この世に生きていて難儀なのは、他人を馬鹿にするのが合理的であることだ。馬鹿にされて怒る人間はいないわけである。尊重されるとたいてい怒るわけだ。丁寧に接するというのは「相手を立てる」ことだからクレーマー化することがままあり、どうしても(合理的に行動するなら)他人を馬鹿にするしかないのである。あなたの人生経験、自分自身や他人の言動の観察を含め、馬鹿にされて怒っている人間などいなかったはずである。激怒しているのは例外なく、尊重されている人間である。尊重されてない人は怒らない。パワハラされて怒り狂って上司の顔面を叩き潰す人間が100人に1人いるなら、パワハラはないに違いない。パワハラを100人にやれば(期待値として)鼻骨がひしゃげ前歯が全損し顔面麻痺の後遺症が遺るとしたら、誰もパワハラをしないだろう。身分制度において、下の人間は決して怒らない。奴隷は一片たりとも尊厳が残らないように蔑まれ馬鹿にされているから怒らないのだ。逆に身分の高い人間は尊重されているので怒る。それが世の中の仕組みなのである。そもそも法とは貧困層の管理である。親が金持ちである場合、犯罪を犯す必然性が極めて低い。腹を空かせた素寒貧が盗みを働いて鞭打ちにされ血に塗れるのを葉桜見のように愉しむのが貴族である。犬をやたらと大事に育てると権勢症候群になる。あくまで飼い主が主人で、犬は家来であるというケジメが必要なのである。そのケジメがなくなると、犬も威張り出すのである。犬と人間は同じなのである。蔑まれればおとなしくするし、大事にされたら威張り出すのだ。ハイスペックな人間の場合は、丁寧に振る舞うことで、「なんて謙虚な人なんでしょう」と賞賛されるのだが、それだけのスペックがなければ、他人の顔色を窺う弱者としか思われない。実際、あなたがよほどハイスペックでなければ、丁寧に振る舞っていて、相手がいきなり怒り出したという経験があるはずだ。やはり馬鹿にされて怒るのはみっともないという意識が人間には強くあり、屈辱で頭の血管が切れても我慢するのである。殺意を抑制することで気が遠くなり、悔しさで唇を噛み切っても怒りの声は出さない。しかしいざ尊重されるとなると、ストレス発散のために怒り出すのである。これは社会を成立させるのに必要な性質である。弱者の怒りに力があっては社会が成り立たない。弱者の怒りの無力性が世界の根幹である。馬鹿にされたら何がどうなろうが相手を殺すというのを徹底していれば、この世に身分などなかった、もしくは社会すらなかっただろう。馬鹿にされたら我慢するというのを人類が延々と反復してきたからこそ、社会があるのである。そもそも社会とは、建国神話を創作し、皇位を僭称することから始まる。聖者の起こした奇跡はすべてが嘘であるが、人間という根無し草の有象無象が意味もなく繁殖している無意味さを克服するには、奇跡という架空の特異点により正統性を打ち立てるしかないのだ。天啓を受けたと一芝居打ってみせてから天意を実行すると称し、他者を睥睨し蔑むことで、王者の風格をそなえるのである。







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