われわれは他人に評価されるために生きてるので、その時代の評価基準に合わせるわけである。他人から評価されなければ、餓死したり、性交の相手がいなくなるのだから、必死になるのは当然である。だからどうしても、その時代特有のパーソナリティーというのが出来上がる。今日の社会において、温厚でなければ人間ではない。怒りは暴力であり異常性である。人類は怒りで歴史を刻んできたのだが、そういう大きな物語は用済みとなったのである。発達障害が発見されたのも、時代性の問題である。かつては怒りまくるような人間は正常であった。父親は怒鳴り散らすのが正常であった。家父長制の消滅により、激怒しやすい人間は異常者として扱われることになった。アスペルガー症候群にしても、厳格で怒りっぽい気質は家父長として問題はなかったはずだが、今日では、その易怒性が障害とされるのだ。厳格さとは、状況を無視してルールを適用することである。封建社会ならそれでいいが、自由社会では盲いた狂気なのである。かつて激怒していた人間たちは、復員船に乗って戦地を離れ、自由で平和な社会に帰還することを求められる。今の世の中は世界史的なモンスターが誕生しない端境期とも言える。核ミサイルを撃ち合いたくないという腑抜けの集まりになった。怒りという武装は解除され、世の中から厳格さが消えたが、それで犯罪者が増えたわけではない。弱者に怒りをぶつければ厳格な人間として扱われる安易さは、ようやく否定されるようになった。われわれは温厚な人間であることを強制され、去勢されているのである。神経症から鬱へ人々の病理がシフトしたのは、こういう時代の変化もある。神経症とは厳格さによって生み出される。真面目であればあるほど素晴らしく、厳格であればあるほど素晴らしいという発想が、神経症の病因である。厳格さに歯止めが利かなくなると神経症になるのである。なにしろ、昔の世の中では厳格さが称揚されてるのだから、抑圧すればするほど素晴らしいという価値観も生まれうるのだ。今日においてわれわれは、そのような厳格さ(抑圧)から逃れたのだが、それで自由に飛び回れるわけではない。怒りを解除して温厚になろうが、人生のストレスはさして変わらないので、鬱という病態がメジャーになってくる。去勢された存在として機能停止になり横臥するようになったのだ。人生に対して無抵抗でバンザイした状態が鬱病なのである。今日では生きるだけなら誰でも可能になっている。結婚もせず、自分一人で細々と暮らすことなら出来るので、空腹に耐えかねて鞘から剣を抜くことはないのである。存在としてどれだけ朽ち果て死斑が浮かぼうが、愛する相手もおらず空閨をかこつとしても、口に入れる食べ物はある。本来なら白眼を剥いて血まみれになって横たわるべき存在が、植物人間のように生かされている。鬱病とは電池が切れたように動けなくなることだが、それが今風のライフスタイルなのである。犬や猫を去勢して寿命まで生かしておくような発想が人間にも適用されており、一滴も血が流れないおとなしい悲劇が進行しつつある。







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