2014.05.24
人間は世界を伝聞で理解している
われわれは森羅万象から疎外されている。この苦界に俘虜として産み落とされ、肉体に幽閉され、その肉体に付属した五感で周辺を垣間見ることしか出来ない。五感の到達する範囲は極めて限られている。肉体は遍在性と対極であり、空間の一カ所にしか存在出来ない。視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚、これで何がわかるというのか。その肉体が存在する座標の景色、その耳がある位置の音、舌の可動域に限定された味わい、手の届く範囲での触覚、鼻がある場所の匂い、それで世界全体はわかりようがない。どこまでも広がる暗闇の中で、手にした蝋燭の灯りが照らし出す部分だけが見えている。肉体の五感が届かない圏外を知るためには「情報」が必要になる。われわれ個々人が自らの五感で認識できる範囲は極めて狭く、世界のほとんどが圏外であるから、他人から聞いた話で世界を理解しているのである。つまり伝聞である。世界全体(森羅万象すべて)どころか、自分の肉体周辺しか認識出来ないのだから、伝聞でわかったつもりになるしかない。日本人の大半はフランスの大地を踏んだことがないが、フランスのことはよく知っているつもりである。「言葉」でフランスを説明されて、理解したつもりになる。そもそも日本人が一億三千万人いるとして、そのうちのほとんど全員と会うことはないのだ。世界はバケツリレーのように出来ていて、われわれはわけもわからず渡されたバケツを他人に手渡すわけだが、果たして消火作業なのか放火なのか、それは判然としない。誰もが不自由な肉体に縛り付けられている中で、伝播するのは言葉だけなのである。伝聞でしか理解できないわれわれは、サクラに弱すぎる。自分の意見として言うより、伝聞として伝えた方が効果的である。「知り合いの女子高生がこんなことを言っていた」という伝聞を創作するのがサブカル系の記事の基本である。伝聞として提示された話に反論することは出来ない。せいぜい伝聞の裏を想像してみるくらいである。出来るだけ妥当性の高い想像を行い、情報を検証するしかないのだ。われわれ一億三千万人の日本人は、(お互いをほとんど知らないながらも)6月になればサッカーワールドカップに熱狂することになっている。本田圭佑という巨大ビジネスを見せられるのである。それぞれが幽閉され、互いに接点のないわれわれが仮想的に連帯して手を取り合うのだ。本田圭佑という特異点から流される情報はほとんどが潤色されており、嘘だらけなのだが、その嘘にわれわれの関心が集約され、メッキだらけの煌びやかな像を結ぶのである。首の手術痕とギョロ目からバセドウ病であるのは断定できるのだが、それが取り上げられることはない。気づいてる人だけが、もやもやした思いを抱えているが、誰も気づいてないことになっている。情報の伝達はフラットではなく、影響力の格差による一方的な支配だ。西村が電通に魂を売った段階で全てが死んだのである。われわれは森羅万象から疎外されているだけではない。この肉体に付属する貧しい五感は西村の黒塗りの手で目隠しされている。どうせ死ぬのに人間は生まれてきて、どうせ死ぬのに生きるために何でもやり、頭の中もすっかり洗脳されて、西村の指図通りに本田圭佑と安倍晋三に熱狂して、苦界の生涯を閉じるのである。真理から遥遠いつんぼ桟敷に置かれているのが人間存在の本質であり、世界が未知であるがゆえに物語が生じるとも言えるのだが、この五年くらいまとめブログの言いなりになっているネットユーザーを見るにつけ、愚衆の脳味噌は西村が塗り絵をするためのキャンバスでしかないのであり、森羅万象(物自体)から遮断され、伝聞にコントロールされる人間存在の限界に思い至る。芦部信喜の名前を知らない人間が憲法を語る茶番がこの世界なのである。実際のところすべてが茶番では無かろうか。
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