IQの格差こそがルサンチマンの根源なのである。IQ以外は本物のルサンチマンではない。人間が本当に憎んでいるのはIQだけである。

美人がブスを妬むことはあるだろうが、やはり美人への憧れはあり、チビが長身を妬むにしても、やはり長身になりたいわけである。貧乏が金持ちを妬むことはあるだろうが、金持ちになりたいわけだ。運動音痴が運動出来る人間を妬むことはあるだろうが、スポーツ万能への憧れはある。

IQでは、これがないのである。低偏差値の馬鹿が「IQが高くなりたい」と切望することはない。「AOで一流大学に入りたい」と思うにしても、それはブランドへの憧れでしかない。高IQそのものへの憧れはない。

そもそもIQが違う自分はイメージできないので、憧れるのが困難である。
美人になった自分、長身になった自分、金持ちになった自分、スポーツ万能の自分、あたりはイメージするのがとても簡単であり、それを空想することもあるだろうが、IQが違う自分はイメージできない。

もちろんIQ以外のスペックでも、変化があれば(立場は)別人にはなる。
現実にありうるのは身長で、子どもの頃小さかった人間が、後から伸びるという事例は普通にある。たとえばサッカーの中村俊輔は身長160センチ未満だったので、ユースには進めず、高校でサッカーをやることになった。高校で急激に身長が伸びたので、日本代表に入るレベルの選手になったのである。
身長が変われば「別人」とも言えるし、無名のサッカー選手が日本代表クラスになれば、少なくとも他者との関係性は変わるだろうが、中村俊輔の中身が別人に入れ替わったわけではあるまい。
別の自分になりたいというのは、内面の同一性を維持したまま、身長・容姿・運動神経などのスペックを変えたいわけである。

美人というわかりやすさは普遍的である。誰が見ても美しさは理解できる。美の理解力に関して断絶はない。ブスでも美人の美しさはわかる。
しかし高IQの世界は低偏差値には理解不能だ。
低偏差値が多数派なので、「IQが高い人間は人間性が欠如している」という意見が多くなる。
実際は(美人のわかりやすさと対極な)IQのわかりづらさの問題であり、その理解不能性こそが、高IQの辛さでもあるのだが、なぜか低偏差値の不満に応えるべくAO入試が広まっている。
知能を批判している低偏差値の人達が、なぜか大学では一流大学に入りたがるのだ。ブランドさえ手に入ればいいのであり、合法的な経歴詐称である。

小保方晴子は数学・物理が不得手ながら、早稲田大学理工学部のAO入試一期生として入学した。
そしてSTAP細胞を発見し、ノーベル賞が確実視されているらしい。
ただ、誰も再現に成功してない問題がある。
共同研究者の若山照彦山梨大教授でさえ、「理研では成功したが、山梨大学では成功してない」と述べているので、再現はかなり困難な見通しだ。
ようやく低偏差値にも理解出来るレベルの馬鹿が知的スーパースターになったと思ったのだが、やはり馬鹿は馬鹿のようである。

ソクラテスは無知の知を説いた。これは無知でボンクラであればいいというのではなく、頭がよかろうが、その知性ならではの限界があるのだ。人間という生き物の知性では、最高峰に到達したところで、わからないことはたくさんある。自分の知性を振り絞った限界より先は、無知であるしかなく、恭しく頭を下げるべきなのである。ソクラテスは人類の最高峰まで知性を極めたからこそ、「ここから先は無理」という限界に気づいたのである。その限界に耐えられない人間がAO入試に走り、研究結果を捏造するのだ。







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