1899 川端康成
1901 佐藤栄作
1906 朝永振一郎
1907 湯川秀樹
1918 福井謙一
1921 南部陽一郎
1925 江崎玲於奈
1926 小柴昌俊
1928 下村脩
1930 鈴木章
1935 根岸英一
1935 大江健三郎
1936 白川英樹
1938 野依良治
1939 利根川進
1940 益川敏英
1944 小林誠
1959 田中耕一
1962 山中伸弥


団塊世代は非常に人口が多い世代でありながら、ノーベル賞受賞者が0である。ノーベル賞受賞者の大半は戦前の教育で育っており、戦後となると、1959年生まれの田中耕一を待たなければならない。団塊世代は大学紛争に明け暮れたが、ゲバ棒を振り回し、掛け声は勇ましいものの、機動隊が学生を殺せるわけがないという確信が前提になっており甘えていた。本気で共産主義に身を投じて政府転覆を狙ってるわけではないから、血で血を洗う本当の殺し合いへと戦端を開くことは無かった。これから大企業に就職することになる彼らが、機動隊との殺し合いを望むわけもない。学生達を結びつけた紐帯は、自らの人権が守られているという安心感だ。特高警察に捕まり拷問死させられることはありえず、民主主義という恩寵に恵まれ、その熱気を味わうために暴徒になっているのである。全共闘は学生運動ではなく学級崩壊と呼ぶべきである。権威を馬鹿にすることに心血を注いだのである。ここが反知性主義の根っこである。フィールズ賞の森重文は1951年生まれであり、団塊の直後だが、東大入試が中止になり京大に行ったことで学問に打ち込むことが出来た。数年早く生まれていたら、森重文は存在しなかった。全共闘の発端は東大医学部のインターン制度を巡るものだが、安田講堂が落城した時、逮捕された学生のうち東大生はわずか6パーセントだった。この世代において、見合い結婚と恋愛結婚の比率が逆転した。また核家族を選択しており、親の介護を放棄したのである。暴動が正当化された世代なので、それに応じた人間が出来上がったのだ。彼らは生傷が絶えないような人生を送ったのではなく、死線をさまようつもりなど毛頭無く、戦後民主主義に守ってもらえるという確信に基づいた人権ゴロなのだ。人間が世代から逃れることはかなり困難である。同世代と文化を共有することで人間は存在している。たとえば2014年に生きている少年少女がスマホを持たずLINEをやらないことは可能ではあるが、かなりの変わり者と見なされるだろう。その時代の文化に同期して存在しなければならない。遠い昔の古典的な文献を書架の奧から引っ張り出して読むのは可能ではある。とはいえ、肉体を持たされて、その生命維持を強いられているからには、同時代の文化と同期しておかなければならない。団塊は1970年あたりで大学を卒業しているが、なぜか戦後の復興を担ったという嘘の物語を生きている。1947年生まれの団塊で中卒でも、社会に出たのは1963年である。東京タワーが出来たのは1958年だ。東海道新幹線が開通し、東京五輪が行われたのは1964年だ。戦後の焼け野原から立ちあがり、復興が終わった後に団塊世代は登場したのである。1970年に大企業に就職した人間が戦後の復興を担っているはずがない。復興を担ったという真っ赤な嘘を平気で吹聴してるのだから、団塊と韓国人のメンタリティーはそっくりと言われる。団塊の犯罪率の高さはよく知られるところである。三島由紀夫(1925年生まれ)が割腹自殺をしたのが1970年である。村上春樹(1949年生まれ)は団塊で唯一ノーベル賞の可能性があるが、三島由紀夫の作品は理解不能としている。1970年において、大きな文化的断絶が行われたのだ。また団塊世代には高名な経営者がいない。マクドナルドの原田社長は1948年生まれで団塊世代だが、逆の意味で著名である。非常識に行動すると有利になるという世代的な成功体験が原田を生んだのだ。こう考えてくると、個々人の優劣など存在しないということにもなる。松下幸之助(1894年生まれ)、本田宗一郎(1906年生まれ)、盛田昭夫(1921年生まれ)、稲森和夫(1932年生まれ)あたりでも団塊に生まれていたら原田レベルだったはずである。山中教授(1962年生まれ)のような有徳者でも団塊に生まれていたら、非常識な無能で女のケツを追っかけるだけの人生だった。上野千鶴子(1948年生まれ)は、団塊の集団ヒステリーが生み出した存在であり、別の時代に生まれていたらこういう非常識な人間が出来るはずがない。舛添要一(1948年生まれ)が韓国人だという虚偽の噂が流れるのも、団塊ならではの非常識人だからである。ビートたけし(1947年生まれ)は非常識が異才に転じた事例である。池田理代子、萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子、山岸凉子は団塊世代だが、なぜかこの世代の少女漫画のクオリティーの高さは突出しており、不思議な現象である。彼女たちはそこそこ学生運動に関わっており、時代性と無縁ではないのだが、団塊の俗物根性は作品に見られない。70年代の少女漫画は上野千鶴子のようなドブスがヤリマンになるという話ではなく、恋愛に目覚め性に関心を持ちながらもストイックであり、最高の相手と結ばれ処女を捧げたいという願望が根底になっている。この時代を終えてしまうと(1980年代のバブルになると)もはや処女とかどうでもいいという話になり、村上春樹の作品がたくさん読まれる土壌が整う。また1990年代に女子高生ブームというのがあり、おっさんが女子高生の頬を札束で叩く社会現象が起こったが、この頃の団塊世代は40代である。団塊が50歳を越えると、この種の行為は凶悪犯罪として警察が地の果てまで追い詰めるようになった。最近は新自由主義(自らの選択の結果)が流行っているのでわかりづらくなっているが、現在の世の中でも実態は世襲制である。人生に選択権はない。非業の死という表現があるが、むしろ女が孕んで生命が宿ることが非業である。女の腹が膨れて、子宮内で育っている胎児の肉体は、この世に生まれ落ちた瞬間から拘束具になる。肉体は時間という鎖でがんじがらめになっており、時間から脱出することは出来ない。時間の経過に唯々諾々と従い、時代性に取り込まれ、決められた方向に歩き続け、旅塵に塗れ、長患いの末にこときれて死んでいく。恵まれた環境に生まれ高貴な賓客のように優雅な人生を過ごす人もいるが、それも(ある意味)強いられているのである。決して自分で人生を選択したわけではない。医者の息子が医者になるのは、それを強いられたのであり、決して自分で選んでない。団塊は俗世間をケダモノのように徘徊した世代だが、彼らにしても、まともな人格を持つ機会を失った世代であり、人口がやたらと多いのにノーベル賞がひとりもいないという知性の貧しさを抱え、品性のないゴロツキになった気の毒な存在なのだ。とはいえ、団塊が多額の年金を貰い続け続けている問題には、われわれも眦を決して槍の穂先を向けるべきだろう。団塊は60代後半だから、まだこれらの泥棒貴族から奪還することは可能である。放蕩人として悪行の限りを尽くしたのだから、みじめな老後がふさわしい。戦前の日本を文化的に未開のように考える風潮があり、教育も間違っていたと言われるが、実際は軍部がホームラン級の馬鹿だっただけであり、多くのノーベル賞学者を生み出した教育システムだった。ネトウヨは戦前の軍部を崇拝し、民間の知識人の偉大さを知らないので、言語に絶するしかない。在日より、団塊の方が癌だということにも気づいていない。







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