2014.03.04

神経症の消滅

人生とは義務であり、この義務感は古今東西変わりはしないのだが、最近は少し緩んできたのも事実だ。
近所の人間が嫌いなのに近所付き合いをする必要はなくなった。
世間体が消滅したわけではないが、少なくとも隣近所の目線からは解放されたのだ。
結婚しない自由も生まれた。
望み通りの相手と結婚できるようにはならなかったが、結婚しないという自由は手にしたのである。
生涯独身で、孤独な中年が一人のアパートでカップラーメンをすする生活が楽しいかどうかは別として、他人から不幸だと蔑まれる苦しみはなくなったのだ。

神経症という言葉をほとんど聞かなくなった。
直接的な理由としてはDSM-Ⅳがかなりの市民権を得たため、そちらの用語が優先されるようになったからであるが、たぶん神経症自体も減っている。
フロイト思想の誤りが浸透したというのもあるが、かつては人生の義務感の強さが神経症を生んでいたのだ。
20世紀は自由という思想が生まれつつあったが、実現はしていなかった。
完全な封建社会なら、その隷属義務を疑うこともないが、20世紀は、社会的義務が疑われながらも解放はされなかったので、葛藤が生じやすく、ヒステリーを起こしやすい時代だったのだ。

社会的な義務を実行する主体は家族である。
だからフロイトは家族を標的にしたのである。
抑圧は社会的なものだが、それを実行する小役人は家なのである。
フロイト心理学は親が悪という意識を増幅させ、場合によっては、架空の虐待経験が捏造されることもあった。
フロイト的なカウンセリングで治った例は少ないと思われ、むしろ悪化した方が多数例である。

神経症が発病するプロセスは、「さらに真面目に」という力学である。
真面目になっても、さらに真面目にならなくてはならない。
どこまで行ってもゴールがないのだ。
真面目さの無間地獄が神経症なのだ。
「さらに真面目に」という気持ちが、際限なく手を洗うという病的行動を生み出す。
21世紀では「さらに真面目に」という圧力が無くなった。
真面目さ自体が評価されなくなったから、強迫性障害があまり大きなテーマにはならなくなった。
強迫性障害が根絶されたわけではないが、真面目な人間に向かって「さらに真面目に」とプレッシャーを掛ける世の中ではなくなったから、真面目さに固執して神経症というパターンは無くなったのだ。

21世紀において浸透したのは「うちの親は馬鹿」という発想である。
フロイト全盛の20世紀は、「父」や「母」という大文字の記号と戦っていたのだが、21世紀の新自由主義の社会では、「うちの親は出来が悪い」とこどもが愚痴るようになった。
父や母を偉大だと考えるのは神経症空間だと言えるので、「うちの親は馬鹿」という見方の広がりは健全だと言える。







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