定の活動範囲だけにとどまるようにしいられ、
そこから抜け出すことが出来なくなる。
彼は猟師、漁夫、または牧夫、または批判的批判家のいずれかであって、
生活のてだてを失うまいと思えば、
どこまでもそのいずれかでありつづけなければならない。

これに対して共産主義社会では、
各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲も持たず、
どこでも好きな部門で、
自分の腕を磨くことが出来るのであって、
社会が生産全般を統制しているのである。
だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、
朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、
夕食後に批判をすることが可能になり、
しかも、決して、猟師、漁夫、牧夫、批判家にならなくてよいのである。


開いた口が塞がらないような意見であるが、しかしこれを昔の左翼学生は大まじめに受け取っていて、人間は疎外されている、と言っていたのだ。
大量生産する工場での分業が、退屈でやりがいがないのは確かであり、ある種の説得力があったのだろう。
工場で、あるひとつの作業だけを延々とやりながら人生を終えるのが、虚しすぎるという問題である。
そこでは人間が疎外されていると言うのである。
分業は人間を工場の歯車のひとつにしてしまう。
だから許せないということらしい。

分業の問題としても、工場で各工程が切り分けられる個別的分業と、医者が医者だけに専念する社会的分業では違う。
医者だって、医者以外の可能性を断たれているが、専門家として認められる。
工場の単純労働者は専門家として認められない。

ひとりで何でもやるとすれば、他者との競争が必要ない自給自足経済だけだろう。
そこではスキルが低くても淘汰されないわけである。
共産主義は専門性が低い状態を人間らしさと見なしているので、失敗するのも納得なのである。

ひとつの道しか選択できない(複数のことをやると中途半端になる)というのは、資本主義の問題ではなく、人間の宿命である。
役割分担というのは、避けられないことである。
特定の役割に固定されることをマルクスは人間疎外と考えたが、これは至って人間的宿命である。
他人と分業しながら共同存在するしかないのである。







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