岩波書店を作った岩波茂雄は藤村操(華厳の滝に飛び込んだ学生)の友人であった。藤村操が自殺してから精神的に不安定になり、旧制第一高等学校を中退してしまう。その後東京帝国大学哲学科選科に入学するが、この「選科」というのは要は本科生ではないということである。この当時は東京帝国大学に入るには旧制高校卒であることが必要だったので、それ以外のルートだと「選科」と扱われる。似たような境遇の西田幾多郎のエッセイを読むと、大学内での扱いも本科と選科は別だったたらしいので、おそらく聴講生のようなものだと思われる。その後、岩波重雄は岩波書店を作り、軌道に乗せる。藤村操の友人が岩波書店の創業者となったわけである。岩波書店は古本屋としてスタートしたが、出版社として最初に出したのは夏目漱石の「こころ」であった。夏目漱石と岩波茂雄を結びつけたのは安倍能成である。安倍能成は後の文部大臣になる人物だが、岩波茂雄とは旧制第一高等学校の同窓である。この安倍能成は藤村操の妹と結婚しているのである。藤村操が自殺する数日前に、若き日の夏目金之助が叱りつけたという出来事があり、漱石はこれを気に病んでいたとされる。「こころ」のモチーフも藤村操を連想させると言えるし、藤村操の自殺から岩波書店という教養主義の総本山が生まれたと言える。

岩波茂雄は藤村操の自殺に影響されて出奔した出来事について、次のように書いている。
明治三十六年の夏、私は信濃の国の北奥野尻湖上、人の住まぬ孤島に唯一人閑寂な生活を楽しんだことがある。
その頃は憂国の志士を以て任ずる書生が「乃公出でずんば蒼生をいかんせん」といつたやうな、慷慨悲憤の時代の後をうけて人生とは何ぞや、我は何処より来りて何処へ行く、といふやうなことを問題とする内観的煩悶時代でもあつた。
立身出世、功名富貴が如き言葉は男子として口にするを恥ぢ、永遠の生命をつかみ人生の根本義に徹するためには死も厭はずといふ時代であつた。
現にこの年の五月二十二日には同学の藤村操君は「巌頭之感」を残して華厳の滝に十八歳の若き命を断つてゐる。

悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチーを値するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉す曰く「不可解」。我この恨を懐て煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。初めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。

青天の霹靂の如く荘厳剴切なるこの大文字は一世の魂をゆりうごかした。
当時私は阿部次郎、安倍能成、藤原正三君の如き畏友等と往来して常に人生問題になやんでゐたところから他の者から自殺でもしかねまじく思はれてゐた。
事実藤村君は先駆者としてその華厳の最後は我々憬れの目標であつた。
巌頭之感は今でも忘れないが当時これを読んで涕泣したこと幾度であつたか知れない。
友達が私の居を悲鳴窟と呼んだのもその時である。
死以外に安住の世界がないと知りながらも自殺しないのは真面目さが足りないからである、勇気が足りないからである、「神は愛なり」といふ、人間に自殺の特権が与へられてゐることがその証拠であるとまで厭世的な考へ方をしたものである。
かかる感傷的な気分にかられたるが故に山色清浄なる境域に静思を求めたのであつた。

今日だと岩波書店の本を読む人はとても少ないが、戦前は進学率も低いので、いろいろと余計なことを考える余裕があったようである。煩悶する旧制高校の学生のメンタリティーが岩波書店によって再生産されたのだ。1926年に改造社が廉価な円本を出したあたりでは、岩波も経営不振に陥ったようだが、1927年に価格の安い岩波文庫を創刊して、それに対抗した。1939年に津田左右吉が聖徳太子の実在性を疑った記述をしたことで、問題となった。1940年に津田左右吉と岩波茂雄が起訴される。執行猶予付きの有罪判決が出たが、控訴され、その後なぜかうやむやになり時効となる。そしてこの頃は、本が飛ぶように売れたらしい。

岩波茂雄の娘と結婚した小林勇は「惜櫟荘主人」(講談社文芸文庫)でこのように記述している。
津田事件のために、岩波は打撃をうけたが、仕事については却って張切っていた。このころ紙その他の物資が次第に不足して来たのと労働力の不足などのために生産が落ちてきた。それに加えて戦争景気が出て来たために本の売行は猛烈によかった。ストックはどんどん出てしまい、倉庫は空になる勢であった。岩波書店はじまって以来の売行を挙げた。或るとき岩波は私に、半期の売上額が三百万円になったと驚いたように話した。次第に品切の書目が多くなった。言論統制は日毎にひどくなり、時勢に逆うものの存在を許さなくなったが、一方においては自然科学書、殊に工科関係のものは軍需生産に従事する連中、またその方面にゆく学生が増えたために需要が急に多くなった。岩波書店の出版物には自然科学のものも多かったので売上げは減ることがなかった。

戦争末期1945年5月にこの小林勇が特高に捕まった。この頃は岩波書店も機能してなかったようである。本来なら獄死するパターンだったが、戦争終結により、三ヶ月かそこらで解放されることになった。なお、岩波茂雄はお咎め無しであった。理由は不明だが、岩波茂雄は周囲の反対を押し切って貴族議員になっていた。それも影響したかもしれない。岩波茂雄のエピソードを読んでいると、あまり気が回らないタイプであり、夢中になったことに突き進んでいく。懸案となってる事項に対しては嫌がって先延ばしにするが、突発的に新しいことを思いついてはやり始める。嫌なことから逃亡して新しいことを始めるというパターンの繰り返しであり、ADHDに近いものを感じるのだが、岩波茂雄は人と接するのが大好きであった。家に客を呼ぶのがとても好きであったらしく、そういう性質が人脈を作ったのである。また人から好かれるタイプだったようだ。旅行するのが大好きで、あちこち飛び回っていた。いろいろ大変な時期にあちこち旅行するのは、ちょっとおかしいとも思われる。娘婿が特高に捕まって拷問されている間も旅行に出掛けているのだ。ともかく、かなり活動的な人物だったようである。教養主義は「試験に出ない知識」である。戦後になって進学率が上昇するに従って、教養主義が衰退したのは自然の理である。岩波書店は電子書籍に極めて消極的である。岩波書店といえば、返品を認めない買い切り制度で知られる。岩波書店はもはや紙を売っているだけであり、文化を売っていないのである。







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